2025年9月18日木曜日

「踏み越え」について(中井久夫)


■中井久夫「「踏み越え」について」2003年

「はじめに」


「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード辞典(OED)によれば、15世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学よりも法学のほうで使われてきたようである。お馴染みの「リグレッション」(退行)「プログレッションン」(前進)と同系列の言葉であるが、「トランス」は「越えて向こうへ」という意味であるから「踏み越え」と訳しておく。私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。知情意を行動化するということか。抽象的に言えば「パフォーマンスのモード」の切り替えと定義してよかろう。


その逆は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。


今にはじまった問題ではないし、私が何らかの明快な答えを与えるわけではない。ただ、踏み越えは現在無視できない重要性を持っているのではないかという問題提起をしておきたい。21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ。テロとテロへの反撃という国家社会的政治水準から個人の非行まで、その例は枚挙に遑がない。さらに「踏み越え」がプラスの意味を持ってきた。「改革」「ビッグバン」「IT革命」である。これらは長期的には有効性が期待値より低いおそれがあるのだが、そのことは軽視されている。フランス、ロシアの二大革命の末路から人は多くを学ばない。ロシア革命を否定してフランス革命が無傷で済むだろうか。革命の血を血で洗う中からナポレオンが出てきて、革命を外征にかえた。どれだけのフランス人、欧州人が非命に倒れたか。私の精神的な師の一人、アンリ・エランベルジェ先生が「個々の戦争犯罪だけでなく戦争をも犯罪学の対象としなければならない」といわれるのももっともである。幸か不幸か私は戦争の世紀である二十世紀の一九三四年に生を享けた。当時、一九○四年から一九〇五年の日露戦争は「このあいだの戦争」であった。戦争参加者はまだ四十歳代から六十歳代だったのである。


意識化、イメージ化、言語化、行動化とその特性


意識化、イメージ化、言語化のあいだにはそれぞれ断絶がある。そして、これら「内面」に明滅する事柄と行動とのあいだにも断絶がある。断絶の態様はそれぞれ独自である。


イメージ以前については、同時通訳者の米原万里から学ぶところが多かった。私たちはイメージを言語化すると考えがちである。しかし、例えば椅子のイメージは百種百様であるのに、私たちが「椅子」を思い浮かべる時には、イメージよりももう少し以前のものがまず意識に上る。同時通訳とは、このものからA言語の衣装を脱がせてすばやくB言語の衣装を着せることだとある達人が米原さんに語り、彼女は深く同感する。翻訳が大きく無意識に根ざすものであることは私も詩翻訳体験にもとづいて何度か述べたことである。原文をほぼ暗唱し、筆写してしばらく放置すると、ある時日本語訳が浮かびあがってくる。感銘深い外国語の対話は追想の中で「その場に自然な日本語の対話」に変身している。米原万里は言葉から言葉へと着替えする間にかいまみられる何ものかを「思想」と呼んでいる。これはプラトン以来の「イデア」の意味ではなかろうか。「椅子のイデア」はプラトンのいうような天上にはなくて私たちの意識下のほとんど生理的水準にあるわけだ。


ユングのいう「元型」は「イデア」の中の大物なのか、「イデアのイデア」かもしれない。「イデア」がすべて元型ではない。イデアのヒエラルキーについては憶測をここでは慎もう。


この「イデア」が同時通訳のように言語の着物を着ることもあるが、イメージ化(表象化) コースに入ることもある。米国の偉大な女性哲学者キャサリン・ランガーは、複雑多様な関係の同時提示がイメージの特徴であって、これを representational (現示的)と呼んだ。これに対して、直線化(一次元化)できる単純な論理的(因果律的)な関係が言語であって、これを discursive (論弁的)と呼んだ。


もとより、言語にも音調という非論弁的(肉体的)側面があり、米国の精神科医サリヴァンは対人の場、特に治療の場の働きにおいて音調に意味内容にまさる重要性を与えた。言語は一般にイメージを悪夢化から救い、貧困化し清朗化する。夢が覚醒後に速やかにたどる変化を思い浮かべてみればよい。夢は言語化されると、単純化し、一般に圧力が減り、人に語れるものになる。いわば、通分される。


イメージにも論弁性がないわけではないが、イメージでは「否定」ができないという指摘は周知のことである。否定だけではない。「批判」もイメージでは「これみてさとれ」と黙示的にしかできない。


イデアから行動化への直結


ここで、私は、「イデア」がいきなり行動化コースに入ることもあると指摘したい。おそらく、このことは不当に軽視されている。日常生活においても社会的にも、行動の説明責任 accountability が果たせないのは、このコースがあるからである。 「よかれと思った」「大丈夫と思った」といわれるような場合、はっきり言語化、表象化されてから行動に移ったのではなさそうである。これは家庭内暴力や一部のハラスメントの底にあり、一種の合理化のもととなっている。


