2021年3月15日月曜日

フェティシスト的被愛妄想[fetischistische Erotomanie]


フロイトは粗雑な表現だと言いつつ一度だけ、フェティシスト的被愛妄想[fetischistische Erotomanie]という言い方をしている。


ノルベルト・ハーノルトの状態は作者によってかなり頻繁に「妄想」Wahn とよばれている、そしてわれわれもまたその呼称を非難する理由はない。「妄想」の主要な性質をあげることができる。これらの主要性質によっても、たしかに妄想という状態は充分にいいつくされはしないが、しかしその他の諸障害からははっきりと区別される。妄想は第一に、肉体的なものには直接的作用をおよぼさない、そしてただ心的な微候によってのみそれと分かる病状のグループに属しており、第二にそこにおいては「空想」Phantasienが支配権を握ってしまっているという事実、すなわちそれにとりつかれた人間は空想を現実だと思いこみ、その人の行動にもその影響が現われるという事実によって特徴づけられている。


グラディーヴァが残した独特の形の足跡を灰の中に探そうとして主人公が行なったあのポンペイ旅行を思い起こしてみよう、あれこそ妄想の支配下にある行動の見事な実例である。精神医学者ならノルベルト・ハーノルトの妄想を、おそらでパラノイアという大きなグループに加えて、「フェティシスト的被愛妄想」fetischistische Erotomanieと名づけるであろう、なぜならば精神医学者にとっては石像への熱愛というととがもっとも注目を引く事実であろうし、すべてを粗雑にとらえる彼らの見方 seiner alles vergröbernden Auffassung  からすれば、女性の足や足の運び方にたいする若い考古学者の関心に出会うと、「フェティシズム」ではないかと疑いたくなるに違いないからである。にもかかわらずこのように、種々さまざまの妄想を内容の点から命名したり区分したりするととはすべて、不確実で実際には役立たない点を内包している。

※ノルベルト・ハーノルト の 例は実際にはパラノイア性妄想ではなく、ヒステリー性と呼ばれなくてはならないだろう[Der Fall N. H. müßte in Wirklichkeit als hysterischer, nicht als paranoischer Wahn bezeichnet werden.]。パラノイアの特徴はこの場合見られない。(フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第2章、1907年)


フロイト曰くの一般の精神医学者の粗雑な見方としての「フェティシスト的被愛妄想」fetischistische Erotomanieとは私にはとても示唆溢れる表現である。


このフロイト観点からは、晩年のラカンの「人はみな妄想する」とはひどく粗雑だということになるだろうか。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。[Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant ](Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


ーーラカンはフロイトに依拠しつつこう言ったのである。


まさにラカンは最後の教えで、「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」と定式化した。これは臨床の彼岸にあるものを指し示している。すなわち「人はみなトラウマ化されている」である。〔・・・〕そしてこの意味は「すべての人にとって穴がある」である。


C'est la valeur que je donne au Tout le monde est fou qu'a formul é Lacan dans son tout dernier enseignement. Ça pointe vers un au-delà de la clinique, ça dit que tout le monde est traumatisé,… Et ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  (J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


人はみな妄想するとは、「人はみな穴埋めする」である。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)


この穴=トラウマ自体、フロイトに依拠している。


ラカンの現実界はフロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


現代主流ラカン派にとって、妄想もフェティッシュも愛も、人がみなもつトラウマに対する防衛=穴埋めなのである。


倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する[ le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre,](ラカン、S16、26 Mars 1969)

父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)


フロイト自身、妄想を次のように表現している。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)


この観点ーー地階にあるトラウマに対する防衛という観点ーーにたてば、フェティシスト的被愛妄想[fetischistische Erotomanie]とは決して粗雑な表現ではない(もちろん上階にある症状区分としては粗雑だとフロイトは言ったのだが)。


たとえば最晩年のフロイトはこう言っている。


すべての神経症的障害の原因は混合的なものである[Die Ätiologie aller neurotischen Störungen ist ja eine gemischte; ]


すなわち、それはあまりに強すぎる欲動が自我による飼い馴らしに反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである[es handelt sich entweder um überstarke, also gegen die Bändigung durch das Ich widerspenstige Triebe, oder um die Wirkung von frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumen, deren ein unreifes Ich nicht Herr werden konnte. ]

概してそれは二つの契機、素因的なものと偶然的なものとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすく、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態においてもその障害が現われる可能性は増大する。[In der Regel um ein Zusammenwirken beider Momente, des konstitutionellen und des akzidentellen. Je stärker das erstere, desto eher wird ein Trauma zur Fixierung führen und eine Entwicklungsstörung zurücklassen; je stärker das Trauma, desto sicherer wird es seine Schädigung auch unter normalen Triebverhältnissen äußern. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)


ここでの神経症は、通常の神経症(精神神経症)だけでなく、現勢神経症も含んでおり、基本的にはこの二つがフロイトにとって全症状である。


現勢神経症の症状は、しばしば、精神神経症の症状の核であり先駆である。das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms. (フロイト『精神分析入門』第24講、1917年)


この文脈のなかでフロイトは「神経症」という語彙を使っている。


神経症はトラウマの病と等価とみなしうる。その情動的特徴が甚だしく強烈なトラウマ的出来事を取り扱えないことにより、神経症は生じる。Die Neurose wäre einer traumatischen Erkrankung gleichzusetzen und entstünde durch die Unfähigkeit, ein überstark affektbetontes Erlebnis zu erledigen. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1917年)



ほかにもフロイトは1926年につぎのように記している。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)

不安は一方でトラウマの予感であり、他方でトラウマの緩和された形での反復である。Die Angst ist also einerseits Erwartung des Traumas, anderseits eine gemilderte Wiederholung desselben.(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)


これは「すべての症状形成は、トラウマに対する防衛だ」と言い換えうる。防衛すなわち抑圧である。



私は後に(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。〔・・・〕


この概念は、自我が葛藤にさいして役立てるすべての技術を総称している。抑圧はこの防衛手段のあるもの、つまり、われわれの研究方向の関係から、最初に分かった防衛手段の名称である。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)


そして原防衛が原抑圧=固着である。


抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段である。Alle Verdrängungen geschehen in früher Kindheit; es sind primitive Abwehrmaßregeln des unreifen, schwachen Ichs. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年)


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


原抑圧自体はラカン的には原穴埋めだが、穴埋めの残滓が必ずある。ラカンが《原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt》 (Lacan, S22, 08 Avril 1975)というとき、残滓としてのトラウマが反復強迫するという意味である。


したがってフロイトの言う「引力」が事実上、ラカンの穴である。


私が目指すこの穴、それを原抑圧のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975