2018年12月28日金曜日

le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)


le plus-de-jouir の両義性については、ラカンの次の発言が示している。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
奇妙なのは、享楽はどれも、この図における対象というものを措定しており、したがって、le plus-de-jouir も、その場所が、ここにあるとわたしは信じてきたのだから、すべての享楽にとって条件となっている、ということである。

L'étrange est ce lien qui fait qu'une jouissance, quelle qu'elle soit, le suppose, cet objet, et qu'ainsi le plus-de-jouir - puisque c'est ainsi que j'ai cru pouvoir désigner sa place - soit au regard d'aucune jouissance, sa condition. (ラカン、三人目の女、LACAN La troisième, 1er Novembre 1974)

二番目の文は、le plus-de-jouir がすべての享楽の条件となっているのだから、ファルス享楽JΦ、意味の享楽Js、女性の享楽(大他者の享楽JA)の三つは、このle plus-de-jouir が条件だということである。したがって、たとえば「女性の享楽」の条件は、「le plus-de-jouir」なのである。



(ラカン、La troisième、1974


JAは、上の図が示された一年後のセミネール23にてに移行する。




この段階(S23、16 Décembre 1975)では、図においては「JA」となっているが、《大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である》とあるように、あきらかに「」と書かれるべき内容である。

事実、一月後(13 Janvier 1976) 、「」記されることになる。




上の文にボロメオの環の中心の「a」は、「欲望の原因 la cause du désir」となっているが、これは『三人目の女』にあった「le plus-de-jouir 」と等価である。

次の文でソレールが、欲望の原因は「原初に喪失した対象」としているが、これは享楽の控除(原去勢)の意味に他ならない。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 (manque à jouir)です。

欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 (objet originairement perdu)」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a(objet a, en tant qu’il manque)」と呼んだものです。

けれども、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir) が可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。

Quant au désir il est par définition insatisfait, manque à jouir, puisque sa cause c'est ce que Freud appelait l'objet originairement perdu, et Lacan l'objet a, en tant qu'il manque. Mais, complexité, on peut jouir du manque à jouir, c'est une des formules du masochisme donnée par Lacan. (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »、2013)


今記した内容は、最晩年のラカンの次の言明によって裏付けられる。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


ミレールで補えば次の通り。

(- φ) は去勢 le moins phi を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

繰り返せば、le plus-de-jouir (a)とは、剰余享楽(残余の享楽)という意味以外に、《もはや享楽は全くない》(享楽の控除 le moins-de-jouir)という意味があるのである。

上に引用した剰余享楽 plus de jouir=享楽の欠片 lichettes de la jouissance は、ソレールが示しているように享楽欠如の享楽とも呼ばれる(「享楽欠如」はラカン自身の表現[参照])。

したがって先ずは次のように図示しうる。




そして、(- φ) とはȺ(穴)のことでもある(参照:「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」)。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

要するに、(a)を原対象aと捉えれば、(a)=(- φ) =(- J) =Ⱥである。

したがってボロメオの環のマテームもあわせて表示すれば、次のようになる。誰もこう示している人には行き当たらないが、すくなくともわたくしはそう考える。



Jsをφとしているのは、ミレールの定義「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche (a)」による(参照)。

JȺを∅(空集合)としているのは、次の文に由来する。

女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

JȺはまた、S(Ⱥ)と等置しうる。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)


女性の享楽が剰余享楽aのひとつであるだろうことは、ラカンの次の発言が示している。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

女性の享楽S(Ⱥ)自体、Ⱥの穴埋めなのである。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

現在、若手ラカン派のリーダーとされる哲学的ラカン派のロレンゾも、《享楽とは対象a の享楽と等しい》(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chies、Subjectivity and Otherness、:2007)としており、女性の享楽を「ロマンチック」に捉えてきた旧ラカン派的解釈を強く批判している。



2018年12月17日月曜日

倒錯者と神経症者における「倒錯行為」の相違

ラカンにおける倒錯の代表的な定義は次のものである。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳、1956年)

そしてこうも言っている。

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier l963)

原母子関係における幼児はみなマゾヒスト的倒錯者なのである。この幼児期の母へのエロス的固着ーーマゾヒスト的な《受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung》(フロイト、1937)ーーは、終生エスのなかに居残る。したがって晩年のラカンはこう言うことになる、《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)


他者の欲望の対象として振る舞う=マゾヒストという定義に則れば、女性の仮装性とはマゾヒズムである。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

マゾヒズムとは、ドゥルーズが分析したマゾッホの小説に典型的に見られるように、支配されるふりをしつつ、他者を支配することである。

女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていた。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

ーー現代女性においては、この傾向はいくらか少なくなっている筈ではあるが。

ラカン派において倒錯とは倒錯行為の問題ではない。倒錯の構造の有無の問題である。

私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11、13 Mai 1964 )

したがって通常は倒錯の式は、「a ◊ $」と書かれる。

だがラカンはこうも言っている。

倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)
例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)


この定義に則って、ポール・バーハウ(2004)は「a ◊ $」ではなく、次のように記すべきだとしている。



Ⱥとは、 「大他者のなかの穴 trou dans l'Autre」である。…Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


以下にバーハウの倒錯論を二つ抜き出すが、彼の記述はあきらかに「a ◊ Ⱥ」である。

人は「倒錯者の構造」と「神経症者の倒錯的特徴」との差異を認知する必要がある。神経症的主体は倒錯的性のシナリオをたんに夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は、倒錯者と同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認しているということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の哀れさを他者に向けて明示的に説教する。

再び強調するなら、倒錯的関係性へのこの焦点化は、構造的接近法と記述的-法医学的接近法とのあいだの主要な相違である。実際上の性的法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者は挑まれ受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者のポジションにある。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、PERVERSION II、2001年)

そしてもう一つは、Jochem Willemsen との共著論文(2010)だが、この箇所はあきらかにバーハウの記述である。

臨床的叙述が示しているのは、倒錯的主体は、権力の明示的関係性ーーすなわち「倒錯者の権力」ーーにおいて、常に倒錯的シナリオを他者に向けていることである。例えば、露出狂者は他者が衝撃を受けたときのみ成功する。マゾヒストは何をすべきかを他者に指令する。等々。 ………
ここで子供の標準的発達に戻ろう。

幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このような方法で、母を喪うことについての不安は飼い馴らされうる。標準的には、エディプス局面・父の機能が、子供のいっそうの発達が起こる状況を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。

