2021年10月28日木曜日

身体の記憶の固着(プルースト )

 プルーストには記憶の固着[la fixité du souvenir]、肢体の無意志的記憶[une mémoire involontaire des membres]のレミニサンスの記述がある。


◼️記憶の固着[la fixité du souvenir]

人間たちを変化させる時も、われわれが記憶にとどめている彼らのイマージュを変更することはない。人間の変質と記憶の固着とのあいだの対立ほど痛ましいものはない。そんな対立に気づくとき、われわれは否応なく納得させられるのだ、記憶のなかにあれほどの新鮮さを残してきたひとが、実生活ではもはやそれをもちこたえることができないのを、そしてわれわれの内部であのように美しく見えるひと、もう一度会いたいというそれも非常に個人的な欲望をわれわれのなかにそそりたてるひと、そういうひとに外部に近づくことができるには、いまそれとおなじ年齢のひと、すなわち別人のなかに、そのひとを求めるよりほかはないのを。

Le temps qui change les êtres ne modifie pas l'image que nous avons gardée d'eux. Rien n'est plus douloureux que cette opposition entre l'altération des êtres et la fixité du souvenir, quand nous comprenons que ce qui a gardé tant de fraîcheur dans notre mémoire n'en peut plus avoir dans la vie, que nous ne pouvons, au dehors, nous rapprocher de ce qui nous parait si beau au dedans de nous, de ce qui excite en nous un désir, pourtant si individuel, de le revoir, qu'en le cherchant dans un être du même âge, c'est-à-dire d'un autre être.(プルースト「見出された時」)


◼️肢体の無意志的記憶[une mémoire involontaire des membres]のレミニサンス

一度、かなり早くジルベルトにわかれたあと、タンソンヴィルの部屋で、夜なかにふと目をさまし、なかばまだ眠りながら、「アルベルチーヌ」と呼んだことがあった。彼女のことを思っていたのでもなければ、彼女の夢をみていたのでもなく、ジルベルトととりちがえていたのでもなかった。


Une fois, que j'avais quitté Gilberte assez tôt, je m'éveillai au milieu de la nuit dans la chambre de Tansonville, et encore à demi endormi j'appelai : « Albertine ». Ce n'était pas que j'eusse pensé à elle, ni rêvé d'elle, ni que je la prisse pour Gilberte. 

私の記憶はすでにアルベルチーヌへの愛を失っていた。しかし肢体の無意志的記憶といったものがあるように思われる、それは他の無意志的記憶の、生気のない、不毛な模倣で、あたかも下等なある種の動物や植物が人間よりも長く生きているように、それは生きのこっているのだ。脚や腕は鈍磨した回想に満ちている。


Ma mémoire avait perdu l'amour d'Albertine, mais il semble qu'il y ait une mémoire involontaire des membres, pâle et stérile imitation de l'autre, qui vive plus longtemps comme certains animaux ou végétaux inintelligents vivent plus longtemps que l'homme. Les jambes, les bras sont pleins de souvenirs engourdis. 


それは私の腕のなかに瞬化したレミニサンスが、パリの私の部屋でのように、私に背後の呼鈴をさがさせたのだった。そしてそれが見つからないので、「アルベルチーヌ」と私は呼んだのであった、亡くなった女友達が夜よくそうしていたように私のそばに寝ているものと考え、そんなふうに二人でいっしょに眠りこんだ目ざめぎわに、私の手に見つからない呼鈴をアルベルチーヌがまちがいなくひっぱってくれることをあてにして、フランソワーズがやってくるのにどれだけ時間がかかるだろう、とそんなことを考えていたものと思われる。


Une réminiscence éclose en mon bras m'avait fait chercher derrière mon dos la sonnette, comme dans ma chambre de Paris. Et ne la trouvant pas, j'avais appelé : « Albertine », croyant que mon amie défunte était couchée auprès de moi, comme elle faisait souvent le soir, et que nous nous endormions ensemble, comptant, au réveil, sur le temps qu'il faudrait à Françoise avant d'arriver, pour qu'Albertine pût sans imprudence tirer la sonnette que je ne trouvais pas.  (プルースト『見出された時』)


