2022年6月5日日曜日

群衆と集団

 


フロイトの『集団心理学と自我の分析(Massenpsychologie und Ich-Analyse)』の第2章は、ル・ボンの『群衆心理(La psychologie des foules)』(1895年)の叙述とその解釈に当てられている。


フロイトがここで使っている一般には「集団」と訳される"die Masse"は、「群衆」に置き換えうる。


(ギュスターヴ・ル・ボンGustave Le Bonの『群衆心理 La psychologie des foules』(1895年)によれば)、

集団(群衆)は衝動的で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、殆どもっぱら無意識によって導かれている。 Die Masse ist impulsiv, wandelbar und reizbar. Sie wird fast ausschließlich vom Unbewußten geleitet.

集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。 Die Impulse, denen die Masse gehorcht, können je nach Umständen edel oder grausam, heroisch oder feige sein, jedenfalls aber sind sie so gebieterisch, daß nicht das persönliche, nicht einmal das Interesse der Selbsterhaltung zur Geltung kommt.

集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感 Allmacht をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。

Nichts ist bei ihr vorbedacht. Wenn sie auch die Dinge leidenschaftlich begehrt, so doch nie für lange, sie ist unfähig zu einem Dauerwillen. Sie verträgt keinen Aufschub zwischen ihrem Begehren und der Verwirklichung des Begehrten. Sie hat das Gefühl der Allmacht, für das Individuum in der Masse schwindet der Begriff des Unmöglichen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章「ル・ボンの集団精神の叙述[Le Bons Schilderung der Massenseele]」 1921年)


第3章は、ウイリアム・マックドゥガル(William McDougall)の『集団の心(The Group Mind)』1920年)が引用されている。マックドゥガルは集団 groupと群集 crowdを区別していることが指摘されている。組織化されていない人間の群が群衆であり、何らの形で組織化された人間の群が集団である。


マックドゥガル(William McDougall)の『集団の心The Group Mind』1920年)によれば、もっとも簡単な場合には集団 groupはなんの組織ももっていないか、あるいは、組織と名づけるに値しない程度のものしかもっていない。彼はこのような集団を群集 crowdといいあらわしている。


けれども彼は、群集(人間の群れ[ Haufen Menschen」)には少なくとも組織の最初の端緒がつくられていて、それがなければ、人間が群れをなしてあつまることは稀であることを認めている。また、群集というこの簡単な集団にこそ、集合心理学[Kollektivpsychologie]の多くの根本事実がとりわけ容易にみとめられると語っている。

Doch gesteht er zu, daß ein Haufen Menschen nicht leicht zusammenkommt, ohne daß sich in ihm wenigstens die ersten Anfänge einer Organisation bildeten, und daß gerade an diesen einfachen Massen manche Grundtatsachen der Kollektivpsychologie besonders leicht zu erkennen sind 


偶然に吹き寄せられたような人間の群れの仲間[Mitgliedern eines Menschenhaufens] が、心理学的な意味での集団に類したものを形成するには、これらの個人たちが相互に何か共通なもの、つまりある一つの対象にたいする共通の関心とか、ある状況の中で、おなじ方向にむかう感情とか、そして(その結果と私はいいたいが) 相互に影響し合うある程度の集団成員相互間の影響とか、これらのものを共有していることが条件として必要になる。Damit sich aus den zufällig zusammengewehten Mitgliedern eines Menschenhaufens etwas wie eine Masse im psychologischen Sinne bilde, wird als Bedingung erfordert, daß diese Einzelnen etwas miteinander gemein haben, ein gemeinsames Interesse an einem Objekt, eine gleichartige Gefühlsrichtung in einer gewissen Situation und (ich würde einsetzen: infolgedessen) ein gewisses Maß von Fähigkeit, sich untereinander zu beeinflussen.(»Some degree of reciprocal influence between the members of the group.«) 

この共通性[Gemeinsamkeiten](この精神的な同質性 this mental homogeneity) が高ければ高いほどそれだけ容易に、個人たちのあいだから心理学的集団[psychologische Masse]が作られ、「集団精神[Massenseele](集団の心)」の現れはますます際立ってくる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第3章、1921年)