倒錯の心因においてはこれは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化 mirroring のため、子供は母自身の一部として、母のコントロール下にいるままである。したがって子供は自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。

これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母はファルス化された対象a を通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。…

このようにして、子供は自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルス(ファルス化された対象a)となり、それは子供にとっての勝利である。他方で、彼ががこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子供はその獲得物を保護しようと試みて特有の反転を演じる。彼は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。

臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。…倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。(⋯⋯)
倒錯者においては、後の人生においても原初の関係が繰り返される、最初の母なる大他者と第二の父なる大他者に対する成人後の生活における後継者たちに対して。もっとも受動-能動反転がある。倒錯的主体は、「最初の大他者の後継者に向けて道具的ポジションに立つ。この大他者の享楽に仕えるためだ。

これは神経症者の観点からは、パラドックスである。倒錯者は、大他者の享楽のために熱心に奉仕していることを確信している。こうして倒錯者は、犠牲者は「それを求めたのだ」、「ほら、それをまさに楽しんだのだよ」等々という根強い考えを持つ。その考え方は、確かに原初の最初の母なる大他者にとっては本当だった。

この帰結は、還元されたヴァージョン、いわゆる「認知の歪み」においても、同様に見出される。何度も繰り返して証言されるのだ、犠牲者は「協力的だったよ」、あるいはさらに「犠牲者さ、率先してやったのは」と。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe、When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic、2010)




2018年10月31日水曜日

リビドーのトラウマへの固着

【事故的トラウマへの固着】
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


【病因的トラウマへの固着】
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


……………


【母からの分離という原トラウマ】
経験された無力な状況(寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit )を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)


⋯⋯⋯⋯

【異物としてのトラウマ】
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

異物とは、リビドーの固着(欲動の固着)の置き残し(居残り)のことである。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行Regressionの道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、よ り初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。

・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着 Fixierung (des Triebes nämlich)と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講、私訳)
・生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着Fixierung der Libido an bestimmte Objekteと対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。

・母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【残存現象、あるいはリビドーの固着の残存物】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残存物 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓 Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【身体的なものの残滓】

リビドーの固着(欲動の固着)とは、「身体的なもの」が「心的なもの」に全的には移し替えられないこと(原抑圧)である。

ラカンの現実界 Réel は、フロイトの無意識の臍(夢の臍 Nabel des Traums)であり、固着Fixierung のために「置き残される zurückgeblieben(居残るVerbleiben)」原抑圧 Urverdrängungである。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの Somatischem」が「心的なもの Seelischem」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)

したがって、この身体的なものの残滓が不気味な異物のように作用して、人を反復強迫に陥れる。

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


【対象aと異物】

異物とは、ラカンの対象aの最も基本的な意味である(対象aの三相については「対象aの三義性」を参照のこと)。

対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)



【サントームΣと固着】

ラカンのサントーム(原症状)とはフロイトの「リビドーの固着」、あるいは「異物」のことである。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan,」 、6 juin 2001」 )
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきが分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきとは、一のシニフィアンと身体との結びつきということである。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011, 25/05/2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」(コレット・ソレール2017,"Avènements du réel" )


《シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状》には、上に見てきたように、残滓が必ずある。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

別の言い方をすれば、身体の上への刻印「一」のあるところには常に、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse、2013)

この残存物をラカンは《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976)と呼んだ。すなわちフロイトの《異物 Fremdkörper》である。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


2018年10月17日水曜日

国家は収奪機関である

マルクスは、「価値形態」を考察した後で、「交換過程」という節で、商品交換の発生を歴史的に考察しているように見える。そこで彼がいうのは、それが共同体と共同体の間で始まるということである。《商品交換は、共同体の終わるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まるのだ。しかし物は、ひとたび共同体の対外生活において商品となれば、たちまち反作用的に共同体の対内生活でも商品となる》(『資本論』第一巻第一篇第二章)。しかし、これは歴史的な遡行によってではなく、貨幣経済に固有の性格を超越論的に明らかにすることから見いだされる「起源」である。マルクスは、右のようにいうとき、別の交換形態が存在することを前提としている。商品経済としての交換は「交換」一般のなかで、むしろ特殊な形態なのである。

第一に、共同体の中にも「交換」がある。それは贈与―お返しという互酬制である。これは相互扶助的だが、お返しに応じなければ村八分にあるというふうに、共同体の拘束が強くあり、また、排他的なものである。

第二に、共同体と共同体の間には強奪がある。むしろ、それが基本的であって、商品交換は、互いに強奪することを断念するところにしか始まらない。にもかかわらず、強奪も交換の一種と見なしてよい。というのは、持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要があるからだ。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返し(義務)として年貢を払うかのように考え、商人も交換の保護のお返しとして税を払う。そのために、国家は超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。したがって、収奪と再分配も「交換」の一種だということができる。人間の社会的関係に暴力の可能性があるかぎり、このような形態は不可避的である。

さらに、第三のタイプが、マルクスのいう、共同体と共同体の間での商品交換である。この交易は相互の合意によるものであるが、すでに述べたように、この交換から剰余価値、すなわち資本が発生する。とはいえ、それは強奪―再分配という交換関係とは決定的に違っている。

ここで、つけ加えておきたいのは、第四の交換のタイプ、アソシエーションである。それは相互扶助的だが、共同体のような拘束はなく排他的でもない。アソシエーションは、資本主義的市場経済を一度通過した後にのみあらわれる、倫理的―経済的な交換関係の形態である。アソシエーションの原理を理論化したのはプルードンであるが、すでにカントの倫理学にそれがふくまれている。

ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」、である。

国家、資本、ネーションは、封建時代においては、明瞭に区別されていた。すなわち、封建領主(領主、王、皇帝)、都市、そして、農業共同体である。それらは、異なった「交換」の原理にもとづいている。

すでに述べたように、国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。第二に、そのような国家機構によって支配され、相互に孤立した農業共同体は、その内部においては自律的であり、相互扶助的、互酬的交換を原理にしている。第三に、そうした共同体と共同体の「間」に、市場、すなわち都市が成立する。それは相互的合意による貨幣的交換である。

