2026年8月17日月曜日

備忘「疎外と分離」


 疎外と分離[aliénation et séparation]については、むかしーーもう10年以上前に向井雅明グループの訳でーー次のエリック・ロランの説明を拾ったことがある。


◼️エリック・ローラン『疎外と分離』Éric Laurent, ALIENATION AND SEPARATION (II),1990, PDF

主体と<他者>の和集合は喪失を残します.主体は<他者>のなかに自らを探そうとしても,主体は失われた部分としての自らを見つけることが出来るだけです.主体は主人のシニフィアンに囚われ,自らの存在の一部分を喪失しています.疎外(つまり,同一性を持たない主体が何かと同一化する必要があること)は,主体が自らを定義するのはシニフィアン連鎖においてだけではなく,欲動のレベルでは<他者>に関係するものとしての自らの享楽によってもまた定義するということを,より深い意味において覆い,あるいはオーバーラップさせています.ジャック=アラン・ミレールが最初に展開したシェーマを受け入れるなら,このようになります.





フロイトの用語では,1925年の「否定」と題された有名な論文で指摘されたように,疎外は享楽の対象そのものが失われたことを覆い隠します.主体を生産するこれら二つの公式あるいは論理学的操作はある意味で垂直にも読めます.最初に疎外,つまり,主体が彼を待ち受ける言語のなかで生産され,<他者>の場に書き込まれます.主体は自らを分割されたものとして,いくつもの部分欲動のあいだで寸断され,常に喪失を被った部分的なものとして見出します.


この公式は別なふうにも読めます.主体は根本的に<他者>の享楽の対象であり,子供としての主体の最初の位置づけはこの<他者>(現実の<他者>すなわち一般的には母)の失われた部分である,と読めるのです.主体は対象aとして人生を始め,失われた部分に同一化し,シニフィアンの連鎖に入るのです.ラカンが言うように,主体は「自らの一次的同一化を受け入れる」――これは『エクリ』で使われた表現です.主体の一次的同一化はある意味で主人のシニフィアンとの同一化です.より深い意味では,主体の一次的同一化は,最終的に主体が定義する対象との同一化です.これは完全な同一化です――主体が<他者>の欲望のなかで,欲望の象徴的水準だけでなく,享楽の現実的実体の水準においての同一化なのです.主体は,シニフィアン連鎖の発展の中でこの対象を回復したり同定しようとしているのです.


このようにして二つのシェーマを両方のやり方で読むことができます.最初に疎外があって,次に分離.あるいは,最初に分離があって,次に疎外があると.論理的に言えば,疎外が先にあります.分析状況のなかでは,分離が先にあります.





私の準拠することが多いポール・バーハウは疎外を二段階に分けて図示している。






つまり原疎外(原抑圧)と二次疎外(後期抑圧)である。➤Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004、PDF


原疎外の図にあるS1は母なるシニフィアン、二次疎外の図のS2は父の隠喩だと捉えうる。


父の隠喩[la métaphore paternelle父は隠喩である[le père est une métaphore.

エディプスコンプレックスにおける父の機能は、他のシニフィアンの代理シニフィアンである他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン、母なるシニフィアン[le signifiant maternelである[La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


結局、疎外とはフロイト用語では同一化に関わる(ただし十全な同一化はされず欲動の身体のエスへの置き残しがある[参照])

ラカンは、大他者との関係に基礎付けられた本質的な象徴的同一化、そして想像的同一化におけるものを「疎外」と呼んでいる。Lacan appelle l'aliénation, dans la mesure où on y trouve essentiellement l'identification symbolique fondée sur le rapport à l'insigne de l'Autre, et aussi bien l'identification imaginaire.(Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS   Cours du 10 avril 1996

「疎外」は大他者のシニフィアンとの同一化を通じて成立する[The term alienation …comes into being through identification with the signifiers of the Other (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


原疎外が母との同一化、二次疎外が父との同一化である。

母との同一化[Mutteridentifizierung (フロイト『続精神分析入門講義』第33講、1933年)

父との同一化[Vateridentifizierung](フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


分離はこうだ。




aとあるが、実際はどちらも対象aである(享楽の穴と剰余享楽の穴埋め)。

[去勢]の上の対象aa)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011

ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。つまり穴と穴埋めである[le trou et le bouchon ]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) (J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)



先の図はラカンがセミネールⅪで示した次の図を基盤にしている。



自我分裂の主体$



ここでエリック・ロランのトーラス円図に戻れば、主体$はどの主体を言っているのか、享楽の主体かシニフィアンの主体かについて混乱を与える。



aはよいだろう、ーー《対象aの機能を通して、主体は彼自身から分離し、分離のエッセンスを形成するという意味での「存在の迷妄」に繋がることを止める。La fonction de cet objet(a), pour autant que c'est là que le sujet se sépare, qu'il n'est pas lié à cette vacillation de l'être au sens, qui fait l'essentiel de l'aliénation》Lacan,S11, 17 Juin  1964)



エリック・ロランはおそらく疎外の方の主体$は享楽の主体、分離のほうの主体$はシニフィアンの主体のことを言っているのだろうが。


主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.(J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987


疎外のほうの$が享楽の主体なら、バーハウ図のように対象aで示すのが混同がなくなり望ましい。

対象aは斜線を引かれた主体自体である。

le petit a est le sujet lui-mêmea ≡ $  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする。

le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $  (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008



※参照➤ラカンにおける「二段階の分裂した主体」



なおフロイトにとって原疎外(原抑圧)は異者に関わる。

疎外は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自我自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, …Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)

われわれには原抑圧[Urverdrängung]、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある。それは欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという事実から成り、これにより固着[Fixerung]がもたらされる。問題となっている代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束される。Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden. 〔・・・〕


この欲動代理は抑圧により意識の影響をまぬがれると、よりいっそう自由に豊かに展開する。それはいわば暗闇に蔓延り、極端な表現形式を見いだし、異者[fremd]のようなものとして現れる。die Triebrepräsentanz sich ungestörter und reichhaltiger entwickelt, wenn sie durch die Verdrängung dem bewußten Einfluß entzogen ist. Sie wuchert dann sozusagen im Dunkeln und findet extreme Ausdrucksformen, (…) fremd erscheinen müssen (フロイト『抑圧』1915年)


この異者がラカンのリアルな対象aである。

異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté (Lacan, S16, 14  Mai  1969)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004


不快の審級にあるものは、非自我のなかに刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として現れる l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, […] le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt (Lacan, S11, 17 Juin  1964)

感覚総体からの自我の隔離[Loslösung des Ichs ――すなわち「非自我」Draußen や外界の承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感[Schmerz- und Unlustempfindungen]である。こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我の異者[fremdes]で自我を脅かす非自我と対立する純粋快自我[reines Lust-Ich]を形成しようとする傾向が生まれる。

Einen weiteren Antrieb zur Loslösung des Ichs von der Empfindungsmasse, also zur Anerkennung eines »Draußen«, einer Außenwelt, geben die häufigen, vielfältigen, unvermeidlichen Schmerz- und Unlustempfindungen, die das unumschränkt herrschende Lustprinzip aufheben und vermeiden heißt. Es entsteht die Tendenz, alles, was Quelle solcher Unlust werden kann, vom Ich abzusondern, es nach außen zu werfen, ein reines Lust-Ich zu bilden, dem ein fremdes, drohendes Draußen gegenübersteht.(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)



この不快がフロイトの欲動でありラカンの享楽である。


不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970


そして不快な異者(欲動=享楽)が先に見たように対象aで示される。


(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)



➤詳細ヴァージョン

(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER. From subject to drive , 2001)