別に破壊性だけではない。キスなどのエロス的行動化も、この経路がむしろ普通であり、自然である。 それに相応する雰囲気があらかじめ存在することもあるが、ムードが一挙に生まれる場合もある。むしろ明確なイメージや言語化をとおる計画的行動化にはどこかウソくさいところがある。無記名の情調性の高まりの後は「火花」である。多くの人が経験してきたさまざまな「踏み越え」の複雑微妙で多様な要素のほとんどは一見きわめて単純で無邪気にみえる「最初の接吻」に至る過程に含まれているといえるかもしれない。この種の移行は「短絡的」あるいは「無意識的行為」と言い去られやすいが、さまざまな局面で個人的、社会的な重要性を持つと私は思う。多くの人生決定がこの形でなされ、理由づけ(合理化)が後を追う。このコースが決定する人生と社会の幸不幸は大きく、しかも取り返しがつきにくい。そもそも、人生に不可避的で大きな決定を指す「企投」「アンガージュマン」という言葉はこれを指すものであろう。戦後「話し合い」が強調されたのは、これと対立し、これを回避しようとするものであるが、それは戦前に問答無用的強行が多すぎたからであろう。


戦争こそ、明確な言語化やイメージ化を経由せずに行動化される最たるものである。四年三ヶ月にわたって不毛な会戦を反復し、ヨーロッパに回復不能の打撃を与えた第一次大戦は、双方とも一ヶ月で終わると思って始まった。日中戦争は南京陥落で終結するはずであった。


見通しだけではない。近代の開戦理由を枚挙してみても、それが必要充分な理由であったことはかつてないのではないか。「なぜ、それが戦争になるのか」という反問に耐ええないものばかりであると私は思う。不確実で、より小さな不利益の可能性のために、確実でより大きな損害を招く行為である。これは多くの犯罪と軌を一にしている。


戦争への引き返し不能点は具体的に感覚できるものである。太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、「もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである」という感覚を私の周囲の多くの人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に「一言でいえばざまあみろということであります」と言ったのは、この感覚からの解放感である。この辺りの変化は猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』によく描かれている。東条英機首相も、昭和天皇も、この重圧によって開戦へと流されていった。東条の神経衰弱状態は、開戦と同時に、軽躁状態に急変する。天皇を初めとする大多数の国民もまた。


ある患者は、幻覚妄想のある時期とない時期とを往復していたが、幻覚妄想のある時期はなるほど苦しいけれども、幻覚妄想がいつ起こるか、いつ始まるかという不安だけはないと言った。逆にない時期にはその不安から逃れられないという。平和の時期と戦争の時期との違いも少し似ている。


私は戦争直前の重圧感を「マルス感覚」と呼んだことがある。湾岸戦争直前、私はテレビを見ていて、太平洋戦争直前に似た「マルス感覚」を起こしている自分に驚いた。「ああ、あの時の感じだ」と私は思った。フランスの哲学者ベルクソンは第一次大戦の知らせを聞いて、「部屋の中に目にみえない重苦しいものが入てきていすわった」と感じたそうである。これをも「マルス感覚」とすれば先の「事前的マルス感覚」に対して「事後的マルス感覚」となろうか。私は二〇〇一年九月十一日以後、アフガニスタン戦争の期間を通じて、「事後的マルス感覚」をしたたかに味わった。


戦争へと「踏み越える」際の「引き返し不能点」は政治的よりも心理的に決定されると私は思う。戦争は避けられないという無力感が世を覆うようになることである。この独特の無力感を引き起こすことこそ、戦争を起こしたい勢力がもっとも重視し努力するものである。 それは「心理的引き返し不能点」を手前に引き寄せる試みである。 その手段は多様で持続的なものでなければならない。宣伝だけでなく、動員をはじめ、種々のしめつけや言論統制である。


イデア-行動化コースと言語化による社会的修復の試み


私たちは、イデアからイメージ、言語化を経て行動というコースを普通であると思い込みやすい。それは心理テストなどの場合に暗黙の前提としているコースであるけれども、果たしてそれは妥当であろうか。一つの理想型にすぎないのではなかろうか。現実には、あるコースから別のコースへの移動に順序はない。行動化が先行して後に、イメージ、言語化コースに移ることもある。例えば、行動の追想であり、後悔であり、合理化である。審判や裁判はこの過程に社会的に通用する形式を与えるものである。裁判はそのために存するとさえいってよい。行為はすべて因果論的整合的な成人型のナラティヴ(語り)で終わらなければならないという社会的合意が裁判の前提である。でなければ、何か修復されない穴が社会的に残るのである。


この過程は、強引に言語化する過程であり、させる過程である。その過程の無理は公衆が鑑定や判決文に抱く不満の本当の源である。「心の闇」を明らかにせよと人はいうが、明らかにしたものはもはや心の闇ではない。何か、ウソくさく、うまく言いくるめられた感じが残るだろう。最近の大事件において、法廷ではもちろん、弁護団に対しても沈黙を守る被告たちは、あるいは、この言語化の過程から遠く離れた、一種の離人的状態ともいうべきところにいるのかもしれない。言語化されたものを「ひとごと」のように感じる軽「離人」体験は、おのれの行動についての「調書」を読み上げられて「自分はそう考えて行動したことになっているのか」と感じる時にも起こっている。なにも犯罪だけではない。地震に際しての私の行動をあれこれと推量して批評している文章を読む時にも、同じ感じが起こる。幼い時、教師に「お前はかくかくの理由でこうしたのだ」と決めつけられた時から、この裂け目感覚は始まっている。