封建的体制を崩壊させたのは、この資本主義的市場経済の全般的浸透である。だが、この経済過程は政治的に、絶対主義的王権国家という形態をとることによってのみ実現される。絶対主義的王権は、商人階級と結託し、多数の封建国家(貴族)を倒すことによって暴力を独占し、封建的支配(経済外的支配)を廃棄する。それこそ、国家と資本の「結婚」にほかならない。商人資本(ブルジョアジー)は、この絶対主義的王権国家のなかで成長し、また、統一的な市場形成のために国民の同一性を形成した、ということができる。しかし、それだけでは、ネーションは成立しない。ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある。それまで、自律的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬制)を、ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。ネーションは、悟性的な(ホップス的)国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的「感情」に基盤をおいている。そして、この感情は、贈与に対してもつ負い目のようなものであって、根本的な交換関係をはらんでいる。

しかし、それらが本当に「結婚」するのは、ブルジョア革命においてである。フランス革命で、自由、平等、友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように、資本、国家、ネーションは切り離せないものとして統合される。だから、近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。

たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。

この三つの「交換」原理の中で、近代において商品交換が広がり、他を圧倒したということができる。しかし、それが全面化することはない。資本は、人間と自然の生産に関しては、家族や農業共同体に依拠するほかないし、根本的に非資本制生産を前提としている。ネーションの基盤はそこにある。一方、絶対主義的な王(主権者)はブルジョア革命によって消えても、国家そのものは残る。それは、国民主権による代表者=政府に解消されてしまうものではない。国家はつねに他の国家に対して主権国家として存在するのであって、したがって、その危機(戦争)においては、強力な指導者(決断する主体)が要請される。ポナパルティズムやファシズムにおいて見られるように。現在、資本主義のグローバリゼーションによって、国民国家が解体されるだろうという見通しが語られることがある。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)





2018年10月7日日曜日

家族なき社会はない

◆中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収



もし、現在の傾向をそのまま延ばしてゆけば、二一世紀の家族は、多様化あるいは解体の方向へ向かうということになるだろう。すでに、スウェーデンでは、婚外出産児が過半数を超えたといい、フランスでもそれに近づきつつある、いや超えたともいう。同性愛の家族を認める動きもあちこちで見られる。他方、児童虐待、家族内虐待が非常な問題になってきている。多重人格は児童期の虐待と密接な関係にあるという見解が多いが、その研究者で治療者のパトナムは、その主著『解離』の最後近くで「児童虐待をなんとかしなければ米国の将来は危ない」という意味のことを強調している。

しかし、外挿法ほど危ないものはない。一つの方向に向かう強い傾向は、必ずその反動を生むだろう。家族の歴史というものはあるけれども、その中にどうも一定の傾向はないようだ。地域によっていろいろあり、時代的にもいろいろあるとしか言いようがない。

人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。心理だって、そう変わっていまい。そして、生理と心理は予想以上に密接である。

だから、えいやっと、人類にまで立ち返って、うんと遠くから眺めてみよう。遠くから眺めると小さな誤差や揺れは消えてしまうので、かえって見やすい。そして、家族は、人類が原初から持っている矛盾の中から生まれたことが見えてくるだろう。

2略



生物としての人間の特殊性は、食物連鎖の頂点にある動物であって、しかも多数であるということである。これは生物界では大変なことである。連鎖ピラミッドの下のほうほど個体数が多くなくてはならない。食物連鎖の頂点にある動物は少数であり、ぶらぶらなまけているように見える。それは食う動物がおらず警戒する必要がないからである。だからライオンの寿命は長い。しかし、数は少ない。

生物の生き残り戦略は、数をたくさん産むか、少数を大事に育てるかのどちらかである。獣ではネズミ、鳥ではスズメ、魚ではイワシ、シシャモは、たくさんの子を産み、生き残る少数が次代を作る。獣ではライオン、鳥ではワシ、魚では胎生のタナゴは少数を大事に育てる。前者は食物連鎖の下のほうを選択した。しかし、下ほど不利というわけではない。連鎖の頂点の動物は長期的には滅ぶ率が大きい。食糧とする動物が適当量いてくれる必要があるのだが、さまざまな理由で増減し、時にはなくなってしまうからだ。



家族というものは、別に人間の発明ではない。少産育児系統の動物は、魚であろうとゾウであろうと家族を営む。多産運命任せ系統ならば家族を持たない。例外や中間例はいくらでもあるだろうが、だいたいそう言ってまちがいない。

人間はどうも両方の可能性を持っているのではないか。他のサル類を圧倒したのは、スズメ型戦略、すなわち数である。その戦術の第一が、三六五日、時を構わず性交できる点、第二は、妊娠期間が例外的に短く、しかも出産後、すぐまた妊娠できる点である。短期間にたくさんの子ができる。人間は頭脳よりも先ず下半身で他のサル類に勝ったのである。だから最古の美術が腹部のふくれた、おそらく妊娠した女性の堂々たる像を描き、また多数の女性器をいたるところに記しているのかもしれない。

ただ、母子家庭である他のサルたちと違って、父(夫)が家族の一員になった。頻繁に生まれる子の育児のためだという。父(夫)は専属の下働き、外働き要員である。それまでオスは群全体を守る外働きだった。だから軍隊のように上下関係があるわけだ。

スズメ型であったならば、食物連鎖の頂点にいなかったはずで、もともとは他の肉食獣に食われる存在だったにちがいない。〔・・・〕



私たちは生物界の大変な成り上がり、自然界のバブルだ。美術史家ギ―ディオンは石器時代の絵画を分析して、旧石器時代の人間は劣等感の塊だったと言っている。ライオンより弱く、カモシカより遅く、マンモスより力がなく、ワタリガラスのように空を飛べないなど、よいところがない。だから、動物は敬意を以て、ていねいに描かれている。氏族のトーテムが動物なのは、せめて祖先が優れた動物だったということにしたいからだろう。

ところが、新石器時代になると、美術は一見貧困になるが、狩りの線描など、人間の集団行動が多い。人間は動物を軽蔑するようになったのだ。しかし、自分より偉いものが何もないと、成り上がりは落ちつかず、頭の上がスース―して寒い。そこで神が生れてきたという説がある。

スズメ型なら育児はいい加減なのが大方の動物である。ところが、ヒトではそうはゆかなかった。他のサル類よりも格段に妊娠期間を短くするためには、赤ん坊を未熟児で産むほかなかった。だから、一歳までは、他の動物の胎児なみの保護が必要な状態であり、一歳までの成長があれほども急なのである。スイスの動物学者アドルフ・ポルトマンは、頭が大きいから参道通過のために生理的早産になったのだというが、それは結果論だと私は思う。小さく産んだから子宮の制限なしに脳が大きく育ったということではないか。それでもヒトの赤ん坊の知能はチンパンジーの赤ん坊に劣る。


