2023年6月10日土曜日

顕在的夢内容[manifesten Trauminhalts]・潜在的夢思想[latenten Traumgedanken]・夢の臍[Nabel des Traums]

 


フロイトは『夢解釈』第6章「夢の仕事(Die Traumarbeit)」の冒頭近くで、次のように記している。


◼️ 顕在的夢内容[manifesten Trauminhalts]と潜在的夢思想[latenten Traumgedanken]

……われわれは、顕在的夢内容[manifesten Trauminhalts]と潜在的夢思想[latenten Traumgedanken]とのあいだの関係を調べ、後者が前者になるまでの過程を追跡する仕事がある。

die Beziehungen des manifesten Trauminhalts zu den latenten Traumgedanken zu untersuchen und nachzuspüren, durch welche Vorgänge aus den letzteren der erstere geworden ist. 

(潜在的)夢思想[Traumgedanken] と(顕在的)夢内容 [Trauminhalt ]とは、同一の内容を種類のちがった二つの国語でいい現わした二つの文章のごときものである。あるいはこういったほうがいいかもしれない、夢内容は、ある夢思想を別の表現方法に翻訳したようなものであって、この別の表現方法の記号や組みたて法則を知ろうと思うならば、原典と翻訳と照らしあわせてみなければならない。夢思想は、それと知らされればわれわれに直ちに納得のゆくような性質のものである。これに反して夢内容の方は、いわば一種の象形文字[Bilderschrift]で綴られていて、われわれはこの象形文字記号の一つひとつを夢思想の言葉に翻訳してみなければならない。もしわれわれがこれらの象形文字記号を、その記号関係に従って読もうとせずに、その形象価値に従って読もうとしたならば、必ず誤るにちがいないのである。


Traumgedanken und Trauminhalt liegen vor uns wie zwei Darstellungen desselben Inhaltes in zwei verschiedenen Sprachen, oder besser gesagt, der Trauminhalt erscheint uns als eine Übertragung der Traumgedanken in eine andere Ausdrucksweise, deren Zeichen und Fügungsgesetze wir durch die Vergleichung von Original und Übersetzung kennenlernen sollen. Die Traumgedanken sind uns ohne weiteres verständlich, sobald wir sie erfahren haben. Der Trauminhalt ist gleichsam in einer Bilderschrift gegeben, deren Zeichen einzeln in die Sprache der Traumgedanken zu übertragen sind. Man würde offenbar in die Irre geführt, wenn man diese Zeichen nach ihrem Bilderwert anstatt nach ihrer Zeichenbeziehung lesen wollte. .

(フロイト『夢解釈』第6章「夢の仕事」Die Traumarbeit、1900年)


上の記述からわかるように、潜在的夢思想とは既に心的装置、あるいは自我に取り入れられたものであり、基本的には前意識である、ーー《前意識的夢思想[(vorbewußten) Traumgedanken]》(フロイト『夢とテレパシー(Traum und Telepathie)』 1922年)


つまり先の文で書かれていることは、何よりもまず、潜在的夢思想[latenten Traumgedanken]には、前意識的願望が含まれており、それは、夢の仕事[Traumarbeit」によって歪曲されるとはいえ、顕在的夢内容[manifesten Trauminhalt]の中に表現される、そして夢解釈は、逆の道を辿るということである。


ところでフロイトは第7章において、夢において解釈し得ない何ものかがあり、それを、夢の臍[Nabel des Traums]あるいは菌糸体[Mycelium]と呼んでいる。


◼️夢の臍[Nabel des Traums]

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は暗闇に置き残す [im Dunkel lassen]ことを余儀なくさせられることがしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けない夢思想の結び玉 [Knäuel von Traumgedanken]があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。

In den bestgedeuteten Träumen muß man oft eine Stelle im Dunkel lassen, weil man bei der Deutung merkt, daß dort ein Knäuel von Traumgedanken anhebt, der sich nicht entwirren will, aber auch zum Trauminhalt keine weiteren Beiträge geliefert hat.


これはつまり夢の臍[Nabel des Traums]、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいる点なのである。解読においてわれわれがつき当る夢思想は、一般的にいうと未完結なままにしておく他ない。そしてそれは四方八方に向って、われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮[netzartige Verstrickung unserer Gedankenwel]に通じている。この編物のいっそう目の詰んだ箇所から夢願望が、ちょうど菌糸体からの菌[Pilz aus seinem Mycelium]が頭を出しているように頭を擡げているのである。

Dies ist dann der Nabel des Traums, die Stelle, an der er dem Unerkannten aufsitzt. Die Traumgedanken, auf die man bei der Deutung gerät, müssen ja ganz allgemein ohne Abschluß bleiben und nach allen Seiten hin in die netzartige Verstrickung unserer Gedankenwelt auslaufen. Aus einer dichteren Stelle dieses Geflechts erhebt sich dann der Traumwunsch wie der Pilz aus seinem Mycelium.

(フロイト『夢解釈』第7章「夢過程の心理学に向けて」A夢の忘却、 1900年)




この夢の臍[Nabel des Traums]は、フロイト晩年の『終わりなき分析』に現れる欲動の根[Triebwurzel]とその記述上、明らかに等価である。


たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根[Triebwurzel] から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることが明らかになった。

…es sei nun erwiesen, daß auch eine geglückte analytische Behandlung den derzeit Geheilten nicht davor schütze, später an einer anderen Neurose, ja selbst an einer Neurose aus der nämlichen Triebwurzel, also eigentlich an einer Wiederkehr des alten Leidens, zu erkranken.

(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)






ラカンはこのフロイトの「夢の臍」を次のように解釈した。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.〔・・・〕


この穴と原抑圧との関係、これが起源にかかわる問いである。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。

La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse.〔・・・〕

この穴は特定の臍における効果である。…われわれは生み出される間に、臍の緒によって宙吊りになっている。瞭然としているのは、母の臍ではなく胎盤によって宙吊りにされていることだ。というのは、人は子宮から生まれるのだから。…臍は聖痕である。

C'est effectivement à un ombilic particulier, …que quelqu'un s'est trouvé en somme suspendu en le reproduisant …par la section pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta. C'est du fait d'être né de ce ventre‐là …l'ombilic est un stigmate. (Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)



欲動の現実界に関わる夢の臍は胎盤の穴だと言っているのである。ラカンにおいて穴はトラウマを意味するがーー《現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)ーー、このトラウマの穴は喪われた対象と等価であり[参照]、享楽の対象、つまり欲動の対象[Objekt des Triebes]である[参照]。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


上にあるようにセミネールⅩⅠの段階で既に「胎盤」という語を口にしており、晩年になってこれをフロイトの夢の臍に結びつけたのである。この胎盤はフロイトの《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(『制止、症状、不安』第10章、1926年)に相当する。


…………


さてここでは夢の臍が常に喪われた胎盤に相当するか否かは当面保留しつつ、フロイトの顕在的夢内容[manifesten Trauminhalts]・潜在的夢思想[latenten Traumgedanken]・夢の臍[Nabel des Traums]の三つの表現を整理しよう。


先に見たように潜在的夢思想は前意識だという立場を取れば、これは自我の審級にある。


フロイトにおいて自我は前意識、エスの欲動が本来の無意識である。


私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。

Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, nach Groddecks Gebrauch das Es. 

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。

Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist

(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。

das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.

(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。

Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.

(フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



顕在的夢内容は夢において意識されたものという観点を取ることもできるが、ここでは潜在的夢思想と併せて前意識の審級におけば、次のようにまとめることができる。