しかし、この「成人言語水準への強制的ひっぱりあげ」を受けたナラティヴによって裁判は完結し、当事者も、公衆も、みな、このナラティヴを得て「納得」する。というか、他に終結と納得の形はないことを誰もが知っている。 行為はすべて、いかに理不尽なものであろうとなかろうと、取り消せない。説明責任という概念が急に脚光を浴びているが、それは、判決と同じく、 成人言語による因果関係の整合的なストーリーの網で行為をカヴァーしつくすことである。アカウンタビリティとは、アカウントすなわち語れることである。


もっとも、語りとして、すぐれた判決文、 決定文、あるいは説明が持つ事態を落着させる力は、制度化された言語化の持つ力を表している。言語化の力とは、自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、世界に対する個の能動感、世界と自己の唯一無二感を取り戻す力である。 一般に、言葉にうまく言い表せた時の成就感にはかけがえのないものがある。世界が因果関係のネットワークであるという信念は言語の構造に大きく依存している。ただ実際には、因果関係はごく単純なものしか言語で表現できないから、一切を言語水準、それも様式化された成人言語水準に引き上げたという無理の痕跡はほとんど常に残る。たいていは一種のもっともらしさであるが、それだけでなく、言語化の無理はしばしば粗雑で十把一からげ的な「極悪非道」とか「鬼畜のごとき仕業」とか「天人ともに許さざる」といった表現で覆い隠される。他方、判決者、説明者の態度、表情、語調、服装などが言語からはみ出たものを表現している。この二つは、表裏一体である。いずれも、判決者、説明者の成人言語からはみ出した、頭隠して尻隠さず的な部分である。


事実について争わない時には、友人のある弁護士は「被告が聞いて納得して刑に服するような判決をかちとる」ことを目標として弁護を行うと私に語った。これは重要なポイントであり、多くの場合に刑を生かす力になるであろう。被告は判決文を一字一句聞いて忘れないことが多い。見当外れの判決文あるいはおざなりな判決文は、被告に憤懣を覚えさせるであろう。常套句でなく、具体的な細部に入り込んで、被告の置かれた状況を描きだす「血が通った」状況的理解にもとづく判決が望ましい。それは、妄想それ自身は理解できなくとも、それが生まれた状況や、もしそのように状況を(妄想的に) とらえたならば世界がどのように見え、人はどのように対処し、行動するであろうかは理解できるのと同じである。それは心の闇を成人言語で描きだすことと同じではない。実際は、被告のなかにすでに明文的に存在するものに一致した言明ではない。被告のなかにある混沌に秩序を与え、その説明ならば被告は「納得して」刑を受けるようなストーリーである。そのような判決は事後的だが、踏み越えに言葉を与え、人生の中に位置づけて、人生に意味を与え直すから治療的なのである。


行動化の効用


事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。


行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。


DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。


ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。


「事故学的犯罪」


一九八〇年代の私は、司法関係者から高学歴初犯の殺人例が理解しがたいとして、その分析を求められていた。浪人による両親の金属バット殺人事件と若いケースワーカーによる生活保護の初老女性殺人についての報告はその一部である。私はそれ以前から医療事故の防止に対して、当時柳田邦男氏が精力的に発表していた航空機事故を初めとする事故学から大いに学ぶところがあった。この事故学の発想は典型的には上の二例に大幅に適用可能であった。いずれの事例も、終極的には殺人に終わるのだが、それに至る一つひとつのステップは落差が小さくて、誰でも「踏み越えられ」そうなものである。またステップのきっかけとなったり、ステップを踏み越えやすくする事態は殺人につながるようなものではなく、殺意は、ほとんど最後の時点で状況にうながされて顕在化する。 柳田氏が「迷路というものがある。なかなか向こう側に出られないから迷路なのであるが、たまたま、歩いているとスッと向こう側の出口に出てしまうことがある。これが事故である」という比喩のとおりである。


このような事故学的分析によって理解可能な犯罪もある。これを「事故学的犯罪」と呼ぶとしよう。この場合も踏み越えは問題になるが、偶然あるいは確率という因子がかなり大きい。


一九八〇年代当時は、わが国の殺人の実数も率も記録的な低さがほぼ定着した時期であった。現在も、低率は持続しているが、「犯罪の建築学的構造」は変化しているとみるべきでなかろうか。私の挙げた二例は、いずれも、紆余曲折の果ての殺人であり、利益のためでもなく、衝動的でさえない。強いて単純化すれば「意地の帰結としての殺人」というべきである。このような殺人は、日本において古典的となりつつあ る。「意地による殺人」は、地中海文化における「ヴェンデッタ」(復讐)とも江戸時代の敵討ちとも違う。それは、殺人を最初からの目的としていないのである。「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。


「踏み越えによる犯罪」


すべての犯罪が定義上「踏み越え」によるものであるとはいえ、最近の犯罪あるいは非行において、事故学的犯罪と対照的に、「踏み越え」の比重が非常に大きくなってきたという仮定のもとに考察を進める。