フロイトの考えでは、上に掲げた文ーー再掲しようーー次の文が群衆から心理学的集団への移行の核心のひとつである。


偶然に吹き寄せられたような人間の群れの仲間[Mitgliedern eines Menschenhaufens] が、心理学的な意味での集団に類したものを形成するには、これらの個人たちが相互に何か共通なもの、つまりある一つの対象にたいする共通の関心とか、ある状況の中で、おなじ方向にむかう感情とか、そして(その結果と私はいいたいが) 相互に影響し合うある程度の集団成員相互間の影響とか、これらのものを共有していることが条件として必要になる。


この共通性[Gemeinsamkeiten](この精神的な同質性 this mental homogeneity) が高ければ高いほどそれだけ容易に、個人たちのあいだから心理学的集団[psychologische Masse]が作られ、「集団精神[Massenseele](集団の心)」の現れはますます際立ってくる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第3章、1921年)



この群衆を結びつける共通性をフロイトは「自我理想」と呼んだのである。


原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)





フロイトは教会と軍隊の指導者の事例を挙げて、この自我理想に相当するものを父のかわり[Vaterersatz]とも呼んでいる[参照]。


もっとも言語自体が集団を結びつけうる(ラカンの父の名とは事実上、言語である[参照])。


言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)



さらに「特定の個人や制度にたいする憎悪」も諸自我に同一化をもたらし心理学的集団を作るという意味で、自我理想と同じ機能をもつ。


指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)



……………………


ラカン派では自我理想との同一化を「象徴的同一化」と呼ぶ。


ラカンの象徴的同一化のマテーム I(A)は、フロイトの『集団心理学』からの自我理想である[le mathème de l'identification symbolique de Lacan, I(A) …l'idéal du moi …à partir de la Massenpsychologie](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)


フロイトには自我理想とは別に理想自我という概念がある。


理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す。[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le  moi-Idéal [ i'(a) ]   est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué  par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


この理想自我との同一化は「想像的同一化」である。


理想自我との同一化は想像的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A.  MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986)


自我理想との同一化と理想自我との同一化の相違は、「取り入れと投射」の違いである。


投射は想像界の機能であり、取り入れは象徴界に関係する機能である[La projection est fonction de l'imaginaire, tandis que l'introjection est en relation au symbolique.](J.-A. MILLER, Extimité II - 20 novembre 1985)


別の言い方なら、「構成する同一化」と「構成された同一化」の相違である。


「自我理想との同一化」と「理想自我との同一化」の相違は、「構成する同一化」と「構成された同一化」の相違である。Cette distinction de l'Idéal du moi et du moi idéal, en tant qu'elle distingue l'identification constituante et l'identification constituée,(J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 7 JANVIER 1987)






諸自我が自我理想を取り入れるのが象徴的同一化であり、その自我理想をベースにして自我間で投射し合うのが想像的同一化である。





最後に同一化のメカニズムが最も精緻に記述されている『集団心理学と自我の分析』の「同一化」との章題をもつ第7章から抜き出しておこう。ここには寄宿舎の少女たちの集団ヒステリーの事例も示されている。


やや複雑な関係の中から、神経症の症状形成における同一化[die Identifizierung bei einer neurotischen Symptombildung]をとり出してみよう。いまここでは、幼い少女を例にとってみようとおもうが、彼女は母親とおなじ苦痛な症状、たとえば母親とおなじような苦しげな咳に悩んでいる。この症状は、さまざまな起こり方をする。この同一化はエディプスコンプレクスから来ることもありうる[Entweder ist die Identifizierung dieselbe aus dem Ödipuskomplex]。この事例では、同一化は母の場を占めようとする少女における敵意[ein feindseliges Ersetzenwollen der Mutter]を示す。そしてこの症状は父への対象愛[die Objektliebe zum Vater]を表現している。この症状は、少女の罪意識の下にある母の代理物の実現である[es realisiert die Ersetzung der Mutter unter dem Einfluß des Schuldbewußtseins]。つまり「お前は母親になろうと思った以上、今はせめて苦しむのだ」と。これはヒステリー症状形成の完璧なメカニズム[der komplette Mechanismus der hysterischen Symptombildung]である。


