2020年2月18日火曜日

ラカンマテームの読み方






たとえばこうある。




上の二つはポール・バーハウのもの。そして最後のはジャック=アラン・ミレールがおりおりに示してきたものをまとめたもの。

どう判断したらいいのだろうか、このマテームの散乱ぐらいは。通常はそう思うだろう。本来、縦軸は同じ意味内容のマテームでなければいけないのに。

右端はよいだろう、しばしば示されてきた内容である。直接に明言したのはセミネール17だが、セミネール6、1959年4月8日に「大他者の大他者はない」と宣言した当然の帰結の審級にあるエディプス幻想であり、フロイトのファミリーロマンスである。

名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970)
 エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant  un rêve de FREUD.  ( Lacan, S17, 11 Mars 1970)



ここでの問いは左端と中央である。

冒頭図の左端のȺ が去勢(-φ)  であるのは確かである。Ⱥ  は穴を意味する。そして、《-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めを理解するための最も基本的方法である》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)とあるように、-φ= Ⱥ。

そしてこれを「斜線を引かれた J」するのも、ラカン自身には直接的にはその提示がないが、出生とともに「享楽の喪失」(リビドーの控除)があるとするラメラ神話等のラカン発言を受け入れれば正当的である。

(- J) ≡ (-φ)  (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)



そして (-φ)  が対象aであるのはラカン自身が言っている。

私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a [objet(a)]を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

ーーもっとも対象aには何種類もの価値があることに注意しなくてはならないが。基本は、穴と穴埋めのどちらも対象aであるが、穴は出産外傷による原穴と固着による穴、穴埋めにも何種類かの対象a(フェティッシュ、囮の対象a等)がある。

中央のマテームはどうか。ミレールはシグマΣは、S(Ⱥ) だと言っている。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)




とすれば後は、シグマΣ =S1=aを問えばよい。そうすれば、諸マテームは整合性をもつ。

まずPaul Verhaeghe &DeclercqのLacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002から引こう。



固着=原症状(純化された症状)=純粋な対象a=性関係はない
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち「症状のない主体はない」。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物を削ぎ落としたもの、言語によって構成された無意識の外部に外立ex-sistするもの、純粋な形態での対象a、もしくは欲動である。

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を明示する。《私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。通常の性関係自体がないなら、性的パートナーとのどの関係も症状的関係である。(Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)
文字=享楽の固着=純対象a=S1(S2なきS1)
R.S.I. (1974-1975)のセミネール22(21-01-75)にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字 lettre」概念を通した対象a を明示した。この「文字」は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着する実体[the substance fixating the Real jouissance]である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に吸収されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から接続の切れたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。

この「文字」の考え方を以て、ラカンは、現実界と象徴界とのあいだの境界は、弱い境界だという事実を強調しようとしている。すなわち、現実界が象徴界によって植民地化されるということは、常に可能である。たとえば、諸シニフィアンの連鎖は、ドラの口唇享楽に侵入した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳と嗄れ声の症状を通して、記号化された。フロイトによって分析された症状の全ては、象徴界の代理部分であり、欲動の現実界は、ほとんど変わらぬままの姿で後に患者のもとに回帰した。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)



原症状はもちろんサントームΣである。これがフロイトの固着に相当する。

いくらか補おう。

①まず最初の「固着=原症状(純化された症状)=純粋な対象a」の対象aについて。

ラカンはこれを骨象と表現している。

骨象=文字対象a
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)


この骨象=文字対象aが固着であるのは、次のコレット・ソレールの注釈が示している。

リアルな症状=固着としての症状=文字固着
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


バーハウで補えば、次の通り。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


骨象とは、事実上、身体の上への刻印のことである(あるいは身体に突き刺さった骨)。

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel, (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov 1974)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


そしてこの固着(享楽の固着)は、トラウマへの固着のこと。

トラウマへの固着
身体の出来事は、トラウマの審級にある。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象 l'objet d'une fixation である。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un 、2 février 2011)
自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。それは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)

このトラウマへの固着により身体的なものが、エス=現実界に置き残される(リビドー固着の残滓)。この意味での対象a=去勢が、文字固着である。

これはフロイトの次の文に相当する。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)




②次に「文字=享楽の固着=純対象a=S1(S2なきS1)」について。

サントーム(原症状)=S1=S2なきS1
ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽 La jouissance répétitiveは「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自己享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
S2なきS1=現実界的シニフィアン
シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
リアルな対象a=享楽の固着=S1(S2なきS1)
ラカンは、対象aの水準における現実界を位置付けようとした [tenté de situer le réel au niveau de l'objet petit a]。シニフィアンの固着の場においてである [à la place d'une fixation de signifiant]。もしそう言えるなら、それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。( J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 11/12/96)
現実界のなかのこのS1[Ce S1 dans le réel] が、おそらく、フロイトが固着と呼んだものである。私はこの用語をまさにこの今、想起する。無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

これは上の注釈以外、何もつけ加える必要はない。

簡単なまとめをしておこう。

サントーム=一般化症状=享楽の固着=リビドーの固着
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もがもっている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
疑いもなく、症状(サントーム)は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
フロイトは幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)


上に見られるようにリビドー =享楽である。《ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。》(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そして固着とは「性関係はない」に直接つながる。

固着=性関係はない
ラカンが導入した身体は…フロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



ここからーーとくに「S2なきS1」ーー、次のような話になる。

父の名の排除=S2の排除
父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)
精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)


今でも日本ラカン派のなかには、父の名の排除が精神病の原因だと「バカのひとつ覚え」のように言っている人がいる。ーーいや、それではシツレイである。仏臨床主流ラカン派でもようやくごく最近認知されてきた話だから。

精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰現前
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)


以上、こういった話はほんの一握りのラカン派が語ってきただけで、いまだ十分には認知されていないが、現在のわたくしは上にあげた注釈を取っているということであり、日本で一般的に流通しているらしいーー実際はよく知らないがーー注釈とは異なるのであれば、このためである。