2020年4月21日火曜日

剰余享楽定義集



フロイトラカン版「ファントム空間発達図」」にて上の図を示したが、以下、「剰余享楽」について。


剰余享楽=可能な限り少なく享楽すること
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」…それはきわめてシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。…そして快の獲得、つまり剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».  …jouir le moins possible .   …jouit au minimum(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
性的生 Sexualleben=快の獲得 Lustgewinnung
a) 性的生 Sexualleben は、思春期からのみ始まるのではなく、出生後ただちに性的生の明瞭な顕れがある。

b) 「性的sexuell」概念と「性器的genital」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器 Genitalien とは全く関係がない多くの活動を含んでいる。

c) 性的生Sexuallebenは、身体諸領域 Körperzonen からの「快の獲得Lustgewinnung」機能によって構成されている。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
快の獲得=栄養摂取ではなくおしゃぶりの快
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
剰余享楽=マルクス的快
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
剰余享楽=享楽欠如の享楽
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)
最も純粋には、剰余享楽としての対象aの享楽とは、享楽欠如の享楽(享楽欠如のエンジョイ) [enjoying the lack of enjoyment] のみを意味する。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
欲望は、欠如の換喩と同じ程度に、剰余享楽の換喩です。 le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.…

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如(エンジョイを欲する [manque à jouir]) です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]」と呼んだものです。

けれども、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如の享楽(享楽欠如のエンジョイ[jouir du manque à jouir] )が可能です。(コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », 2013)
剰余享楽=飲めば飲むほど乾く
剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵の発見は、次のことを認知を意味する。すなわち剰余享楽の必然性が、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていること。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。
さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望 la soif du manque-à-jouir への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie, 1970)
新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。(ピエール・ブルノPierre Bruno、capitalist exemption、2016)


ラカンのサントームのいくつかある意味のひとつは、この「飲めば飲むほど渇く」からの脱却である。

Sinthome = Saint Homme 聖人
聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.  (LACAN,TÉLÉVISION, Noël 1973)



最後に現代ラカン派による剰余享楽の定義を掲げておく。

剰余享楽=もはやどんな享楽もない
仏語の「 le plus-de-jouir(剰余享楽)」とは、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽 を!」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「剰余享楽plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouirpar Gisèle Chaboudez, 2013)


剰余享楽=昇華の対象
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にpar natureあるいは象徴界の効果によって par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a[objets a primordiaux]の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)

原対象aの代表的なものは胎盤である。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった自己自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象をシンボライズする。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン, S11, 20 Mai 1964)


なおフロイトにとって、たとえば学問も芸術も昇華である。

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen 、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにすることである。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。

一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。…芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なものである。…だがこの種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。…この種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

ちなみに前期ラカンはこう言っている、《ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science]》(ラカン、S7, 03  Février  1960) 

ただしこれはそのまま受け取る必要はないので、たとえば宗教自体は強迫神経症でも宗教の信者は、大他者を信じるという観点からは基本的にはヒステリー的だろう。とはいえ強迫神経症はヒステリーの方言にすぎない。


強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache (フロイト『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909 )