「踏み越え」をやさしくする条件を挙げてみよう。


(1)「踏み越え」に対する倫理的な障壁が低くなっていること。例えば、万引きに窃盗という認識、ひったくりに強盗という認識がなく、それに相当する倫理的障壁がない(逆に「立ち小便」に対する心理的障壁は五十年前にはないに等しかったが、現在では高くなっている)。倫理的障壁はほとんど生理的であって、立ち小便は行おうとしてもなかなか尿が出ないのが普通である。強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えてならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては交感神経系優位性が副交感神経系優位性と急速に交代しなければならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか。


(2) 倫理には当然社会的側面もある。尊敬できる家族、先人、友人などが存在するか否かが大きい。家族などが例えば暴力などの侵犯への「踏み越え」を実演するなかで育つことは当然侵犯への敷居を低くする。また、自殺や離婚は、通常、踏み越えに思案を要するものの代表であるが、身近に自殺、離婚の例がある場合、行き詰まりの解決法として思いつきやすく選ばれる確率が高くなる。犯罪もまた同様。


(3) 問題解決への選択肢が少ないこと。イメージ化がうまくできないこと。無人島に行ったら何を持ってゆき、何をするかという「無人島物語」では、非行少年や家庭内暴力少年は思いつくものが少ない傾向があることを私は経験している。知的に普通と思われる少年なのに島ですると思いつくことが瑣末的なこと一つであった例がある。なお、私の経験では、箱庭で全くの模倣テーマ、たとえば「宝塚遊園地」を造るのは非行少年、特に嗜癖少年であった。これは極端例であるが、選択肢の少なさはかなり一般にいえるそうである(東京家裁主任調査官・藤川洋子による)。選択肢がわずかしかない人ほど、踏み越えが簡単であるはずである。手近な選択である嗜癖にもなりやすいだろう。


(4) 侵犯が見逃され、放置され、処罰されないこと。犯罪の最大の防止策は速やかな発見と検挙である。ニューヨークの地下鉄でも、わが国の大学でも、落書きをただちに消すことによって、落書きだけでなく、さまざまな侵犯の低下を見みている。


(5) 「踏み越え」を容易にする手段が卑近なところにあること。米国の殺人率の多さは銃規制がほとんど行われていないことによる。わが国の場合、実に卑近なことであるが、包丁が鋭利になったことがあると私は思う。 第二次大戦前の、拳銃による政治家暗殺も、ほとんどすべて銃ごと体当たりをすることによったものである。その伝統は包丁にそのまま継がれている。旧軍では、日本人はピストルの速距離射撃が下手といわれてきた。一九九五年の国松警察庁長官狙撃(四発全弾命中)は例外中の例外である。


(6)「踏み越え」を容易にする制度を経験すること。これは、多くの軍隊が行うところである。一般兵士の「発砲率」は国によらず十五ー二十パーセントと低かった。第二次大戦後、米陸軍は心理学的工夫によって朝鮮戦争において五十五パーセント、ベトナム戦争において実に九十五パーセントの発砲率を達成している。その副作用は、帰還兵が社会適応不可能となったことである。わが国では、会社、官庁における不正の黙認が挙げられようか。


わが国では、現在、当人の書面による承諾なくして事実上誰にでも生命保険をかけられるという制度的欠陥も、多くの踏み越えを容易にしている。


(7) 「踏み越え」を容易にするイデオロギーの存在。いわゆる大義が代表的なものであるが、必ずしも直接の踏み越えに関するものでなくてもよい。一般に二十世紀においては、マルロー、ヘミングウェイ、サン=テグジュベリら、「行動」を「思考」や「葛藤」よりも優位に置く作家の影響力が強くなり、登山、航海において不可能とされたことが次々に実現していった。ちなみにマルローの出世作『王道』は、カンボジャの文化遺産を盗みにゆく話である。


行動化は、自分に代ってやってくれる代理者によってもある程度満足される。サッカーや野球で選手やチームに同一化することによって、日常の心配や葛藤は棚上げにできる。この場合も含めて、行動化は、究極的に言語化・イメージ化できないものが多い。犯罪とは限らない。スポーツはもちろん、食や性でも言語を超えた部分がある。というか、言語、イメージを越えないと、何か欠けたものがあると感じられる。一般に言葉だけでは飢餓感が残る。謝罪の例がそれである。状況だけが言葉の不足感を救う。


(8) 行動をともにする仲間の存在。少年強盗の統計上の最近の増加には、集団でのひったくり、かつあげによる分が、相当に含まれている。一件七、八人ということが少なくない。


(9) ヴァーチャル・リアリティによる「踏み越え」の見聞と実体験。生まれた時すでにテレビが存在した世代の心理には、私の世代の心理と違う何かが感じられる。しかし、テレビは家族などの集団で見て対象化・客観化が可能である。テレビゲームを初めとするヴァーチャル・リアリティは孤独のなかで行われ、場の中に入り込み、かつ自分が不利な時にはリセットが可能である。


(10) 抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。


(11) うかうかとでも、とにかく「やってしまった」という事実が、その後の踏み越えをぐっとやさしくすることは多いだろう。「どうせおいらは」というわけである。「濡れないうちは露をも避けるが、濡れてしまえば川の中にでもずかずか入ってゆく」という古くからの喩えは、非常に理解しやすい心理である。


