2023年6月20日火曜日

トラウマの井戸の底にあるもの

 

経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を呼び起こす。

eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (…) ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)



このフロイトが言っている事態が、阪神大震災に被災した中井久夫に起こったそうだ。


たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年)



次の文は臨床的に語られているが、《トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしている》とあるように同様の事態である。


最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)



中井久夫は原トラウマが何かについてははっきりは触れていないが、フロイトにおいての原トラウマは出産トラウマ=母への原固着である。


出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。

Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



フロイトは究極的にはこの原トラウマが回帰すると考えた。


結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)



《原トラウマ的不安状況》とあるが、これは剰語法である。原不安は出産トラウマだから。

不安は対象の喪失に対する反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


先の文の原トラウマが母への原固着ということは、「喪われた子宮内生活への固着」と言い換えうる。ーー《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)。これが原トラウマの回帰である。


これは固着概念からもそう言える。


まずフロイトにおいて欲動の対象は固着である。


欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。

Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年)



固着には種々ある、それはトラウマが種々あるのと同様である。


(発達段階の)展開の長い道のりにおけるどの段階も固着点となりうる[Jeder Schritt auf diesem langen Entwicklungswege kann zur Fixierungsstelle](フロイト『性理論三篇』1905年)



だが病いの展開とともに原固着へ向かうと言っている。


発育の過程で、いくつかの固着が置き残されることがあり、その一つ一つが連続して、押しやられていたリビドーの侵入を許すことがあるーーおそらく、後に獲得した固着から始まり、疾病の展開とともに、出発点に近いところにある原初の固着へと続いていく。Es können ja in der Entwicklung mehrere Fixierungen zurückgelassen worden sein und der Reihe nach den Durchbruch der abgedrängten Libido gestatten, etwa die später erworbene zuerst und im weiteren Verlaufe der Krankheit dann die ursprüngliche, dem Ausgangspunkt näher liegende.(フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)


つまり原トラウマの回帰とは、母胎回帰である。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



これは、ラカンが究極の享楽の対象は喪われた胎盤だと言っているのと等価である、欲動の対象は享楽の対象だから。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20  Janvier  1960 )

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


さてどうだろう、人はトラウマ的出来事に遭遇したら、遡及的に喪われた子宮内生活の不安が湧き起こるのだろうか、究極的には? 


ラカンは反復と喪われた対象との結びつきを常に強調した。…ラカンは根源的に喪われた対象をふたたび見出すための努力として反復を位置づけるのを止めなかった。

Lacan n'a jamais manqué de souligner le lien de la répétition à l'objet comme objet perdu (…) Il n'a pas cessé de situer la répétition comme un effort pour retrouver l'objet foncièrement perdu. (J.-A. Miller, « Transfert, répétition et réel sexuel.» 2010)


フロイトラカンにおいてトラウマの井戸の底にあるのは、喪われた子宮内生活なのである。