2020年5月1日金曜日

超自我との同一化(現実界的同一化)


フロイトは超自我概念を初めて提出した『自我とエス』第3章で、自我理想と超自我を等置している。

自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる。eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)

もっとも、上の文に引き続く『自我とエス』を厳密に読めば、自我理想と超自我は同じではないと読みうる箇所もある。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的 allgemeine und nachhaltigeであるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代 persönlichen Vorzeit における父との同一化である(註)Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit。(フロイト『自我とエス』、第3章、1923年)
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(同『自我とエス』第3章、1923年)

ーーこの注に「母」という語が出現している。だがそうであっても曖昧である。
このため一般には現在に至るまで、同じものと扱っている人が多い。ほとんどのフロイト学者がそうであり、ドゥルーズもそうである。日本では中井久夫や柄谷行人でさえ超自我と自我理想の区別ができていない。

だがラカンは最初期から次のように言った。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

そして最晩年にも、自我理想と超自我を明瞭に区別している。

自我理想 Idéal du Moiは象徴界で終わる finir avec le Symbolique。言い換えれば、何も言わない ne rien dire。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 force démoniaque…それは超自我 Surmoi だ。(ラカン、S24, 08 Février 1977)



自我理想は象徴界の審級にあるということは、超自我は象徴界外(言語外)の審級にあるということである。《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

前期ラカンは、父の名は象徴的なものだと言った。

父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン、ローマ講演、1953)


ーー《父の名は象徴界にあり、現実界にはない。le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel》. ( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)

ーーこの「父の名」がフロイトの「自我理想」のことである。

もっともラカンには後年「父の諸名 les Noms-du-Père」、つまり複数化された父の名等があるが、これは1959年4月8日のセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と宣言しつつ決定的転回したことに関わり、これは《父の名を終焉させたle Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin.》あるいは《大他者は仮象に過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant》ということである(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas - 20/11/96よる)。つまり象徴界は仮象に過ぎない。単数の父の名も仮象に過ぎない。


ここでフロイトの超自我の記述をいくら見てみよう。1930年には同一化によって超自我が生まれると言っている。

幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。 するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)

とすれば、初めて超自我概念を提出した『自我とエス』(1923年)以前の論文を参照することができる。
ここでは1921年の論文を引こう。

父との同一化 Identifizierung mit dem Vaterと同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母にたいする依存型の本格的対象備給richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus を向け始める。ここで、彼は二つの心理的に異なった結合を示す。それは母への自然な性的対象備給 Mutter eine glatt sexuelle Objektbesetzung と、父にたいする典型的な同一化Vater eine vorbildliche Identifizierungである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

ーー《備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen》(フロイト『無意識』1915年)

もう一つのパラグラフをも引こう。

われわれは以前にそれを、「自我理想」と名付けて、自己観察、道徳的両親、夢の検閲、抑圧のさいの主要な影響力をその機能に帰した。それは、小児の自我が自己満足を得ている原ナルシシズムの後継者Erbe des ursprünglichen Narzißmusであることをすでに述べた。(フロイト 『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

この二つの文でフロイト は父との同一化あるいは自我理想が生まれる以前に、「母への自然な性的対象備給」  「原ナルシシズム」があると言っている。
こうしてフロイト の死の枕元にあったとされる草稿の「原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung」という表現を参照できる。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章草稿、死後出版1940年)

母の乳房が原ナルシシズム的リビドー備給の対象だとある。わたくしはメラニー・クラインをほとんど知らないが、彼女の超自我の定義はこうである。

私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

クラインがフロイト のテキストからこう読み取ったのか、彼女の臨床眼からこう言ったのかは知らない。何はともあれラカンはこのクラインを依拠しつつ次のように言ったのである。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついている。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

ただしラカンは母の乳房が超自我の核だとは言っていない。より一般化した表現を使っている。母なるシニフィアンもしくは原シニフィアンである。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する原シニフィアンpremier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……父はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