(12) 自尊心の低さと弱さ。例えば、忍ぶ恋がストーカーになり下がる過程のどこかで、自尊心がぐっと低下する体験があるのではないか。もっとも、ストーカーには、現実の不可能を強引に擬似的可能にしようという点で、「現実の不可能を非現実の可能にする」という妄想と紙一重のところがある。


ストーカーに限らない。どういう人にせよ、プライドのない人間ほど始末におえない者はない。精神科医は、患者の自尊心を大切に守る必要がある。個々の病院によって大きな差があるが、精神科病院が自尊心を失う場になってはならないと思う。さまざまな矯正施設においても重要なことである。


(13)被害者がはっきりしない場合。収賄も、遠距離砲撃の場合も、これである。陸軍に比べて海軍がスマートに見えるのは殺戮が見えないからである。


変数は以上の悪魔の一ダース(十三) に尽きないであろう。また、今後、踏み越えをやさしくする条件が増加するおそれがあり、精神医学、心理学、犯罪学の大きな主題となってゆく可能性が少なくないと私は思う。


踏み越えに至る過程のさまざまな特性


先に、一つひとつは踏み越えに心理的抵抗をさほど感じない多段階的過程を「事故学的」過程として挙げたが、その他にもさまざまの過程がある。これは、本人の人柄による部分もあり、成育環境からの寄与部分もあり、状況によって決定されることもあるはずである。


どういう過程がどの部分によって規定されることが大きいかを抜きにして、まず、さまざまな臨床的実例の力動的側面を取り上げよう。


多くの場合、倫理の枠外への踏み越えに近づくと、逡巡によって過程は減速され、延期される。あるいは、空想の中に移される。そのような踏み越えはたいてい「引き合わない」からである。 「殺してやりたい奴」を心に持っている人は意外に多いかもしれないのだが、空想の限りでは許容されるという社会的通念があり、殺人者は一握りである。


一般に、殺人の場合、殺意と殺人の実行との距離は非常に大きい。実際、殺人計画をそのまま長く維持することを初め、一般に、踏み越えの少し手前で長期間維持することは非常なエネルギーが必要である。生命保険会社が、掛けはじめてから一年以後の自殺を保険金目当てとみなさないのも、自殺意図を一年以上持ちこたえることはできないという根拠にもとづいている。


異性間の友情を友情のままに維持することでも、かなりの自己規律を必要とする。初期にはその水準を「踏み越える」ことは実行に近づくほど抵抗が大きくなる。おそらく、実行か中止かの分岐点があるのであろう。そこを越えて先にゆくと、中止するほうが困難になる。また、ある瞬間、ふっと敷居が低くなることがありうる。おそらく、 それには生理的基盤もあり、 社会的規定の日内変動もあり、クリスマスなどの特異日もあるのだろう。


さらに誤算もあるだろう。下流に滝があることを知りつつボート遊びをする場合に似て、まだまだ大丈夫と思っているが、気づいた時にはもう遅いということがありうる。ぎりぎり引き返せるかどうかの地点をみとおすのは、社会経験もあり成熟した人柄の人でも、なかなか困難である。国家間の緊張においていわゆる「瀬戸際政策」が成功した場合は少ない。個人でも、政治家が異性問題などの個人的問題で、官僚が比較的少額のお金で失脚するのは、そういう場合が多いのではないだろうか。もっとも、人間は必ずしも合理的に行動するものではない。先に挙げた密かな自己破壊衝動というくせものが出馬の機会を待っている。それにある程度、先が見えないから人生を何とか生きてゆけるのだという面もある。


ある型の人は、踏み越えに近づくと却って加速度がつく。 ある家庭内暴力青年が表現したところによると、彼のいう「暴君モード」になれば「ジェットコースターに乗ったようなもの」であって、加速度的に抑えが効かなくなる。


決断は、事柄にもよるであろう。多くの女性が身につけるものを選ぶ時に費やす時間と再考、再々考は、私には驚くべきものであるが、同じ人でもすべての場合にそうだとは限らない。他人のことにはコンピュータのように瞬時に計算して合理的な決断を下す人が自分の事柄によっては逡巡して決まらないこともある。


多重人格障害の下位人格から別の人格への切り替わり(スイッチング)は瞬時に行われることになっているが、私の臨床経験には、英語人格と日本語人格との切り替わりが中途で止まって、両国語の単語が脳裏に乱舞してものが考えられなくなり、学生相談所から紹介された例がある。これはスイッチングの中途が長引いた例であると思われるが、その時には抗精神病薬のハロペリドールが有効であって、予後はよかった。他の精神疾患を思わせる所見はなかった。今後、このような移行過程における治療的接近に意味がある場合が出てくるのではあるまいか。移行過程はいわばさなぎのような流動的状態だからである。もっとも、その時に特に必要な慎重さもあるであろう。


