2020年2月3日月曜日

サントームは母の名である Le sinthome est le nom de la Mère


サントームは母の名である Le sinthome est le nom de la Mère
ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)



モノはエスの近似概念であり、私の最も内にある親密な外部である
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

モノは享楽の対象であり、喪われた対象としての母である
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungen をもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
サントームは一般化症状であり、固着としてのリアルな症状である
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もがもっている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixionである。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)
サントームは身体の上への刻印である
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel, (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov, 1974)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
サントームは享楽の固着である
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
フロイトは幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
享楽の固着はトラウマへの固着である
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
幼児期の「病因的トラウマ ätiologische Traumen」は…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である。…
これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。それは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
享楽の固着は母への固着である
女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残滓、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
サントームは母の言葉に起源がある
サントームは母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
ララングlalangueは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の言葉[lalangue maternelle)]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(コレット ・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)