2019年11月27日水曜日

トラウマは書かれることを止めない


書かれることを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…

書かれぬことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なものimpossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX Cours du 11 février 2009)




トラウマは書かれることを止めない
症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
身体の上への刻印は書かれることを止めない
自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen …これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel, de cette projection d'inconscient, de ce véritable criblage […] du parlêtre par le dire de deux conjoints. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
「固着 Fixierung」とは「身体の上への刻印 inscription」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からの反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
異物(異者としての身体)は書かれることを止めない
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

外密=モノは書かれることを止めない
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
対象a は外密的である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母(原母)である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガー が使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang は…不気味なもの unheimlich として感ぜられる。(フロイト『不気味なもの』1919年)
欲動固着による無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es 。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
リビドー 固着の残滓は書かれることを止めない
分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…このトラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
享楽の固着は書かれることを止めない
フロイトの固着は…享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
享楽の固着とそのトラウマ的作用fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
サントームは書かれることを止めない
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名(モノの名)、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveである。それは、S2なきS1(S1 sans S2)=固着を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'être et l'un、23/03/2011) 
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
ひとりの女は書かれることを止めない
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
欲動のリアル réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、Réponse à une question de Marcel RitterStrasbourg le 26 janvier 1975
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2014)
補足
サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne、1987)
1と享楽の結びつきの結びつきが分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,、L'être et l'un、 30/03/2011) 
まさに享楽がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)
不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(J.-A. MILLER, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

ラカンはサントームを「1がある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「1がある」は、シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。il dégage comme son réel essentiel l'itération […]comme ce qui reste de l'articulation signifiante.

ラカンは言っている、2はない[il n'y a pas de deux]と。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら1である[Il n'y a que le un qui se répète dans l'itération]。しかしこの1は身体ではない。1と身体がある [Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps. ](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)