2020年12月6日日曜日

乳児はみな女であり、母はみな男である

 表題を 「乳児はみな女であり、母はみな男である」としたが、もちろんメタ心理学的な意味では、ということである。

以下、この命題がどうして成り立つのかを文献列挙することによって示す。


受動性と能動性

男性的と女性的は、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている[Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne.]。〔・・・〕


だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべて、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆[Vermengung] をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との融合[Vereinigung von Aktivität und Passivität」をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』第3章、1905年)



ーーこの記述におけるフロイトにとって「受動性/能動性」が「女性性/男性性」であり、生物学的男女とは関係がないことがわかる。


そして、出生後一年近くは他の動物の胎児なみのヒト族の乳児は常に受動者であり、母は必ず能動者として現れるのは否定しようがない。



母なる能動者と幼児なる受動者

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質[passiver Natur] のものである。幼児は母によって、授乳され・食物をあたえられ・体を洗ってもらい・着せてもらい[gesäugt, gefüttert, gereinigt, gekleidet]、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固着[haften]したままで、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性[Aktivität]に向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的に吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 [passiven Erlebnisse] を遊戯のなかで能動的に反復[aktiver Wiederholung] して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 [tätiges Subjekt]として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)




上にもあるが、幼児にはあらゆる面において、受動性から能動性への移行がある。同じ論文からもうひとつ引こう。



幼児における受動性から能動性への移行

容易に観察されるのは、セクシャリティの領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象[passiv empfangener Eindruck]が小児に能動的な反応を起こす傾向[Tendenz zu einer aktiven Reaktion]を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。


それは、小児に課された外界に対処する仕事[Bewältigungsarbeit an der Außenwelt]の一部であって、…厄介な内容のために起こった印象の反復の試み[Wiederholung solcher Eindrücke bemüht]というところまでも導いてゆくかもしれない。


小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。


医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように、自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置gewalttätige Prozedur を反復wiederholenする[die gewalttätige Prozedur an einem kleinen Geschwisterchen wiederholen]。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』第3章、1931年)




さらにフロイトラカンの観察においては、乳児は母なる支配者の依存性のもとで貪り喰われる不安に遭遇する。


母に貪り喰われる不安

(原母子関係には)母なる女の支配[une dominance de la femme en tant que mère ]がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存[dépendance ]を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957)



ーーここは、異なった見解をもつ精神科医もいるし、標準的な人たちは甚だしく違和感をもつことだろう。


だが、乳児が出会う最初の大他者である母は、得体の知れない、強大な力をもったトラウマ的存在だというのがフロイトラカンの観点である。


どんなトラウマでも、ある得体の知れない力を受動的に体験することによって生じる。後年の人生では、人はその力を言語化して飼い馴らす。だが成人型言語の世界に入場以前の幼児には、言語による減圧化が不可能であり、些細な身体の出来事でもトラウマ的な印象を生みがちである。こういった観点において、母は原トラウマの名である、ーー《大文字の母は原穴の名である。Mère, […] c’est le nom du premier trou》(コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014)



受動性というトラウマ

トラウマを受動的に体験した自我 Das Ich, welches das Trauma passiv erlebtは、その状況の成行きを自主的に左右するという希望をもって、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す。


Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt hat, wiederholt nun aktiv eine abgeschwächte Reproduktion desselben, in der Hoffnung, deren Ablauf selbsttätig leiten zu können. 


子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行することによって、彼の生の出来事を心的に克服しようとするのである。


Wir wissen, das Kind benimmt sich ebenso gegen alle ihm peinlichen Eindrücke, indem es sie im Spiel reproduziert; durch diese Art, von der Passivität zur Aktivität überzugehen, sucht es seine Lebenseindrücke psychisch zu bewältigen.(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)

どの神経症も受動的なトラウマ的光景として出発している。それは不快なものとして経験される。受動性は女性性を意味する[passivity means femininity]。抑圧されたものの核は女性性である[the core of the repressed is femininity]。〔・・・〕