特殊な踏み越えもある。それは一般に、入りやすく出にくいワナのような構造を持っている。「不登校」から「ひきこもり」まで例は少なくない。そこからの「踏み越え」すなわち「踏み出し」がたいへん難しいのは、一般に定常状態というものは、そのまま続けてゆくのがいちばん安定してエネルギーが要らない状態だからであろう。要するにはまりこんでしまうと、抜けるのがたいへんである。男性に多い「ひきこもり」と女性に多い「摂食障害」のいずれもが、要するに、そこから出るという踏み越えが可能になる状態にどう持ってゆくかが困難な中心的問題である。斎藤環氏は千人以上の「ひきこもり」の人の中で自力で脱出できたのは四人であると語った。多くの慢性病も似たワナ構造を持っているのではなかろうか。どうしてあのような些細なことが、踏み越えであったのか、という嘆きを多くの患者は共有している。


宗教的な回心も、特殊な踏み越えである。禅の悟り、特ににわかに悟る「頓悟」はそうであろう。回心の場合、その後に神が見えなくなる aridity (不毛状態)が来るという。俗的な踏み越えにも、その後にアリディティに相当するものがあるであろう。五月病であり、倦怠期であり、 seven years' itch (結婚七年目の浮気心)である。


殺人の場合、自首はしばしば殺人場面のフラッシュバックに耐えかねてということがある。殺人が耐えがたい心的外傷を起こすことは良心の生理的な根の深さを示唆する。ある宗教家によると、悟りすました死 刑囚にも、二度と会いたくない「虚無でさえないもの」を感じるという。これは、アリディティよりひどい状態かもしれない。人を殺す者は自分をも殺すのだということは、ポー、ボードレールから神戸のA少年までが語っていることである。

踏み越えと踏みとどまりの非対称性


不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。


これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。テレビの番組は、その反対物にみちみちている。そうでないものもあるが、その多くは印象が薄いか、わざとらしい。


日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。(聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。


四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。


一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。


サリヴァンは、 前青春期体験を、これらすべてに括抗する人間的体験とした。今、前青春期は、あるとしても息も絶え絶えである。成人の幸福なパートナー体験もさまざまな形で脅かされている。わが国のこの半世紀においては、社会的上昇の努力が幸福と結びつくとされていたが、もとより、それは幻想であり、今は幻滅の時代である。行動化への踏み越えをどうするかが、今後ますます心理臨床を悩ます問題となりそうである。


ウィニコットは、子どもの憎たらしさに耐えて、将来報いられると思えるのを「ほどよく良い母親」とした。大平健によれば、今の「やさしさ」は「何もしないという思いやり」で、侵入されたくない気持ちと対になっている。子どもは「やさしい」ばかりでなく、すごい泣き声を挙げて侵入する「やさしくない」存在でもある。その時の顔はいかにも憎々しい。昔の子守歌にも「寝る子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ」とあるとおりである。ウィニコットは、それを否認せずにわが子を世話できる母親をよしとしているのだが、今、いかなる意味でも「将来報いられる」期待をいうことができるだろうか。


「自己コントロール」について


私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。


自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。


もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。


行為における「自分」と「私」―神経生理学者リベットの仕事をみて


この文章を執筆後に知ったことである。米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから〇・五秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚しているということである。


これが正しいとすれば、「踏み越え」の問題は新しい局面を迎える。私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。一世紀以上前に米国の哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームズは「悲しいから泣くのではなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。


これが正しければ、意識による「自己コントロール」は、まちがって踏みはじめたアクセルにブレーキを遅ればせにかけることになる。そして、意識は、追認するか、制止するか、軌道を修正するかである。ラテン語以来、イタリア、フランス、スペイン語で「意識」と「良心」とが同じ conscientia (とそのヴァリエーション)であることに新しい意味が加わる。意識はすでに判断者なのである。抑止は、追いかけてブレーキをかけることである。○・五秒は、こういう時にはけっこう長い時間であり、「車」はかなり先に行っている。


もっと前段階の、実行の構想段階、準備段階でも、行動の開始はその意識に先行するかどうかが問題である。リベットの研究はもっぱら最終的実行にかかわることだからである。


実験にもとづくリベットの説は、私たちが私たちのどうすることもできない力にふりまわされていることを示しているのではない。彼は、その主張の根拠を、脳/精神全体の情報処理能力(「自分」の機能)と、意識の情報処理能力(「私」の機能)との格段の差に帰している。感覚器からの入力を脳が捕捉して情報処理する能力は毎秒1100万ビットであり、意識が処理できる量はわずか40ビットだと彼はいう。脳全体が判断して行動を起こしつつある時、その一部を多少遅れて意識が情報処理するということである。彼によれば、自由意志という体験は、「自分」が「私」に処理をまかせている時に起こる。瞬間的な決断に際しては「私」とその自由意志は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断するという。彼は神経生理学の立場から脳全体の機能を「自分、セルフ」といい、意識の機能活動を「自我、アイ」という。ユングの用法に等しからずといえども遠からずであろうか。欧米のように意識を非常に重視する哲学的風土においてはショッキングであろうが、私にはむしろ、そう考えるとかえって腑に落ちることが少なくない。日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は熱情はいったんヤマを越していて、改めて、深くキスしなおすということになるのであろう。プルーストの小説のように、相手の頬の肌の荒れなどを観察しつつ、唇が合わさるように持ってゆくのは、例外的な「意識家」であり、モームの小説に出てくる、スピノザの哲学書をよみながら性交する男に似て frigid であろう。