後者は、より一般化して「身体の記憶のレミニサンス」とすることができるだろうが、仮に前者と混淆させれば、「身体の記憶の固着のレミニサンス」と言いうるかもしれない。




私は上のプルーストをロラン・バルトの次の文とともに読むことを好む。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)




………………


プルースト には次の記述もある。


私がジルベルトに恋をして、われわれの愛はその愛をかきたてる相手の人間に属するものではないことを最初に知って味わったあの苦しみ cette souffrance, que j'avais connue d'abord avec Gilberte, que notre amour n'appartienne pas à l'être qui l'inspire(プルースト「見出された時」)

ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. (プルースト「逃げ去る女」)


こういった文からドゥルーズ は次のように一般化した。


愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)


過去が刻印された肉体の傷、ーーところでこの表現は、フロイトにとってトラウマへの固着に相当する。


トラウマは自己身体の出来事 もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs ]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。

この固着と反復は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


上にある反復強迫とは死の欲動の別名である。ーー《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.]》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


そしてこの不変の個性刻印は永遠回帰する刻印と解釈されている。


同一の出来事の反復の中に現れる不変の個性刻印を見出すならば、われわれは「同一のものの永遠回帰」をさして不思議とは思わない。〔・・・〕この反復強迫〔・・・〕あるいは運命強迫 とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多く、新しく神秘的な動機を設ける必要はないように思う。


Wir verwundern uns über diese »ewige Wiederkehr des Gleichen« nur wenig,[…] wenn wir den sich gleichbleibenden Charakterzug seines Wesens auffinden, der sich in der Wiederholung der nämlichen Erlebnisse äußern muß.[…] der Wiederholungszwang, […] was man den Schicksalszwang nennen könnte, scheint uns vieles durch die rationelle Erwägung verständlich, so daß man ein Bedürfnis nach der Aufstellung eines neuen geheimnisvollen Motivs nicht verspürt. (フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


……………


なおドゥルーズも『差異と反復』で、ニーチェの永遠回帰とフロイトの死の欲動、そしてプルースト の無意志的記憶(の回帰)を結びつけている。


エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 》が示しているのは、まず純粋過去 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能の形式である。

Erôs est constitué par la résonance, mais se dépasse vers l'instinct de mort, constitué par l'amplitude d'un mouvement forcé (c'est l'instinct de mort qui trouvera son issue glorieuse dans l'oeuvre d'art, par-delà les expériences érotiques de la mémoire involontaire). La formule proustienne, « un peu de temps à l'état pur », désigne d'abord le passé pur, l'être en soi du passé, c'est-à-dire la synthèse érotique du temps, mais désigne plus profondément la forme pure et vide du temps, la synthèse ultime, celle de l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le temps. (ドゥルーズ 『差異と反復』第2章、1968年)




ドゥルーズ が次のように書くときの、自動反復=自動機械 [automatisme] がフロイトの反復強迫、つまり死の欲動である。


固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。


Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


欲動蠢動は「自動反復=自動機械Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。


Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)





そしてニーチェが次のように言うときの、「常に回帰する自己固有の出来事」が、ラカンの「享楽の回帰」、ーー《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance] 》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)ーーるいは現代ラカン派の「享楽の固着の回帰」に相当する。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation … on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, … elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[ Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance.] (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


ーーラカンの享楽は穴=トラウマであり[参照]、享楽の固着とは「トラウマの固着」と言い換えうる。


そして享楽とは死の欲動である。


享楽は現実界にある [la jouissance c'est du Réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)




ところで『千のプラトー』には《無意志的記憶のブラックホール》という表現がある。これはフロイトラカン語彙に変換すれば、無意志的記憶のトラウマである。


無意志的記憶のブラックホール[trou noir du souvenir involontaire]。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、 逃れるべきものなのだ[Avant tout, c'est quelque chose dont il faut sortir, à quoi il faut échapper]。プルーストはそのことをよく知っていた。 彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)