2019年4月2日火曜日

去勢文献

以下、資料の列挙(去勢コンプレクス、去勢不安のたぐいは省く)


■フロイトにおける去勢
去勢は…全身体から一部分の分離である[ Kastration …die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen](フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分の興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであ るーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)


■出産外傷
母を見失うという外傷的状況 traumatische Situation des Vermissens der Mutterは、出産という外傷的状況 traumatischen Situation der Geburt とは、決定的な点で食い違っている。出産の場合は見失うべき対象はない。不安だけが、この場合にあらわれる唯一の反応である。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)
オットー・ランクは、『出産外傷 Das Trauma der Geburt』で、子供のもっとも最初期の恐怖症frühesten Phobien と出産の出来事Geburtsereignissesとの関係を証明しようと、精力的な試みをしているが、私にはこれが成功しているようには思えない。これについて二種の非難が起こる。一つは、彼がある前提に立っていることである。子供は出産にさいして、特定の感覚的印象、ことに視覚的印象をうけていて、この印象を新たにするとき出産外傷の記憶 Erinnerung an das Geburtstrauma、ひいては不安反応Angstreaktionをひき起こしうるという前提である。

この仮定は証明できないあやしいものである。子供が出産過程Geburtsvorgangについて、触覚や一般感覚taktile und Allgemeinsensationen以上のものをもっているとは考えられない。

…第二にランクは…必要に応じて子宮内にいた幸福な時の記憶 Erinnerung an die glückliche intrauterine Existenzや、その外傷になった障害traumatische Störung の記憶を使いわけているが、それは解釈にあたって勝手気ままに振舞うことだという非難である。

子供の不安のどの例でもランクの原則をそのまま適用することは難しい。子供が暗闇におかれたり、ひとりぼっちになったりした場合、これを子宮内の状況の再現として、よろこんでうけとるだろうと期待しなければならぬことになる。しかもこの場合にこそ、子供は不安をもっておうずるというもが事実である。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)


■去勢(自分の身体だとみなしていたものの分離)による原初の自己愛的リビドー備給 
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



■ラカンおよびラカン派による象徴的去勢
シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
去勢 castration が意味するのは、欲望の法la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)
我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「一連の諸シニフィアン la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。

S1 はそこに介入する。それは「特定な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet 」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。⋯⋯⋯

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。

我々は勿論、フロイトから引き出した「喪われた対象の機能 fonction de l'objet perdu」をこの点から示し損なっていない。…「話す存在 l'être parlant」における固有の反復の意味はここにある。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)
すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの効果によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
・シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ?

・シニフィアンは享楽を「停止!」させるものである。Le signifiant c'est ce qui fait « halte ! » à la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴づけのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に包摂することは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧がある il y ait du refoulemen と私は理解している。(Lacan, S20 , 13 Février 1973)


■ラカンによる出産外傷・原初に喪われた対象
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜が破れるたびごとに、何かがそこから飛び散る。卵の場合も人間の場合も、つまりオムレットhommelette、ラメラlamelle(≒羊膜)での場合も、これを想像することができる。

⋯⋯対象 a (喪われた対象)について挙げることのできるすべての形態 formes は、ラメラの代理表象である(ラカン、S11、20 Mai 1964)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


 ◼️verlorene Objekt 喪われた対象
「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


◼️原ナルシシズム(自閉症的享楽)の底にある去勢
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


■ラカンによる原抑圧と去勢の等置
フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。la castration, ce soit dû à ce que Papa, à son moutard qui se tripote la quéquette, brandisse : « On te la coupera, sûr, si tu remets ça. »

(……)結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初にある le refoulement originaire était premier という考えに傾いていったのである。(ラカン『テレヴィジョン』AE529-530, Noël 1973)

フロイト自身、上に引用した1937年の論文で、オットー・ランクの「出産外傷」概念吟味での文脈だが、《出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうもの》としてこれを《原トラウマ Urtrauma》と呼んでいる。