2024年8月18日日曜日

ラカンのフェティッシュ把握の移行ーー見せかけからリアルへ


セミネールⅣのラカンは対象aをリアルな対象とフェティッシュの対象に区別した。

我々はフェティッシュの対象とリアルな対象という二つの典型的対象を取り上げている。nous avons pris ces deux objets exemplaires : l'objet fétiche et l'objet réel. (ラカン, S4, 13 Mars 1957)


ジャック=アラン・ミレールが対象aを現実界とその見せかけとしてのフェティッシュに区別しているのはこのラカンに依拠している。

対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある。後者の対象aは、フェティッシュとしての見せかけである。l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant, c'est un semblant comme le fétiche(J.-A. Miller, la Logique de la cure, 1993)


ところがセミネールⅩのラカンはフェティッシュは「欲望の原因」だと言うようになる。

対象a、欲望の原因としての対象aがある[l' objet(a), …comme la cause du désir.]〔・・・〕


フェティッシュは欲望の原因としての対象の次元にある。靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかは、欲望される対象ではない。そうではなくフェティッシュは欲望を引き起こすものである…人はみな知っている、フェティシストにとって、フェティッシュは、欲望が自らを支えるための条件だということを。

je me servirai  du fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause du désir.   Car ne n'est pas le petit soulier, ni le sein, ni quoi que ce soit où vous incarniez le fétiche, qui est désiré, mais le fétiche cause le désir …ce que tout un chacun sait, c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. (Lacan, S10, 16 janvier  1963)


欲望の対象ではなく「欲望の原因」とは現実界のことである。

われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる[quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)


したがってセミネールⅩにおいてフェティッシュの捉え方の大きな移行があることになる。ミレールが次のように注釈しているのは、この移行を示している。

ラカンはセミネール10「不安」にて初めて、対象-原因[objet-cause]を語った。彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュ[le fétiche de la perversion fétichiste]として、この欲望の原因としての対象 [objet comme cause du désir]を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである[le fétiche n'est pas désiré, mais il doit être là pour qu'il y ait désir]。これがフェティッシュとしての対象aである。…


ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件としての対象[un objet qui est condition du désir]である。・・・倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、欲望自体の地位 [le statut du désir comme tel]を表している。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004、摘要訳)


さらにラカンはセミネールⅩとその同時期の『カントとサド』で黒いフェティッシュ概念を提出している。

純粋対象、黒いフェティッシュ[pur objet, fétiche noir.](Lacan, S10, 16 janvier 1963)

享楽が純化されるとき、黒いフェティッシュとなる[Quand la jouissance s'y pétrifi e, il devient le fétiche noir](Lacan, Kant avec Sade , E773, 1963年)


つまりこの黒いフェティッシュは享楽の対象なのである。

「享楽の対象」は、「防衛の原因」かつ「欲望の原因」としてある。というのは、欲望自体は、享楽に対する防衛の様相があるから[l'objet jouissance comme cause de la défense et comme cause du désir, en tant que le désir lui-même est une modalité de la défense contre la jouissance.](J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)


享楽の対象とはフロイトにおいての欲動の対象である、《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


フロイトにとって欲動の対象は固着である。

欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に、対象への欲動の拘束[Bindung des Triebes ]がある場合、それを固着[Fixierung]と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。

Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. (…)  Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト『欲動とその運命』1915年)


そもそもフロイトにおいて欲動は《幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]》( フロイト『性理論三篇』1905年)である。


フロイトはフェティッシュと固着の関係について次のように記している。

「初期の」性的刻印に関して…精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。

alle diese »frühzeitigen« Sexualeindrücke… während die Psychoanalyse daran zweifeln läßt, ob sich pathologische Fixierungen so spät neubilden können. 


真の解釈は、フェティッシュの発生の最初の記憶の背後に、埋没され忘れられた性的発達の最初の記憶の段階があり、それがフェティッシュによって表象される。それは、あたかも「隠蔽記憶」によるようにして、フェティッシュはこの記憶の残滓と沈殿物を表象するのである。つまり幼児期の最初の数年のこの段階に、フェティシズムとフェティッシュの選択が構成的に決定づけられる。

Der wirkliche Sachverhalt ist der, daß hinter der ersten Erinnerung an das Auftreten des Fetisch eine untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung liegt, die durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« vertreten wird, deren Rest und Niederschlag der Fetisch also darstellt. Die Wendung dieser in die ersten Kindheitsjahre fallenden Phase zum Fetischismus sowie die Auswahl des Fetisch selbst sind konstitutionell determiniert.. (フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年、1920年注)