この唯一の徴としての母なるシニフィアンは、幼児の身体から湧き起こる享楽の侵入という奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。次の文はその意味である。

「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17、11 Février 1970)

この母による幼児の身体の上への刻印ーー「母の徴」と簡潔に言ってもよいーー、それをラカンは後年、骨象(文字対象a)とも呼ぶ。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)

二つの注釈を掲げよう。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

こうして見れば、母なるシニフィアン、原シニフィアンとはフロイトの固着=刻印なのである。

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)
フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
享楽はまさに固着にかかわる。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

そしてこの固着=刻印としての母なるシニフィアンが母なる超自我=原超自我にかかわり、現在のラカン派ではこの母なる超自我が超自我自体とされている。
たとえばラカン の次の文は、固着(享楽の固着)が超自我の核であるゆえのものと捉えうる。

超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)


したがって、母なる徴による固着(享楽の固着)は、たとえばフロイトの次の文にダイレクトに関わる。

母へのエロス的固着の残滓、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章草稿、死後出版1940年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

固着とは身体的なエスの欲動蠢動が心的なものに翻訳されず、エスのなかに居残るということである。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

こう捉えないと、次の文は理解しがたい。

超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

フロイト曰くのエスのなかに置き残された原始時代のドラゴンとは、太古の欲動である。

私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

冒頭近くで引用したように、ラカンが母なる超自我を太古の超自我というのは何よりもまずこのエスに起源があるという意味である。
これは次の二文が証する。

(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン,S7, 16 Décembre 1959)

ーーラカン は後年、《フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ》(S23, 13 Avril 1976)と言っている。

現実界のなか、つまりエスのなかに置き残された母なる徴、これが死の欲動の名である。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
私が「徴 la marque」と呼ぶもの、「唯一の徴 trait unaire」…この唯一の徴 trait unaire の刻印 inscription とは、…死の徴(死に向かう徴付け marqué pour la mort) である。(Lacan, 10 Juin 1970)

ーーそして、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)。

こう引用して確認しておこう。

死の欲動…それは超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)


以上、結局、超自我とは母の代理人なのである。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』1938年)


そして父とは、この母なる超自我(超自我自体)を飼い馴らすさらなる代理人である。これが自我理想あるいは父の名と呼ばれるものである。

ここで現在ラカン派で使われる語彙群を並べればこうなる。








なお晩年のラカンは女というものは神の別の名だと言っているが、この女というものは、究極的には母なる女であり、神とは超自我のことだと以下の発言群からわたくしは捉えている。


母なる女という神
一般的には神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
女というものは存在しない。女たちはいる。La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)



最晩年のフロイトにおいても、父なる神は母なる神の代理の神に過ぎない。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

もっとも代理人で何も悪いことはない。母なる神はあまりにも距離のないアンビバレントな存在だから。距離のない狂宴(母なるオルギア)に対するつつしみ(父なるレリギオ)は必要だろう。


さらにローマのレリギオ(religioつつしみ)の向こうには、ギリシアのアイドース(恥)があり、カール・ケレーニーによれば、これが古代ギリシアの最も重要な宗教的感性だということである。

…………

以上、論理的には超自我との同一化は、現実界的同一化である。超自我のシニフィアンはS(Ⱥ)であり、かつまたこのシニフィアンは次の語彙群をも示す(参照:文献集X)。



固着あるいはサントームは現実界の境界表象であり、すなわち現実界的シニフィアンである。したがって超自我も現実界の審級にある。

ラカン派ではしばしば想像的同一化と象徴的同一化が語られるが、リアルな同一化について語る注釈者をわたくしは知らない(ラカン自身にはセミネール22とセミネール24にわずかにその暗示がある)。

ここでは当面、次の図を示しておくが、あくまで現在のわたくしはこう捉えているという意味であり、仮のものとしてもよい(参照:理想自我 i(a) 、自我理想 I(A) 、超自我 S(Ⱥ)