母との同一化は、母との結びつきを押し退ける。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
父との同一化は父の場に自らを置くことである。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1938年) |
ーーここでの同一化は、母との同一化も父との同一化も場への同一化であり、エディプス期における同一化である。それ以外に前エディプス期における同一化がある。 |
女性の母との同一化は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期の相、すなわち母への情動的結びつきと母をモデルとすること。そして、② エディプスコンプレックスから来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。 Die Mutteridentifizierung des Weibes läßt zwei Schichten erkennen, die präödipale, die auf der zärtlichen Bindung an die Mutter beruht und sie zum Vorbild nimmt, und die spätere aus dem Ödipuskomplex, die die Mutter beseitigen und beim Vater ersetzen will. (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続・精神分析入門講義』第33講、1933年) |
上の文では、フロイトは女児における前エディプス期の母への同一化しか書いていない。男児には母との同一化はないのか、との問いが生まれる。 フロイトは、男児において父との同一化に先行して母への対象備給があると書いている。 |
父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母への依存型の本格的対象備給を向け始める。Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年) |
さらに次の文を読んでみよう。 |
個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった。Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. おそらくこの同一化という取り入れを通して、自我は対象を放棄することを促進あるいは可能にする。おそらくこの取り入れがエスが対象を放棄する条件である。・・・そして自我の性格はこの放棄された対象備給の沈殿であると想定しうる。Vielleicht erleichtert oder ermöglicht das Ich durch diese Introjektion, [...] das Aufgeben des Objekts. Vielleicht ist diese Identifizierung überhaupt die Bedingung, unter der das Es seine Objekte aufgibt. [...] und kann die Auffassung ermöglichen, daß der Charakter des Ichs ein Niederschlag der aufgegebenen Objektbesetzungen ist,(フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
「対象備給は同一化とは互いに区別されない」とあるように、男児にはおいても前エディプス期における母との同一化があるという風に読める。 |
したがって男女ともに前エディプス期には母との同一化があるのである。 |
ちなみにーー、《備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen》(フロイト『無意識』1915年)である。 母への対象備給の出発点は、母の乳房だともある。 |
非常に幼い時期に、母への対象備給[Mutter eine Objektbesetzung ]がはじまり、対象備給は母の乳房[Mutterbrust]を出発点とし、アタッチメント型[Anlehnungstypus]の対象選択の原型を示す。Ganz frühzeitig entwickelt es für die Mutter eine Objektbesetzung, die von der Mutterbrust ihren Ausgang nimmt und das vorbildliche Beispiel einer Objektwahl nach dem Anlehnungstypus zeigt; ,(フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
これは最晩年の論文でも繰り返される。 |
子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。 疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。 |
乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年) |
ところでフロイトの定義において同一化は超自我を生む。 |
幼児は、優位に立つ他者を同一化によって自分の中に取り入れる。 するとこの他者は、幼児の超自我になる。das Kind [...]indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年) |
こうしてまずメラニー・クラインの超自我の定義が正当化される。 |
私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951) |
ラカンもクラインの名を出してこう言っている。 |
母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに分節化される。 Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN, […] Au niveau du premier autre en tant qu'il est le support pur et simple des premières demandes, des demandes si je puis dire émergentes, de ces premières articulations vagissantes de son besoin au niveau[…] des premières frustrations, […] quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule. (Lacan, S.5, 02 Juillet 1958) |
上のラカンの発言は1958年だが、最初期の1938年にも既に次のように記している。 |
太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque(ラカン, LES COMPLEXES FAMILIAUX , 1938) |
以上、仮に超自我という語を使うなら、エディプス的超自我と前エディプス的超自我があるのである。 |
「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。 …問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel : […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958) |
ラカンにおいては、何よりもまずエディプス的父なる超自我と前エディプス的母なる超自我である。 |
もっとも現代ラカン派ではエディプス的超自我を父の名と呼び、前エディプス的母なる超自我が、超自我自体とされる。 初期ラカンの父の名の定義は次の通り。 |
父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン、ローマ講演、1953) |
要するにエディプス的父なる超自我とは、象徴的父の名である。 |
父の名は象徴界にあり、現実界にはない。le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005) |