6略



他のサルたちと袂をわかってスズメ型となったが、そのためにはライオン型の家族が必要だという矛盾が生じた。さいわい、祖先からサル型の家族システムを引き継いでいた。そこに父(夫)を加えて人間家族が生まれた。スズメ型とライオン型という、普通は両立しないものが両立しているかにみえる。これがヒト独自の道であった。そのために、まず道具を使って、動物を殺した。それから家族より大きい集団行動で、大きな動物も圧倒する。カラスがトビを圧倒するのも集団行動ができるからだ。北アメリカまでマンモスを追いかけて、北アメリカのマンモスはそのせいで絶滅した。その勢いでとうとう南米まで行ったのだから凄い。ライオン型になってもネズミほど勤勉だった。集団行動のためには言語が必要だ。家族よりも大きな社会も必要だ。配分のためには法規も必要だ。ここで、イヌを味方につけた。

時間意識は未来に起こることの徴候把握を鋭敏にした。これが知性(徴候知)の起源である。また、徴候を読む能力は、メスの発情期がサルのようにはっきり見えなくなった人類にあっては、異性が自分を今受け入れるかどうかの微妙な表情を読む能力にもつながり、子どもが母親は今自分にやさしくしてくれるかどうかを読む能力にもつながった。

それから農業に手を出した。これは周到な集団行動と、リーダーシップと、年度計画を立てることが必要だ。会計や計算の能力がいる。これが総合知の起源である。ニューギニアの石器使用社会西ダニ族が四角の畑を作り、整然と等間隔にタロ芋を植える写真に私は驚嘆した。これは徴税のためでもあるのだろうか。穀物を種として貯蔵しなければならなくなり、敵であるネズミを追うためにネコを味方につけた。

それから、牧畜に進んだ。家畜は作物と同じで、人間がいないと自然界で生きてゆけない。野性動物に比べて肉が多く、知能が低いというか従順なものを選んだからだ。狩猟時代からの集団行動が家畜に適用されて成功した。その結果、狩猟犬が家畜の番犬になった。ここでウマを味方につける。こうなると、ますます勤勉になるだけではなく、戦争が大規模に起こる。農業社会同士が土地を争い、牧畜社会が越冬のために農業社会を襲う。

つまり、人間は、食物連鎖の頂点にいながら、多産を続け、これを維持するために、勤勉だという例外的動物である。



ヒトの千世紀ほどの長い歴史の中で家族に代わる発明はついに起こらなかった。ただ、家族と社会との軋轢が生じた。家族問題の大部分は家族と社会の接点で起こる。

家族内部のことは実際、個人内部以上にわかりにくい。これは精神科医としての実感である。一つ一つの固有の匂いがあり、クセがあり、習慣があり、当然とされていることと問題となることがある。家族を一種の「深淵」にたとえたことがある。

家族の形態は実に多種多様で、どんな形が現れても驚くに当たらない。しかし、家族なき社会は知られていない。ギリシャ、ローマ、あるいはアメリカの奴隷制でも奴隷に家族を認めている。でなければ奴隷は働かない。近代になっても、家族をやめて、共同体に換えようとした例はけっこうあるが、理想どおりに行ったことはなく皆短期間で崩壊した。最近の実験はカンボジアにおけるポルポトの家族性廃止である。ナチスの強制収容所でも家族を認めなかった。しかし、それ自身が処罰であった。



ただ、二〇世紀には今までになかったことが起こっている。〔・・・〕百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。

しかも、ヒトは依然スズメ型の力を潜在させている。生活が困難になればなるほど、産児数が増える。いや現に人類の八割は多産多死である。スズメ型である。ちょうど気候不順の年に花がよく咲いて実を稔らせるように私たちの中の自然が産児を増やしているのであろうか。逆に、快適な生活をした社会は産児数が減る。現在のフランスで二〇世紀初頭のフランス人だった人の子孫は何割もいない。過去のギリシャも、ローマもそうであったと推定されている。少産少死型の弱点は、ある程度以下になると、種の遺伝子の弱点が露呈することだ。また、個体が尊重されるあまり、規制力が弱り倫理が崩壊することだ。

冷戦の終わりは近代の終わりであった。その向こうには何があったか。私にはアメリカがローマ帝国と重なって見える。民族紛争は、ローマ時代のローマから見ての辺境の民族の盛衰と重なって見える。もし国家というタガがはまっていなかったら、民族紛争が起こり、あっという間に滅ぶ民族が出ただろう。二十数個の軍団を東西南北に派遣して、国境紛争を鎮めるのに懸命だったローマと、空母や海兵隊を世界のどこにもで送る勢いのアメリカとが重なる。市場経済などは当時からあった。グローバル・スタンダードもあった。ローマが基準だった。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(ペトロニウスの『サチュリコン』にあるとおりだ)。

もっとも、ローマ帝国は世界唯一の帝国ではなかった。その外の人類社会がひそかに支えていた機微があるだろう。

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今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。

それは不幸な消滅の仕方であり、アルミニウムの有害性がはっきりして調理器から追放されてアルツハイマーが減少すれば、それは幸福な形である。運動は重要だが、スポーツをしつづけなければ維持できにような身体を作るべきではない。すでに、日本では動脈硬化は非常に改善しており、私が二〇歳代に見た眼底血管の高度な硬化は跡を絶った。これは、長期的には老人性痴呆の減少につながるはずである。もっとも、長寿社会は、二〇年間で済んだカップルの維持を五〇年間に延長した。離婚率の増大はある程度それに連動しているはずだ。

むしろ、一九一〇年代に始まる初潮の前進が問題であるかもしれない、これは新奇な現象である。そのために、性の発現の前に社会性と個人的親密性を経験する前思春期が消滅しそうである。この一見目立たない事態が、今後、社会的・家族的動物としてのヒトの運命に大きな影響をもたらすかもしれない。それは過去の早婚時代とは違う。過去には性の交わりは夫婦としての同居後何年か後に始められたのである。

11

問題はまだまだある。近親姦はアメリカでは家庭の大問題で、日本でもけっこうある。わたしは、その一部は、幼年時代からの体臭の共有が弱まったからではないかと思う。父親は娘には女性の匂いを性的に感受しないのが普通であった。娘だけは「無臭」なのであり、近親姦のタブーは生理的基礎があってのことだと私は思う。胎内で接した蛋白質を異物と感じない「免疫学的寛容」と同じことが嗅覚にも起っていると考える。この歯止めが過度の清潔習慣と別居など共有時間の減少とによって弱体化したのではないか。