これは、原点には「フェティッシュ的固着」fetischistisch Fixierungがあり、その覆いとしての「隠蔽記憶」Deckerinnerungのフェティッシュがあると言い換えうる。ラカンにおけるフェティッシュの二重の相はおそらくここにある。


事実、フロイトは次のようにも記している。

確かに、我々がフェティッシュの起源を観察した時、原初の欲動代理は二つ部分に分割され、一方は抑圧を受け、他方はまさにこの密接な結びつきのために理想化の運命を辿る。Ja, es kann, wie wir's bei der Entstehung des Fetisch gefunden haben, die ursprüngliche Triebrepräsentanz in zwei Stücke zerlegt worden sein, von denen das eine der Verdrängung verfiel, während der Rest, gerade wegen dieser innigen Verknüpftheit, das Schicksal der Idealisierung erfuhr. (フロイト『抑圧』)


ここでの欲動代理 [Triebrepräsentanz]は欲動の固着[Fixierungen der Triebe]の別名である[参照]。


つまり《抑圧された欲動代理[verdrängten Triebrepräsentanz]》(『抑圧』1915年)=《抑圧された固着[verdrängten Fixierungen] 》(『精神分析入門』第23講、1917年)であり、この「抑圧されたフェティッシュ的固着」と「理想化されたフェティッシュ」ーー物神化されたフェティッシューーがあるという風に捉えられる。


なおラカンの現実界は固着である。

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)



ところで、最晩年のフロイトは自我分裂とフェティッシュを結びつけている。

自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es.〔・・・〕

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt.

我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


先の抑圧論文におけるフェティッシュの起源をめぐる記述は、この自我分裂の文脈において確認できる。



ジャック=アラン・ミレールは先のラカンのフェティッシュ概念移行の指摘をした後の5年後のセミネールでさらに次のように強調している。

倒錯は対象a のモデルを提供する。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

c'est la perversion qui donne le modèle de l'objet petit a. Chez Lacan la perversion a servi aussi de modèle pour dire que dans les névroses c'est la même chose, mais que c'est brouillé, qu'on ne s'en aperçoit pas parce que c'est camouflé par les labyrinthes du désir, par le désir qui est en fait une défense contre la jouissance, et donc que dans les névroses, il faut en passer par l'interprétation.


倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである。ここに、サントーム概念が見出される。

En tout cas, si on suit le modèle de la perversion, on n'en passe pas par le fantasme. La perversion met, au contraire, en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnement. Et c'est ce que retrouve le concept de sinthome. 


(神経症とは異なり倒錯においては)幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない[Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme]。 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


これは事実上、フェティッシュとサントームを結びつけていることになる。サントームは享楽自体であり、つまり固着である。

サントームという享楽自体 [la jouissance propre du sinthome](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)



……………


※附記

フロイトは、オットー・ランク等の同僚との議事録「足フェティシズムの事例」で、こう言っている。

足フェティシズムの最も簡潔な定式は、マゾヒズム的な秘密の覗きである[Die kürzeste formel für den Fussfet.wäre: in masochistischer Geheimseher. ](Freud: Ein Fall von Fußfetischismus, 1914年)


フロイトにおいてマゾヒズムは何よりもまず主体が受動的に受けた印象(刻印)に関わる。


マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


女性的ともあるが、フロイトにとってここでの「女性的」自体、生物学的女性性ではなく受動性を意味する。

男性的と女性的とは、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。これら三つのつの意味のうち最初の意味が、本質的なものであり、精神分析において最も有用なものである。Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne. Die erste dieser drei Bedeutungen ist die wesentliche und die in der Psychoanalyse zumeist verwertbare.(フロイト『性理論三篇』第三篇、1905年、1915年註)


そしてマゾヒズム自体、固着に関わる。

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)


さらにフロイトは固着とフェティシズムを結びつけつつ、足フェチ等のフェティシズム的崇拝を語っている。

かつて渇望された対象、女のペニスへの固着 [die Fixierung an das einst heißbegehrte Objekt, den Penis des Weibes]は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求[infantiler Sexualforschung]のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴のフェティシズム的崇拝[Die fetischartige Verehrung des weiblichen Fußes und Schuhes]は、足を、かつて崇敬し、その後ないことに気づいた女のペニスにたいする代理象徴としているようにみえる[scheint den Fuß nur als Ersatzsymbol für das einst verehrte, seither vermißte Glied des Weibes zu nehmen;](フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)


この記述からフェティシズム的固着自体、受動的な、つまりマゾヒズム的な固着に関わるのは明らかだろう。