意識が精神全体の、さらには心身の専制君主であるわけではないということである。


「アイ」は、歩き馴れた道を歩くような時にも「セルフ」に多くを任せているのであろう。階段がもう一段あるつもりで足を踏み出した時に起こる不愉快な当て外れ感覚は「パニック」の例によく挙げられるものであるが、パニックを起こしているのは「アイ」であろう。段差に気づかずに転倒する時、気づくと受け身の姿勢をとって身体の要所を庇っていることがある。これなどは「セルフ」がよく働いた場合である。この「無意識」はベルクソンが無意識の例として挙げているものに近い。彼は、身体的な多くの機能が意識の指示を待たずに円滑に動いているからこそ、意識が本来の自由な活動にひたれると考えていた。


リベットの説が正しければ、犯罪・非行への対処は、「アイ」もさることながら、 「セルフ」 すなわち脳全体ということになる。考えてみれば、当然のことである。今後の脳生理学は、1100万ビット/秒の感覚器に降り注ぐ情報を、どのようにしぼりこんで行動の開始を決定するか、そしてどの部分がどの形で意識の40ビット/秒にまわされるかを明らかにしてほしい。私たちが粗雑に衝動とか判断とか決定と呼んでいるものについて再考するきっかけになるであろう。


踏み越えは脳/精神の全体が決め手であり、自己決定、自己制御のみに集中する現在の行き方は限界があるだろう。小は些細な買い物に始まり、エロス的行為や犯罪を経て、戦争に至る「踏み越え」のパターンが、人格というもののプラグマティックな輪郭を示すとすれば、その過程に臨床的な接近をすることは多くの問題を解決する糸口になるのではないだろうか。時に、神経心理学者は、精神科医、心理学者に大局観を教えてくれる。 敬愛する神経心理学者・山鳥重によると、知情意というが、順序は情知意であるという。知や意は情の大海の上に浮かぶ船、中に泳ぐ魚に過ぎないということであろう。

(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



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◼️メタ私とリベットのセルフ

ここで私の「メタ私」「メタ世界」概念に少し言及しておきたい。「メタ私」は無意識に近い。しかし、フロイトのコンプレックスやユングのアーキタイプが支配するところではない。ベルクソンは「心臓をはじめとする内臓器官の無意識活動があって、もしこれらを意識的に動かしていたら意識に余力はないだろう」と考えていた。この「ベルクソンの無意識」をも含むものであり、内分泌系や自律神経系の活動をも含み、さらにたとえばテニス中に起こる小脳と前頭前野との間の神経信号の猛烈な往復をも含むものである(これは京大の生理学者・佐々木和夫教授の名をいただいて「佐々木の無意識」というべきであろうか)。さらに運動のみならず大脳の記憶や思考の活動をも沈黙のうちにモニターしている小脳の活動をも知るべきであろう。外界の刺激を直接受けない小脳は脳/マインドのジャイロスコープというべく、刺激に翻弄される大脳活動を安定化し、エネルギーを経済的にし、能率を向上させる。小脳の役割について大きな進歩と転換を示した理化学研究所所長の名をいただいて「伊藤正男の無意識」というのがよかろう。

「メタ私」は同時に意識に現前したならば、意識は潰乱し、おそらく脳/精神は無傷で済まないであろう。八十歳を越える高齢になってから最近にわかに脚光を浴びているベンジャミン・リベットの仕事によれば、意識はせいぜい二〇~四〇ビットの情報で理性的・倫理的判断を行うのであり、これが「エゴ」であって、エゴはそれに〇・五秒先行する一〇の七乗ビットの「セルフ(私のいう〈メタ私〉か)の判断を受けて、あたかもおのれが今リアルタイムで行っているかのように判断するという。

科学報告はしばしば断りなしに変わる。そのリスクがつねに存在するが、二〇年以上の風雪に耐えてようやく陽の目をみたリベットの仕事は、「心の間歇」と関連させても一考に値すると私は思う。「メタ私」から「私」への経路は多少とも鍵と鍵穴によって守られているのである。

「メタ私」に対応して「メタ世界」がある。私は可能性としてはあらゆる世界を体験できるが、それを同時にすることはできない。おそらく、メタ私もメタ世界も私あるいは世界よりも次元が高いのであろう。


この「メタ私」の一挙現前を制止しているシステムがあるはずである。言語はいっときには一つの音しか発声できないシステムを用いることによって、この制御にほぼ成功した。もっとも、統合失調症の初期にはこのシステムが怪しくなるときがあるらしい。解離していたものの意識への一挙奔入である。


これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。


われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。


解離は必ずしも破壊者ではない。社会生活に不都合を生むにせよ、むしろ保護的なものである。侵入体験を消失する薬物を、効果を認めながら、断乎拒んだ家族内暴力被害患者を思い合わせる。おそらく、身体の傷と同じく、心の傷も治癒はしかるべき歩調で、そして患者主体で進行しなければならないのであろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」2006年『日時計の影』所収)




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※附記


◼️フロイトの脳=身体器官とその舞台

われわれが心的なもの(心的生)と呼ぶもののうち、われわれに知られているのは、二種類である。ひとつは、それの身体器官と舞台、すなわち脳(神経系)であり、もうひとつは、われわれの意識作用である。Von dem, was wir unsere Psyche (Seelenleben) nennen, ist uns zweierlei bekannt, erstens das körperliche Organ und Schauplatz desselben, das Gehirn (Nervensystem), ander-seits unsere Bewusstseinsajcte(フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