児童虐待も、一部は、出産が不自然で長くかかり、喜びがなくなったからかもしれない。トレンデレンブルクの体位と言われる病院でのお産の体位は、医療側の都合にはよいが、出産には不都合である。私はあれがいかにいきみにくい姿勢かを知ったのは、手術後にオマルをあてがわれた時であった。そして、赤ん坊は、出産後数分、はっきりと眼が見え、それから深い眠りに入る。眠りは記憶のために最良の定着液である。しかし、今、最初に見るものは母親の顔ではない。母親から愛情を引き出す、子ども側の「リリーサー」(引き金)が損なわれている疑いを私は持っている。いちど虐待が始まると、ある確率で「虐待のスパイラル」に進む。それは虐待された子どもは虐待する親に対して無表情になり眼だけは敏感に相手を読みとろうとする。「フローズン・ウオッチフルネス」すなわち凍りついた「金属的無表情」「不信警戒の眼つき」である。これは「不敵」な印象を与えてしまい、いかに恭順の意を表しても「本心は違うだろう、面の皮をひんむいてやりたい」と次の虐待を誘い出す。いじめの時にも同じことが起る。被虐待者の「本心」が恐怖であり、ただもう逃れたいだけであっても、虐待者は相手の表情に不敵な反抗心を秘めていると読み取ってしまう。虐待者に被虐待体験があればそのような読み取りとなりやすいだろう。

私は、これだけで近親姦、児童虐待、配偶者殴打のすべてを説明するつもりはない。それらはフランスの古い犯罪学書にも記載がある。学級崩壊だってフランスでは一九世紀から大問題だった。だから最近だけのことではない。辿れば意外な根っこがみつかるだろう。

12

難しさは、犯罪という概念が社会的概念であることである。それは家庭になじみにくい。実際、近親姦と児童虐待とに関して、法は、家庭の戸口で戸惑い、ためらい、反撃さえ受けている。個人は家庭にだけ属するのではないが、最後は家庭だという矛盾がここにある。私は、よくないと思われることを、社会が崩壊する前に、できることから変えてゆくしかないと思っている。

人類が家族に代わるものを発明していないとすれば、その病理を何とかするために、私の中の医者があれこれと考えていることを、一度人類まで問題を広げて考えていた。これは大風呂敷にすぎるかもしれない。しかし、私はこの一世紀かそこらの傾向から外挿するのは危険で、たぶん間違うと思っている。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収)



2018年9月24日月曜日

原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである

【女・表象代理・原抑圧・対象a】
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というもの La Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

 ーーここでラカンは「抑圧」と言っているが、これは通常の抑圧ではない。原抑圧である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、この原抑圧を他のすべての抑圧が可能となる引力の核 (le point d'Anziehung, le point d'attrait)とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation ⋯⋯, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)

《女の問題とは……空虚な理想ー象徴的機能―を形作ることができないことにある。これがラカンが「女というものは存在しない」と主張したときの意図である。この不可能な女というものは、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象a である。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、 2012) 


以下は2018年の主流ラカン派会議の中心議題である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除(原抑圧)。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018

⋯⋯⋯⋯

さて以下、1999年に上梓されてから20年ほどたつにもかかわらず、実に明瞭な原抑圧の注釈をしているポール・バーハウの文を掲げる。この『女というものは存在するのか DOES THE WOMAN EXIST?』について、当時のジジェクは書評で「奇跡の書」と呼んでいる。


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999


【受動性と女性性】
1897年5月25日、フロイトはフリース宛の手紙にこう書いている、《本源的に抑圧されているものは常に女性的なものではないかと疑われる》。

…この言明のすこし前の「トラウマ」期、フロイトは見出している。何かがある、我々の存在の核(Kern unseres Wesen) 、臍(navel)、菌糸体(mycelium)があることを。心的に加工されえず、唯一可能な反応としての不安を引き起こす何かである。これが、シニフィアンの彼岸(表象の彼岸)に位置づけられるラカンの現実界である。

フロイトは見出したこの何かは、常に受動的で不快なトラウマ的性質を持っている。受動性、そしてそれゆえに女性性である。より正確に言えば、受動性は女性性にとっての代替シニフィアンになる。というのは、フロイトは他に正しい語を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界ーー象徴界のなかにはこのトラウマ的現実界を言い表すシニフィアンはないーー、これが女性性である。フロイトは象徴システムにおける欠如を見出した。すなわち女というもののシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこのトラウマ的現実界に相当するものをȺ と記した。その意味は、シニフィアンの全体は決して完全ではなく大他者には欠如がある、ということである。

《Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。》(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


【フロイトの境界表象とラカンのS(Ⱥ)】
このトラウマ的現実界は抑圧され払い除けられる。この過程は特有の形式をとる。実際上、トラウマ的核・現実界的核は、それ自体としては抑圧されえない。それは単純な理由からである。すなわち現実界には抑圧するための何ものもない。抑圧のためのどんなシニフィアン(表象 Vorstellung)もない。

この点においてフロイトが「抑圧(追放・放逐)」という語を使用するとき、彼は特殊な事例を言い表わそうとしている。《抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud, 1 January 1896, 書簡K)

現実界の代わりに、われわれは「境界表象 Grenzvorstellung」を見い出す。これがラカンのS(Ⱥ)である(《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》のシニフィアン)。後に幻想のなかで、二次的防衛がこの境界表象に対して向けられる。この二次的防衛は正式の抑圧(後期抑圧 Nachdrängung)であり、Nachdrängungとは文字通りには、「後の(再)押しやりafter(re-) pression」である。

《S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。》(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)


 【原防衛過程と翻訳の失敗】
われわれはここでしばらくの間、この原防衛過程に集中しよう。より充実した解説は、フリース宛の二つの手紙(書簡46と書簡52)に見出される。

要約すれば次の内容である:心的素材は、特別の印 schrift のなかに整理されて書き込まれる。それは生のそれぞれの時期によって変容する。各々に継起する時期の境界において、心的素材の、次の時期の言語への翻訳としての転写(書き換えUmschrift)がある。書信46にて、フロイトはトラウマ的核は「転写されない」言っている。その意味は「語表象 Wortvorstellung」に書き換えられないということである。…

