フロイトは超自我概念を初めて提出した『自我とエス』第3章で、自我理想と超自我を等置している。
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自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる。eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)
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もっとも、上の文に引き続く『自我とエス』を厳密に読めば、自我理想と超自我は同じではないと読みうる箇所もある。
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最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的 allgemeine und nachhaltigeであるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における父との同一化である(註)Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit。(フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)
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註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(同『自我とエス』第3章、1923年)
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ーーこの注に「母」という語が出現している。だがそうであっても曖昧である。
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このため一般には現在に至るまで、同じものと扱っている人が多い。ほとんどのフロイト学者がそうであり、ドゥルーズもそうである。日本では中井久夫や柄谷行人でさえ超自我と自我理想の区別ができていない。
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だがラカンは最初期から次のように言った。
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太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
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そして最晩年にも、自我理想と超自我を明瞭に区別している。
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自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン、S24, 08 Février 1977)
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自我理想は象徴界の審級にあるということは、超自我は象徴界外(言語外)の審級にあるということである。《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
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前期ラカンは、父の名は象徴的なものだと言った。
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父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン、ローマ講演、1953)
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ーー《父の名は象徴界にあり、現実界にはない。le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel》. ( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)
ーーこの「父の名」がフロイトの「自我理想」のことである。
もっともラカンには後年「父の諸名 les Noms-du-Père」、つまり複数化された父の名等があるが、これは1959年4月8日のセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と宣言しつつ決定的転回したことに関わり、これは《父の名を終焉させたle Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin.》あるいは《大他者は仮象に過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant》ということである(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas - 20/11/96よる)。つまり象徴界は仮象に過ぎない。単数の父の名も仮象に過ぎない。
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ここで現在ラカン派で使われる語彙群を並べればこうなる。 なお晩年のラカンは女というものは神の別の名だと言っているが、この女というものは、究極的には母なる女であり、神とは超自我のことだと以下の発言群からわたくしは捉えている。
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