ラカンの現実界は、表象の彼岸に位置する。フロイトはこの表象の彼岸の何ものかを見出したのである。それは常に受動的・不快な・トラウマ的性質をもっている。受動性ゆえに女性性である。より厳密には、受動性は女性性の代替シニフィアン[S(Ⱥ) ]となる。〔・・・〕


言い換えれば、トラウマ的現実界にとってのシニフィアンは象徴界にない。このトラウマ的現実界が女性性である。フロイトは見出だしたのである、女というものにとってのシニフィアンはない、と。半世紀後、ラカン はこれをȺ[穴]と書き記した。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


ーー《現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».》(ラカン、S21、19 Février 1974)


人はみなこのトラウマ的現実界の穴=トラウマを拒否する。フロイトは「女性性の拒否」と言っているが、事実上、「受動性の拒否」である。



受動性の拒否 Ablehnung der Passivität

ヒステリーは、原初の不快の経験を必ず前提とする。この不快の経験は受動性である。女性における自然な性的受動性は、ヒステリーに導かれる傾向を説明する。私が男にヒステリー を見出だすとき、そこにありあまるほどの性的受動性を立証しうる。Die Hysterie setzt notwendigerweise ein primäres Unlusterlebnis also passiver Natur voraus. Die natürliche sexuelle Passivität des Weibes erklärt die Bevorzugung desselben für die Hysterie. Wo ich Hysterie bei Männern fand, konnte ich ausgiebige sexuelle Passivität. (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (⋯⋯)(例えば)男たちが本源的に抑圧しているのは、女性的要素であるWas die Männer eigentlich verdrängen, ist das päderastische Element(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellungをとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)


ーーラカン派ではこの「受動性の拒否」を穴に対する「穴埋め」と呼ぶ。ようするに穴に対する防衛である。穴埋めには何種類もあるが上の場合は原穴埋めである。


以上にて「乳児はみな女である」かつその乳児を世話する「母はみな男である」ーーこのことがフロイトラカン的思考から導き出されることを示したつもりである。


なお誤解のないように付記しておくが、母に貪り喰われる不安とは「融合不安」と言い換えたほうがいいかもしれない。こうすれば標準的な人たちにも違和感がいくらか少なくなるだろうから。そしてどの乳幼児も「融合不安」を抱く前に「分離不安」を感じるはずである。



分離不安と融合不安

最初の母子関係において、子供は身体的な未発達のため、必然的に、最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を引き起こす。〔・・・〕そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。


そのときの基本動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。この原不安は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話役としてもよい。寄る辺ない幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」がある。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。


フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」と呼びうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)




このポール・バーハウの記述は、「分離不安/融合不安」の区分が優れているとはいえ、彼が《フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった》とするのは、いささかmisleading であり、たとえばフロイトの『制止、症状、不安』には、分離不安がふんだんに記述されている。



不安は対象を喪った反応として現れる。〔・・・〕最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; ](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)

出産過程[ Geburtsvorgang] は最初の危険状況[ Gefahrsituation]であって、それから生ずる経済的動揺 [ökonomische Aufruhr] は、不安反応のモデル[ Vorbild der Angstreaktion ]になる。(……)あらゆる危険状況と不安条件[Angstbedingung] が、なんらかの形で母からの分離[Trennung von der Mutter] を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 [biologischer] な母からの分離、次に直接的な対象喪失 [direkten Objektverlustes]、のちには間接的方法 [indirekte Wege ]で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性[Hilflosigkeit und Abhängigkeit]ある。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界[realen Außenwelt ]の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben] をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。[Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; ]〔・・・〕


ある危機な状況 [Gefahrsituation]で不安の信号[Angstsignal]がある。つまり寄る辺なき状況が到来することを予感したり、現在の状況が過去に経験された寄る辺なき状況を思いださせることである。[Dies will besagen: ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse].(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

母という対象 [Objekt der Mutter]は、欲求[Bedürfnisses]のあるときは、切望[sehnsüchtig]と呼ばれる強い備給[Besetzung](リビドー )を受ける。〔・・・〕(この)喪われている対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給[ Sehnsuchtsbesetzung](リビドー)は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給[Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ]と同じ経済論的条件[ökonomischen Bedingungen]をもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)