書簡52は、より概括的な仕方で転写(書き換えUmschrift)概念を取り上げている。《心的装置は重層化 Aufeinanderschichtung により発生する》と。「重層化 Aufeinanderschichtung」とはレイヤーの上のレイヤーを伴う過程であり、その過程のあいだに既に獲得された素材は、折々に新しい形式へと転写/翻訳される。

引き続く時期の言語への翻訳は、生の継起する時期の境界に起こる。例外はこの素材のいくつかは翻訳されないことである。《翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.》  (フロイト、フリース書簡52、1896)

最晩年のフロイトはこう言っている。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

この抑圧が原抑圧であるのは、次の文が証する(参照)。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ふたたびポール・バーハウ1999に戻る。


【原抑圧と原固着】
われわれは、フロイトの主張によって別の歩みをさらに進めることができる。心的でないもの(身体的なもの)から心的なものへの転換の次には、心的なものへの書き直し working-over が引き続くのである。この加工 elaboration のフロイトの議論は、『ヒステリー 研究』にて三層構造として取り上げられている。そこでは、ヒステリー の基盤にある「トラウマ」、受動的で不快な「光景」、つまり「女性性」は、心的書き直し working-over の全形式の外部あるいは彼岸に位置づけられる。

最初の段階は境界表象(Grenzvorstellung)の勃立 erectionである。その後に防衛的書き直し working-over が起りうる。われわれの見解では、境界シニフィアンによるこの原防衛は、フロイトがのちに「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは何よりもまず「原固着」として現れる。

《フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )


 【原抑圧=現実界のなかに女を置き残すこと】
原固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置かれたままになるという意味である。これに対する唯一の可能な反応は、固着の代役としての境界素材による書き直しである。それは後に後期抑圧にとっての妥当な標的となる。こうして、原抑圧とは現実界のなかに女というものを置き残すものとして理解することができる。

《抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido》(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)


【トラウマ的現実界の穴埋め】
原防衛は穴(トラウマ的現実界Ⱥ)を覆い隠すこと、裂開を埋め合わせることを目指す。この原防衛、原抑圧は、欠如のエッジに位置づけられる代表象、つまり境界構造の勃立によって最初は実現化される。この代表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(フロイト書簡K ,pp. 228-229)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。「最初」とは、その後の展開はここで立ち止まることはないから。

防衛を意図するこの「境界表象 Grenzvorstellung」は、いっそう錯綜とした心的構造へと展開する。だがそれらは全て同じ機能をもつ。すなわちトラウマ的現実界の心的書き直しworking-over である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

(PAUL VERHAEGHE, 1999)


ーーこの図でバーハウは、受動性とS (Ⱥ)を並置しているが、この受動性とは、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論の記述にかかわる。

受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

この文のほぼ直後、次の記述が現れる。

私は、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

これこそ原抑圧の別の表現の仕方である。「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」、すなわち女は原抑圧されている、である。

そして原抑圧としてのS (Ⱥ)は、トラウマ的現実界Ⱥに対する防衛の最初の歯止めの刻印(境界表象)である。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

そのS (Ⱥ)を基盤にして人はみな妄想する。

「人はみな妄想する」(ラカン)の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンのサントームΣ(原症状)概念とS(Ⱥ) は等価である(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)

かつまたS(Ⱥ) とは、文字対象aと等価である。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

ラカンはのちにこの文字を「文字対象a[la lettre petit a]」(S23、11 Mai 1976)とも言うようになる。
結局、原症状としてのサントームΣ = S(Ⱥ)=「文字対象a[la lettre petit a]」=「S2なきS1」(「一のようなものがある Y a de l’Un」)=「欲動の固着」である(参照)。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

※参照:女性の享楽と自閉症的享楽

2018年9月15日土曜日

原抑圧によって「強制された運動の機械」

ドゥルーズ のエロスとタナトスをめぐる最もすぐれた記述は、次のものである。

生の欲動 pulsions de vie        共鳴の機械(エロス)
 
死の欲動 pulsions de mort     部分対象の機械(欲動)

死の本能 instinct de mort      強制された運動の機械(タナトス)

まず「生の欲動」「死の欲動」「死の本能」の三区分を示そう。

『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混淆された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれること La combinaison avec Eros は、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。無意識に「否 Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

次に部分対象の機械(欲動)、共鳴の機械(エロス)、強制された運動の機械(タナトス)の三区分である。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)


『差異と反復』には三区分はない。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

いま掲げた三つの書の内容の核心をまとめてしめせば、次のようになる。


引力と斥力は、フロイトにおいては次のような形で現れる。

われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定するようになった。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。…

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為 Akt des Essens は、食物の取り入れ Einverleibung という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすることである。性行為Sexualaktは、最も親密な結合 Vereinigungという目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossungという対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

ところで『アンチオイディプス』において、「強制された運動の機械」としての死の本能はどこかに行ってしまい、自由に流体する「欲望機械」としての「死の本能」という記述が前面にでる。

ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

1960年代の仕事における、超越論的原理としての「強制された運動の機械=死の本能」と、1972年の、自由な流体としての「欲望機械=死の本能」は、明らかに矛盾がある、とわたくしは思う。そしてフロイト・ラカンの欲動論においては、強制された運動の機械が明らかに正しい。
強制するもの何か? --原抑圧としてのトラウマ的穴である。ラカンの駄洒落的表現では《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21)である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
リビドーは、その名が示唆しているように、穴に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


ドゥルーズは上でこう言っているのを見た。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(『差異と反復』)

この原抑圧の認識が、フロイト・ラカン派観点からは、正当的な認識である。人間はトラウマに強制されるのであって、どこにも純粋な流体 un pur fluide à l'état libre の自由などない。

※参照

トラウマ界
構造的トラウマと事故的トラウマ
三種類の原抑圧


⋯⋯⋯⋯

上に次の文があった。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる(ドゥルーズ『差異と反復』)

原抑圧という語は次のような形でも現れる。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)l'objet virtuel (objet = x) に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ドゥルーズにとっての「反復」は、フロイトの原抑圧概念に全面的にかかわるのである。そしてこれが《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》という表現と直結する、とわたくしは考える。

(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列の問いである。 すなわち、かつての現在(生きられたコンブレー)と現勢的 actuel な現在の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性であり、同一性でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するenveloppe ときのみである。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいるenveloppe Combray 。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれないアクチュアルな現在への二重の非還元性のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレーは、己れの本質的差異 différence essentielle によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さのなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。

したがって再びまた、同一性と類似性は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレーとの関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて溢れ返る déborde 死の本能 instinct de mort をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴 résonanceによって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰 l'éternité du retour dans le temps を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