※欲動=身体的刺激源の心的代理

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、身体的刺激源の心的代理以外のなにものでもない。〔・・・〕したがって欲動は心的なものと身体的なものの境界にある概念である。

Unter einem »Trieb« können wir zunächst nichts anderes verstehen als die psychische Repräsentanz einer kontinuierlich fließenden, innersomatischen Reizquelle, (…) Trieb ist so einer der Begriffe der Abgrenzung des Seelischen vom Körperlichen.(フロイト『性理論三篇』第一篇(5) 、1905年)


……このような内部興奮の最大の根源は、いわゆる有機体の欲動[Triebe des Organismus]であり、身体内部[Körperinnern]から派生し、心的装置に伝達されたあらゆる力作用の代表であり、心理学的研究のもっとも重要な、またもっとも暗黒の要素でもある。

Die ausgiebigsten Quellen solch innerer Erregung sind die sogenannten Triebe des Organismus, die Repräsentanten aller aus dem Körperinnern stammenden, auf den seelischen Apparat übertragenen Kraftwirkungen, selbst das wichtigste wie das dunkelste Element der psychologischen Forschung. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




◼️解離=抑圧

われわれは意識内容の解離-分裂を想定している[wir die Annahme einer Dissoziation – Spaltung des Bewusstseinsinhaltes ](フロイト書簡 Brief an Josef Breuer und Notiz III, 1892)

精神分析は、心的解離の起源(ジャネもその重要性を認識していた)を、先天的な障害による心的統合の失敗ではなく、抑圧[Verdrängung]と呼ばれる特別な心的過程に求めている。

Psycho-analysis …it ascribed the origin of psychical dissociation [seelischen Dissoziation](whose importance had been recognized by Janet as well) not to a failure of mental synthesis resulting from a congenital disability, but to a special psychical process known as ‘repression' (‘Verdrängung'). (フロイト『精神分析について』(英語講義)Freud, ‘On Psycho-Analysis' [in English]Transactions of the Ninth Session, held in Sydney, New South Wales, Sept. 1911)


元来の抑圧の主要特徴であるリビドー分離[Hauptcharakter der eigentlichen Verdrängung, die Libidoablösung](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)


ーーこの分離[Auflösung]は解離 [Dissoziation]である。

ヒステリーの素因をもつ患者には、解離 [Dissoziation]ーーつまり心的領域の分離[Auflösung]ーーの傾向があり、その結果、或る無意識の過程が意識にまで結びつかなくなる。daß bei den zur Hysterie disponierten Kranken von vornherein eine Neigung zur Dissoziation ― zur Auflösung des Zusammenhanges im seelischen Geschehen ― bestehe, in deren Folge manche unbewußte Vorgänge sich nicht zum Bewußten fortsetzen. 

(フロイト『精神分析的観点から見た心因性視覚障害』1910年)


すなわち元来の抑圧としてのリビドー分離[Libidoablösung]はリビドー解離[Libidodissoziation]と言い換えうる。

さらにリビドー解離=欲動解離[Triebdissoziation]ある。

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)





なお、前期ラカンは享楽(フロイトの欲動)を侵入(踏み越え)としたが後年、侵入とした。

享楽の侵犯 [la jouissance de la transgression](ラカン, S7, 30 Mars 1960)

人は侵犯などしない![on ne transgresse rien ! ]〔・・・〕享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である[Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption](ラカン、S17, 26 Novembre 1969)


享楽は侵犯ではない。ラカンの最後の教えの視野から享楽に接近すれば、精神分析の倫理(セミネールⅦ)で示されたものとは異なり、享楽は侵犯ではない。侵入である。La jouissance n'est pas transgression. La jouissance, telle que je l'aborde dans la perspective du dernier enseignement de Lacan, n'est pas – à la différence de ce qui est exposé dans L'Ethique de la psychanalyse –, la jouissance n'est pas une transgression. …cette irruption (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse,  3 juin 2009)

以前の問題系において、我々は言うことができる、欲望は禁止によって生み出される[le désir est créé par l'interdit]と。つまりエディプス起源 [une origine œdipienne]である。そして享楽は禁止に依存する、というのは享楽は禁止の侵犯によるから[la jouissance en dépend parce qu'elle tient à la transgression de l'interdit. ]


そう、まさにラカンはこの禁止の侵犯としての享楽の思考を超えて進んだ。

享楽は禁止のせいでない[la jouissance ne tient pas à une interdiction]。享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は厳密に禁止とは対立する。[la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est de s'opposer précisément à l'interdiction,]。〔・・・〕


享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme,… elle est l'objet d'une fixation.」 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


フロイトにとって原点にある抑圧されたものの回帰は、侵入である。

抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰 [des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. ]〔・・・〕


この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)



中井久夫は先の踏み越え論で、《抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある》と言っていることに注目しておこう。そのあと《解離された自己破壊衝動の囁き》とあるように、これはフロイトの本来の抑圧としての欲動解離であるだろう。