2019年11月14日木曜日

ポピュリズムの誘惑に対抗して

ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)

ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)
資本主義社会では、主観的暴力(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』2007年)
要するに、(ポピュリストたちの)「善い」選択自体が、支配的イデオロギー(資本主義)を強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant, Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist, 2008)


フランクフルト学派代表かつユダヤ系ドイツ人ホルクハイマーは1939年にこう言った。

資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen."(マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.」1939年)

ーー彼は当時、ナチの「ファシズム」から逃れるために米国に亡命し、コロンビア大学で教鞭をとっていた。

資本主義について批判的に語りたくないらしいーーいやそんな望みえないことを求めないまでも、自らの足元にある超少子高齢化社会における財政赤字累積に「選択的非注意」をしているーーあのうわっすべりの「正義の味方」ポピュリスト連中は徹底的に醜いのである。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年)




ところでMMT 理論の代表的経済学者の一人とされるランダル・レイはこんなことを言っているらしいな。

経済学者にとって、年率40パーセント未満のインフレ率から経済への重大な悪影響を見出すことは困難である。economists are hard pressed to find significant negative economic effects from inflation at rates under 40 percent per year. (ランダル・レイRandall Wray「現代貨幣理論 Modern Money Theory」2012年)

ポピュリストのなかにはこのほとんどハイパーインフレに近い数字を問題とないとする理論がお好きなやつがいるらしい。

ま、経済音痴のあたまのひどく悪そうな左翼ポピュリスト政治家たちが、これもあたまのひどく悪いことが明らかな経済評論家の戯言に踊らされているらしいがね。

すこしはオベンキョウしたらどうだろ? たとえばマルクスでも。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。…

ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第三巻)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)