⋯⋯⋯⋯

※追記

『意味の論理学』第34のセリーにも決定的な文がある。《le mouvement forcé qui représente la désexualisation, c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー)

その前後も含めて貼り付けておこう。








2018年9月8日土曜日

女性の享楽と自閉症的享楽

【女性の享楽と自閉症的享楽】
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
自閉症的享楽としての身体固有の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller


【自閉症的享楽=原ナルシシズム=自体性愛】
丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


【自体性愛の底にある去勢(享楽控除)】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)



【話す身体=自ら享楽する身体】

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)


【身体の出来事としての女性の享楽】
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事としての享楽はは欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



【女性の享楽=身体の享楽=他の享楽】
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


【(女性の)享楽と欲動の固着】
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(結びつき connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール L'être et l'un IX, 2011)
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)


【固着=「身体的なもの」の「心的なもの」への移行不能】
・原抑圧はなによりもまず欲動の固着(リビドーの固着)として捉えなくてはならない。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残存物 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…この残存物Reste が存続…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


【暗闇に蔓延る異者としての身体】
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、1976年)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


【異者としての身体=異物】
トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


【異者=他の身体の症状=ひとりの女】
ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは、「身体の出来事 un événement de corps」(AE569)、享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」「一人の女 une femme」でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant )
ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。

彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である。……

ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。

女は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに従う。すなわち「他の身体の享楽 la jouissance d'un autre corps」へと彼女の身体を貸し与える。他方、ヒステリーの女性は、彼女の身体を貸し与えない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)


【暗闇に蔓延る異者としての女】

ーー以上より、女性の享楽とは、「暗闇に蔓延る異者としての女」の反復強迫とすることができる。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。…この内的反復inneren Wiederholungszwangを喚起させるものこそ不気味なもの unheimlich として感じられるとみてよいと思う。(フロイト『不気味なもの Unheimliche』1919)

この《症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel 》(ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)

固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…この固着、すなわち(心的なものからの排除としての)原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
自我は堪え難い表象をその情動とともに排除(拒絶 verwirft)し、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。

daß das Ich die unerträgliche Vorstellung mitsamt ihrem Affekt verwirft und sich so benimmt, als ob die Vorstellung nie an das Ich herangetreten wäre. (フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)
排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に拒絶されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


※付記

【本源的に抑圧されている(原抑圧されている)女というもの】
本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは失われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」というとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう...(ミレール「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」Another Lacan by Jacques-Alain Miller, 1980)

女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。 …

La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

ーー《後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。》(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018




⋯⋯⋯⋯

※追記

おそらく現在主流臨床ラカン派(フロイト大義派)の議論を受け入れるか否かは、性別化の式のデフレ(価値下落)をみとめるか否かである。


ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。


(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

2018年9月3日月曜日

構造的トラウマと事故的トラウマ

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

ポール・バーハウのいう構造的トラウマとは、フロイトのいう「病因的トラウマ」と等価な表現として捉えられる。

我々の研究が示すのは、神経症の現象(症状)は或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traume」と見なす。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

「神経症の現象(症状)Phänomene (Symptome) einer Neurose」とあるが、ここでの神経症は一般に流通する神経症(精神神経症)だけではなく、現勢神経症も包含している。

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

要するに「神経症の現象(症状)」とは、フロイトにとって人間のすべての症状のことである。

バーハウの文に戻れば、事故的トラウマとは、もちろん一般に言われる心的外傷、事故によるトラウマにことである。

外傷性神経症 traumatischen Neurose を起こす体験にさいして、外側の刺激保護壁Reizschutzがこわれて過剰度の興奮 übergroße Erregungsmengeが心的装置に入り込む。(フロイト『制止、症状、想起』7章、1926年)

「過剰度の興奮」とあったが、この表現と近似したフロイトの表現のいくつかを拾っておこう。


【量的要因としてのトラウマ】
・外部から来て、刺激保護壁Reizschutz を突破するほどの強力な興奮 ankommenden Erregungsgrößenを、われわれは外傷性のものと呼ぶ。外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。

・刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射Projektionである。

・通常の外傷性神経症 gemeine traumatische Neurose を、刺激保護のはなはだしい破綻の結果と解してみてもよいだろうと思う。(フロイト『快原理の彼岸』第4章)

次の文には量的要因という語が出現する。

経験が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである。das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt (フロイト『モーセと一神教』1939年)

ーー量的要因 quantitativen Faktors、すなわちQ要因である。

ここでもポール・バーハウの簡潔な解説を掲げる。

フロイトにおいて、欲動の問題は最初から見出される。欲動概念が導入される以前のはるか昔からである。その当時のフロイトの全ての試みは「エネルギーの量的要因 Energiequantitäten Faktor」とそれに伴った刺激を把握することである。出発点から彼を悩ました臨床的かつ概念的問題のひとつは、内的緊張の高まり、つまり(『科学的心理学草稿 ENTWURF EINER PSYCHOLOGIE』1895 における)名高いQ要因(quantitativen Faktor)である。すなわちそれは身体内部から湧き起こるエネルギーの流体であり、人はそのQ要因から逃れ得ないことである。Q要因は応答を要求するのである(注)。

このQ要因(quantitativen Faktor)は欲動Triebの中核的性質である。すなわち圧力(衝迫 Drang)と興奮 (Erregung) である(『欲動とその運命』1915)。これは欲動の本来の名をを想起すれば明瞭である。独語TriebはTreiben (圧する)である。不快な興奮の集積として、Q要因は解除されなければならない。そしてその過程で数多くの厄介事が発生する。現勢神経症から神経精神病の発生まで。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、ON BEING NORMAL AND OTHER DISORDERS、2004年)

上の文の注には、次のフロイト文が付されている。

心的機能において、なんらかの量 Quantität の性質を持っているもの(情動割当 Affektbetrag あるいは興奮量 Erregungs-summe)を識別しなければならないーーもっともそれを計量する手段はないがーー。その量とは、増加・減少・置換・放出 Vergrößerung, Verminderung, der Verschiebung und der Abfuhr が可能なものであり、電気的負荷が身体の表面に拡がるように記憶痕跡 Gedächtnisspuren の上に拡がるものである。(フロイト『防衛-神経精神病 DIE ABWEHR-NEUROPSYCHOSEN 』1894年)

