2019年4月2日火曜日

二種類のサントーム

大きく言って、ラカンのサントームとは「リビドー固着」と、その固着と同一化しつつ「距離を取る」という二つの意味がある。

次の文における「症状との同一化」は「サントームとの同一化」、そして「症状から距離を取る」が「原症状としてのサントームから距離を取ること」である。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)


以下、二種類のサントームの定義をラカン自身あるいはラカン派注釈から掲げる。

◼️サントームの第一の意味
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは「身体の出来事」として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, L'être et l'un、XI . l’outrepasse、2011)  

ーーこの「身体の出来事」とはフロイトの《幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある》(『精神分析入門』1916)の「翻訳」である。

すなわちサントームの第一の意味は、リビドー固着である。

固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。原症状(サントーム)は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状のない主体はない」である。( Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq , 2002)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure, 2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)


◼️サントームの第二の意味
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008)
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

「父の名を使用する」というのが、サントームから距離を取ることであり、この手法の一つとして「非意味のシニフィアンの発明」ということが言われている。

何はともあれ私が言っていることは、シニフィアンの発明 l'invention d'un signifiantは、記憶とは異なった何ものかであることだ。子供はシニフィアンを発明しない。受け取るだけである。…なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

これが、ラカンがフロイトの遺書と呼ぶ論文にあらわれる、ラカン流の「魔女のメタサイコロジイ」である。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

⋯⋯⋯⋯

■梯子と脚立


ほかにも、症状から距離を取るために手段として、イデオロギー的父の名である「梯子」ではなく、「脚立」概念がある。

《誰もが引き出す予備の脚立 [ les escabeaux de la réserve où chacun puise ]》 (Lacan,« Joyce le symptôme »,1975). 


梯子という用語は、前期ラカンにおいて次のように現われる。


去勢 castration が意味するのは、欲望の法la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)

以下、脚立概念のミレール注釈である。

脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。
escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…

脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている L'escabeau, c'est un concept transversal. Cela traduit d'une façon imagée la sublimation freudienne, mais à son croisement avec le narcissisme. …
私は自問した、サントームと脚立とにあいだに線を引くことを試みようかと je me disais que je pourrais essayer un parallèle entre le sinthome et l'escabeau。脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。

他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントームの固有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…(JACQUES-ALAIN MILLER, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014 )

ミレールはここで「非意味のサントーム」と「有意味の脚立」を区別しようとしているが、原症状から逃れるための別の症状という意味では、どちらも脚立として捉えうる。

たとえば現在、一部で「オープンダイアローグ」なるものが注目されているが、あの手法は基本的には、脚立でありパロール享楽の審級にある筈である、《脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある》。これは実際上は、前エディプス的主体に対しては、かつてから、仮に公然とではないにしろ、ひそかになされていた手法のヴぇリエーションである。

倒錯構造の患者の「自由連想」と治療者の「自由に漂う」注意力は、次の状況を起こしがちである。すなわち倒錯者が(神経症的)治療者を取り扱う(治療する treat)という状況である。何の不思議なことでもない、頻繁に倒錯者を扱う分析家は集団療法を提案しているのは。それは転移的関係性を制御できるようにするためである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、2001年)

このバーハウの言っていることは、父の名の斜陽の時代は、前エディプス的主体(倒錯的主体、精神病的主体)が多くなるという文脈のなかで読む必要がある。現在の社会構造的環境では、旧来のフロイト的臨床手法は機能することが少なくなっているのである。

一神教ではない日本ーー前エディプス的主体が多い日本ーーでは、もともとフロイトの「自由連想」「寝椅子」療法は、うまく機能しないという立場もかねてからある。

… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

そもそも現在の先端ラカン派においては、フロイト流「徹底操作 durcharbeiten
」、つまり古典的ラカン流「幻想の横断 traversée du fantasme
」は臨床手法として否定されつつある。

身体の享楽(リビドー固着)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe)

もっとも依然として古い手法に固執している旧套フロイト・ラカン派がいまだ多数残存しているという「不幸」があるが。

⋯⋯⋯⋯


以上、結局、脚立とは原症状に対する別の症状の構築である。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)

したがって最も簡潔に図示すれば次のようになる。




かつての父の名の時代(神経症の時代)であれば、精神分析によってイデオロギー的父の名を取り払えば(フロイトの自由連想による徹底操作、ラカンの幻想の横断、主体の解任)、その底には原症状としてのリビドー固着が現われる。この固着に対処するのが現在の真の精神分析である。

現在の父の蒸発の時代であれば、神経症的エディプス後の主体ではなく、前エディプス的主体が多くなっている(倒錯、精神病的主体)。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)


前エディプス的主体は既になんらかの形で、精神分析を経ずに自ら固有の症状を作っていることが多い。とくに倒錯者においては、精神病のように過剰な妄想に悩まされず、安定した症状形成をしている場合がある。

したがってジャック=アラン・ミレールは次のように言うのである。

ラカンの不安セミネール10では、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

倒錯者における前者の対象a(「欲望の原因 cause du désir」)は主体の側にある。…

神経症者における後者の対象a(「欲望の対象 objet du désir」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)

神経症者は「欲望の原因としての対象a」に基本的には気づいていない(「分析」が必要である)。前エディプス的主体(倒錯者に代表される)は、「 欲望の原因としての対象a」に分析なしでも気づいている。これが倒錯者には旧来の精神分析の手法(自由連想、幻想の横断等)は機能しないと言われてきた主要理由である。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

この文脈で上に引用したラカン発言を読むことができる。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)


ラカンが使う「倒錯」という語の扱いには注意しなければならないが、以下の文を読むと、ラカンはほどんと倒錯のすすめをしている。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的であるtoute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
我々はみな知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めの)ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。

そしてこの理由で、後期ラカンは「父の隠喩 la métaphore paternelle」について皮肉を言い得た。彼は父の隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(JACQUES-ALAIN MILLER L'Autre sans Autre 、2013)

この理由で「一般化倒錯 perversion généralisée」ということが、現代ラカン派で言われている(参照)。


※原症状としてのリビドー固着の詳細については、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」を見よ。

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※付記

フロイトはこう言っている。

フェティシストは、後々の生活においても、さらに他の利点として、性器代理物Genitalersatzesが非常に役立っていると感じている。フェティッシュは、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否 verweigert されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足 sexuelle Befriedigung は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、フェティッシュにとってはぜんぜん気にもならないのである。(フロイト『フェティシズムFetischismus 』1927年)

他人に迷惑がかからない限りで、フェティッシュは最もすぐれた症状でありうる。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)


そもそも言語活動自体がフェティッシュでありうる。

言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構fictionnelである、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


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※追記

私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものだ j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…

サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン、S23、17 Février 1976)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979)
La métaphore du nœud bor-roméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le sym-bolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'es-sentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser