2025年9月23日火曜日

甘えとマゾヒズム

 

土居健郎は「甘え」という語は日本語特有であるが、人間には誰にでもあるとした。


甘えという言葉が日本語に特有なものでありながら、人間一般に共通な心理現象を表しているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近かなものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにでき上がっていることを示している。言い換えれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということができる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971



《日本人の精神構造を理解するための鍵概念》としているが、具体的には次のことである。



発達的に見れば、甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理に存するということはあまりに明かである。〔・・・〕生まれたての乳児については、甘えていると言わないことにまず注意しよう。 大抵は生後一年の後半に、 乳児が漸く物心がつき、母親を求めるようになった時、はじめて「この子は甘えている」というのである。


すなわち甘えとは、乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めることを指していう言葉である。 いいえかえれば甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎児の延長で、母子未分化の状態にあると考えなければならない。しかし、精神の発達と共に次第に自分と母親が別々の存在であることを知覚し、しかもその別の存在である母親が自分に欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求めることが甘えであるということができるのである。

〔・・・〕であるとすると、甘えるということは結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるといえないだろうか。母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにも拘らず甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。この意味で甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、 分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。


〔・・・〕むしろ甘えなくしてはそもそも母子関係の成立が不可能であり、母子関係の成立なくしては幼児は成長することもできないであろう。


さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果していることになる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971)



さらに後年次のようにも言っている。



フロイドの理論と私の理論との間にずれがあるのは、何をもって解釈のための主要な概念としたかという点で彼我の間に相違が存したからであるということができる。すなわちフロイドは彼特有の本能概念(Trieb)を、私は「甘え」を鍵概念としている点が明らかに異なっているのである。(土居健郎「精神医学と言語」1981)


ここで土居健郎はフロイトの本能(Trieb)ーー当時は「本能」と訳されたが「欲動」であるーーではなく「甘え」を鍵概念に移行させた、と言っているが、『「甘え」の構造』は英訳では「The Anatomy of Dependence」(1973)である。土居自身、1987年に「依存的な関係」という表現を使って「甘え」を説明している。


次に「甘え」の心理をどう考えるかという点について少し話をしてみたいと思います。これは日本人にとっては普通の言葉ですからすぐわかるけれども、先ほど申したように違う文化から見るとそれがいかにわかりにくいものかということがわかってくる。一口に「甘え」という状態はどういう場合に起きるかというと、これは人間関係の中で起きる。しかし人間関係がなくて「甘え」が起きるという場合もある。そういう場合は説明がちょっと難しくなります。

 

一番簡単な場合は子供が親に甘えている場合でしょう。これは相手と特別な関係にあって、相手によって愛されているというか、自分が相手に受け入れられているという感じがあって、ある種の一体感が経験されている場合です。これは満足している甘えですね。満足している場合は相手がこちらを受け入れている、それは相互的といいますか、こちらの要求を相手はわかっていて、わかってくれているということがこちらにもわかっている。そこで一体的な感情が起きていることになるのです。

ところでこの状態をもう少し違う点から見てみますと、ふつう相互的といいますと、双方の立場がイコールなわけですね。相互依存というのがそれです。これに反して甘える関係というのは甘えを許容する相手、つまり甘えられる相手がいて、甘える人がいる、そういう一方的なベクトルが付されている関係であるということが言えます。したがって、そういう関係が成立するためにはこちらの気持ちを受け入れてくれる相手がいなくてはいけないし、この関係は非常に相手に寄りかかっているところがあるわけです。一体感と言いましたけれども、たとえば男と女が互いに愛し合って一体感を体験するのとはちょっと違って、この場合は双方の間にあるステータスの違いがある。これは英語で言いますとディペンダンスの関係、すなわち依存的な関係ということができます。要するに甘えは相手次第というところがあります。こちらは甘えたい、しかし向こうが甘えさせてくれればいいけれども、甘えさせてくれなければフラストレーションが起きる。ですから甘えという感情は、それが満足しているときは大変気持ちがいいけれども、同時に傷つきやすい状態です。もし満足が得られなかったら、すねたりひがんだり、ひねくれたり恨んだりします。このように甘えと関係していろんな語彙がもともと日本語に多いのには甘えの不安定性のためかもしれません。

(土居健郎「甘えの心性と近代化」昭和62年10月



ところで依存という語に焦点を当てるなら、フロイトのマゾヒズムは「依存」に関わる。

マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供として取り扱われることを欲している[der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will.](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)




この依存という語を使ってフロイトは次のように記している。

寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)


《愛の喪失に対する不安》とあるが、この不安はリビドー、つまり欲動に関わる。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


そしてフロイトのリアルな欲動はマゾヒズム的なのである。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、マゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



土居にとって「甘え=依存」、フロイトにとって「依存=マゾヒズム=欲動」である。とすれば、甘えはマゾヒズムではないか、という問いが生まれる。もしそうなら、これは何も《日本人の精神構造を理解するための鍵概念》ではなく、フロイト観点からは、人間の原初の姿である。


そしてラカンの享楽とはもちろんフロイトの欲動であり、マゾヒズムである。



享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il (Freud) l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976)


ーー《ラカンの観点では、マゾヒズムは人に広く行き渡っている[dans la perspective de Lacan, il y a une prévalence du masochisme]》(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 3 MAI 1989)


ラカンはマゾヒズムにおいて、達成された愛の関係を享受する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある[Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre.]  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)



ここでもう一度フロイトに戻ろう。


フロイトにとって母へのリビドー固着はマゾヒズムである。

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇, 1905年)

最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ](フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)


そしてマゾヒズムは受動性に関わる。

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


女性的とあるが、これは冗語法である。

男性的と女性的とは、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。これら三つのつの意味のうち最初の意味が、本質的なものであり、精神分析において最も有用なものである。Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne. Die erste dieser drei Bedeutungen ist die wesentliche und die in der Psychoanalyse zumeist verwertbare. (フロイト『性理論三篇』第三篇、1905年、1915年註)


そして母との出来事は受動性つまりマゾヒズム性である。

母のもとにいる幼児の最初の出来事は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動性である[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)


これらは、先に掲げた土居健郎の定義する「甘えの心理的原型」の内実と酷似しているように見える。


なお「⽇本の精神分析における「⽢え」理論の展開と臨床実践」(境明穂、PDF)によれば、土居は「甘え」は乳幼児が母親から受身的に愛されることを願う受身的対象愛(バリント,1952)と重なり合う概念で、「愛する」というより「愛されたい欲求」であり、「対象を求める」ことではなく「対象に求める」ことともしているようだ(『精神療法とは精神分析』1961)。「受身的対象愛=受動的対象愛=マゾヒズム的対象愛」としうるのではないか。(なおフロイトの「愛されたい要求」参照)