また一方で、その症状は愛している人の症状と同じ場合もある。例えば「あるヒステリーの分析の断片』の事例では、ドラは父親の咳を真似た[Dora im ›Bruchstück einer Hysterie-Analyse‹ den Husten des Vaters imitiert]。そこでわれわれは、この間の事情を次のように述べることができよう。 同一化は対象選択のかわりに現われ、対象選択は同一化に退行したと[die Identifizierung sei an Stelle der Objektwahl getreten, die Objektwahl sei zur Identifizierung regrediert. ]。


同一化は感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。症状形成の条件の下、つまり抑圧と無意識のメカニズムの支配の下では、対象選択が同一化に退却する、つまり自我は対象の特性を身につける[die Objektwahl wieder zur Identifizierung wird, also das Ich die Eigenschaften des Objektes an sich nimmt]ことはしばしば起こる。


同一化において、自我がときに好まない人物を模倣したり、ときに愛している人物を模倣することも注目に値する。どちらの場合も同一化は部分的で極度に限定されたものであり、対象人物のたった一つの特徴(唯一の徴[einen einzigen Zug])を借りていることもわれわれを驚かす。

Bemerkenswert ist es, daß das Ich bei diesen Identifizierungen das eine Mal die ungeliebte, das andere Mal aber die geliebte Person kopiert. Es muß uns auch auffallen, daß beide Male die Identifizierung eine partielle, höchst beschränkte ist, nur einen einzigen Zug von der Objektperson entlehnt. 


症状形成の第三の、とくにひんぱんで重要な実例は、同一化が模倣した人物との対象関係をまったく度外視する場合である。たとえば寄宿舎の一人の少女が秘密の恋人から手紙を受けとり、その手紙が彼女の嫉妬を刺激した結果、ヒステリーの発作[hysterischen Anfall]で反応するとき、それを知った彼女の二、三の女友達は、いわば心理的伝染[psychischen Infektion]によっておなじ発作を起こすだろう。このメカニズムは、おなじ状態に身を置く能力、または置こうとする欲求にもとづく同一化の機制である[Der Mechanismus ist der der Identifizierung auf Grund des sich in dieselbe Lage Versetzenkönnens oder Versetzenwollens. ]。その女友達たちも秘密の恋愛関係をもちたいとおもい、罪意識の中で、その恋愛につきまとう苦悩をも引き受けるのである。


彼女たちは同情からその症状を自分たちのものにしているのだ、と主張することは正しくないだろう。その反対に、同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]。その証拠に、このような伝染ないし模倣は、寄宿生の場合よりも、相互のあいだた、ずっとわずかしか一時の共感があるにすぎない事情の中でも行なわれるからである。 


一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される。 そして、病理的状況の影響下では、この同一化は、一人の自我が創りだした症状に置き換えられる。このようにして、症状を通しての同一化は、二人の自我の重複点にとっての徴[Anzeichen für eine Deckungsstelle der beiden Ich]となるが、この重複点は抑圧されていなければならないものである。


われわれは、この三つの源泉から学んだことを、次のように要約することができよう。

第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式である[daß erstens die Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist]。


第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れることによって、リビドー的対象結合の代理物になる[zweitens, daß sie auf regressivem Wege zum Ersatz für eine libidinöse Objektbindung wird, gleichsam durch Introjektion des Objekts ins Ich]。


第三に、同一化は性欲動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに生じる。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化は、ますます効果のあるものになり、それは新たな結合の端緒を表すようになる[und daß sie drittens bei jeder neu wahrgenommenen Gemeinsamkeit mit einer Person, die nicht Objekt der Sexualtriebe ist, entstehen kann. Je bedeutsamer diese Gemeinsamkeit ist, desto erfolgreicher muß diese partielle Identifizierung werden können und so dem Anfang einer neuen Bindung entsprechen ]。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)