そしてこの象徴的父の名は、フロイトの自我理想に相当する。 |
自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる。eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist(フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
フロイトは自我理想と超自我を、上の文をはじめとして明晰には区別していない。だがラカンはこれを截然と区別した。 |
エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971) |
自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。 l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (ラカン、S24, 08 Février 1977) |
ここまで記したことを簡単にまとめればこう図示できる。
なお象徴的同一化としての父の名は、生身の父ではなく二者関係から三者関係への移行という観点が核であり、例えば祖母や教師が父の名であってもよい。身体的な享楽に対する防衛という意味では言語でさえ父の名である。 |
言語は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père. ( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96) |
ところでーー、である。このように截然と区別してしまうと冒頭近くに掲げた文の処理が困難になる。
女性の母との同一化は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期の相、すなわち母への情動的結びつきと母をモデルとすること。そして、② エディプスコンプレックスから来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。Die Mutteridentifizierung des Weibes läßt zwei Schichten erkennen, die präödipale, die auf der zärtlichen Bindung an die Mutter beruht und sie zum Vorbild nimmt, und die spätere aus dem Ödipuskomplex, die die Mutter beseitigen und beim Vater ersetzen will. (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続・精神分析入門講義』第33講、1933年) | |||||||||||||||||
フロイトは②において、エディプス期における母との同一化を言っているのである。これを受け入れるなら、論理的には象徴的母なる超自我となる。 さてどうしたものか? ここでは当面保留して上の「女性性」の文の前後をもう少し長く引用しよう。
冒頭の人形遊び自体、エディプス的な母との同一化にかかわると読める。前エディプス的母との同一化における受動性を能動性へと転換するひとつの仕方として。 ここで最も標準的な男性におけるエディプスコンプレクスの記述も掲げよう。
このフロイトが主張する男性の同性愛発生のメカニズムは、標準的な女性における人形遊びのメカニズムと同様である。 そしてラカンはこのフロイトの観点を受け入れている。
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さてどうだろう。これを受け入れるなら、標準的な女性と男性の同性愛者は、象徴的な父なる超自我ではなく、「象徴的な母なる超自我」を持っていると言えないだろうか。もちろん現実界的な母なる超自我はあるにしろ。
ここでは当面、無難な「同一化」用語で図示しておこう。
冒頭にも示したが、誤解のないように再度強調しておけば、象徴界レベルでの同一化とは場との同一化であり、父や母を押し退けるという意味がある(それ以外に現実界に対する防衛としての象徴的同一化でもある)。 |
母との同一化は、母との結びつきを押し退ける。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
父との同一化は父の場に自らを置くことである。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1938年) |
そして標準的な女性の場合、母の場を自ら占めて場合によっては母を追い出し、母が愛してくれたように自らを愛す(ナルシシズム)、あるいはその場から父を愛したり、愛される(被愛)。後年には父の代理人を愛したり愛される。これは男性の同性愛もほぼ同じ機制なのは上で見た通り。
実はふと気づいたことを今ここで記している。もう少し考えてみる必要があるかもしれない。
…………
なおラカンはフロイトのエディプスコンプレクスを批判したが、その内実は、フロイトは父との同一化ばかりを言って、前エディプス期の母との同一化を言っていないということであり、実は深く読めばそうではないことをこの記事の前半で示したつもりである。
名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970) |
エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. ( Lacan, S17, 11 Mars 1970) |
実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。 これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère. ]… 父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique]における機能を特徴づける。我々はまさにこれを理想化された父[le père idéalisé]として示す。(Lacan, S17, February 18, 1970) |
…………
なお底部にあるリアルな超自我がエスの代理人である。 | |||||
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年) | |||||
したがって欲動の代理人である、《エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) | |||||
現代ラカン派ではダイレクトに「母の乳房」が超自我の起源とはいわず、「固着」という語にて示すようになっている。 | |||||
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) | |||||
フロイトの原抑圧は何よりもまず固着である。この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる[Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997) | |||||
超自我と原抑圧の一致がある。il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982) | |||||
分析経験の基盤、それはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) | |||||
精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年) | |||||
フロイトにおいてはたとえば次のような形で表現されている。 | |||||
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) | |||||
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) | |||||
ーー《我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。》(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
…………… ※付記 同一化はフロイトにおいて同一化の機制が最も簡潔に定義されている箇所掲げておこう。
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