フロイトは『ヒステリー研究 STUDIEN ÜBER HYSTERIE』1895年においても、「興奮の量 Quantität von Erregung」という表現を使いながら、トラウマ的要因を神経システムによっては十分には解消しえない「興奮増大 Erregungszuwachs」として定義している。この「興奮増大 Erregungszuwachs」を患者は意識から遠ざけようとする。そして、この「意識的になること不可能な表象 bewusstseinsunfähiger Vorstellungen」が病理コンプレクスの核である、と結論づけている。

「意識的になること不可能な表象」とはモノのことである(参照)。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『科学的心理学草案』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる

最晩年のフロイト文も付け加えておこう。

忘れられた経験を想起する vergessene Erlebnis zu erinnern こと、よりよく言えば、その経験を現実的なもににする real zu machenこと、忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』)

⋯⋯⋯⋯

ここで冒頭の文に戻ろう。《構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である》。

これは、トラウマの階層構造を語っている。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

簡潔に三層として記せば(実際はもっと重層でありうるが)次の通り。

 被  災
ーーーー
 いじめ
ーーーーー
原トラウマ

フロイトは次のように記している。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

すなわち、
現在の事故的トラウマ
ーーーーーーーーーー
過去の事故的トラウマ
ーーーーーーーーーー
    構造的トラウマ



2018年8月22日水曜日

トラウマ界

ラカンの「現実界」をめぐる発言には、「トラウマ」という語が頻出する。

以下に、現実界の、少なくともその最も重要な一側面は、トラウマはほとんど同一のももとして扱いうることを資料の引用にて示す(今、「一側面」としたのは、ラカンには科学的現実界等もあるためである)。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの隠されていた代表的著作『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

そしてこれが反復強迫を生み出す。

・フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。

・サントーム(原症状)は現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition》 (ミレール MILLER、L'Être et l'Un, 2011)


後年のラカンはフロイトの「モノ」を現実界とし、かつまた快原理の彼岸にある喪われた対象としている。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

モノ=《喪われた対象》とは、対象aと等価である。これを、ラカンは「外密 extimité」という造語でも表現している。

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)

そして《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969) 

「外密 extimité」 とは、フロイトの「不気味なもの Unheimliche 」のラカンの翻訳とされる。

ーー「不気味なものunheimlich」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。だから、フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté.と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。この訳語の代替として、ラカンは《外密Extimitéという語を発明した》(ムラデン・ドラ―、Mladen Dolar, I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991、PDF

言葉の成り立ちそのものが、「最も親密でありながら外部にあるもの」とは、フロイトの「不気味な=親密な heimilich = unheimlich」という表現の仕方ととても近似している。

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの Unheimlich でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

そしてモノ=外密=不気味なものとは、フロイト概念「隣人 Nebenmensch」でもある。

フロイトは、「モノ das Ding」を、「隣人 Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明な ambigu 存在である。…

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

さきほど引用したジャック=アラン・ミレールの注釈に、 外密 Extimité ≒ 異物 corps étranger とあったが、この「異物」もトラウマにかかわるフロイト用語である。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この「異物」に相当するラカンの表現は、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976)である。異者としての身体とは、言語化できない身体的な欲動と捉えることができる。

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

身体的なものと心的なものの境界は、全面的には越境できない。身体的なものの残りものが必ず居残る。これがフロイトの「欲動の固着」(リビドーの固着)の意味であり、居残ったものが、異物・異者としての身体である。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

この「置き残し」あるいは「居残り」は、最晩年のフロイトの表現なら《リビドー固着 Libidofixierungen の残りもの Reste》 《残存現象 Resterscheinungen》(1937)である。結局、この「残りもの」がラカンの対象a(喪われた対象)の核である。

残存現象 Resterscheinungen、モノ das Ding、異物 Fremdkörper(異者としての身体)、不気味なもの Unheimliche、外密 extimité、対象a(喪われた対象)はほとんど等置できる。だがこれらは実際上は、具体的な物ではない。ゆえにラカンは空虚・無・無物というのである。

現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)
モノは無物とのみ書きうる la chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971)

異物(異者としての身体)とは欲動の身体であり、欲動の現実界とも表現される。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーーラカンにとって、穴とはトラウマのことである。「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」(S21、19 Février 1974)

まわりくどく記したが、ラカンの現実界の核は、トラウマであるのは、晩年の次の文が明瞭に示している。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

このレミニサンスはどういう意味か? ーー置き残された異物、モノ、不気味なものの反復強迫という意味でのレミニサンスだろう。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

現実界=トラウマとは、固着によって暗闇のなかに蔓延る異者なのである。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

最後にラカンの数学図を提示しよう。

ラカンにおける「刻印 inscription」(身体の上への刻印)とは、フロイトの「欲動の固着」のことである。

「刻印」という語が連発されるセミネール16の「ラカンの数学」図のひとつは次のものである。




ーーこういった図は楽しんで眺めればよいのであって、注釈などする気はけっしておこらない。

「一」の刻印のあるところには、常に喪われた対象がある。これでいいのである。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

別の言い方をすれば、身体の上への刻印のあるところには常に、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse、2013)

最後に最近のミレール発言を掲げておこう。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望のどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013, pdf

ファルスの意味作用と残滓


ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名」と「父の隠喩」の支配から逃れる対象である。

L'objet qu'il appelle ici petit a et qu'il inscrit dans le fantasme, c'est précisément l'objet en tant qu'il échappe à la domination du Nom-du-Père et à la métaphore paternelle.  〔・・・〕


この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式において、「ファルスの意味作用」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩」である。

 ces objets, était supposé se résorber au stade dit phallique. C'est ce que la métaphore paternelle de Lacan traduisait en faisant émerger ce qu'il appelait la signification du phallus, dans sa forme linguistique. 


この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

Ce qui voulait dire que toute jouissance a la signification phallique quand le désir est venu à maturité, c'est-à-dire quand il s'est enfin placé sous le signifiant du Nom-du-Père. Et c'est pourquoi on peut dire que la fin de l'analyse par le Nom-du-Père était l'ambition de tous les analystes qui ont cru à la maturation du désir.  


そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残滓 restes」があるのである。その残滓が分析を終結させることを妨害する。残滓に定期的に回帰してしまう強迫がある。


Freud déjà avait pu constater qu'il n'en était rien. Il avait pu constater l'impuissance du Nom-du-Père à résorber toute la jouissance sous son signe. Et ce sont même ces restes non résorbés qui, selon lui, empêchaient l'analyse de finir, qui obligeaient à la reprendre périodiquement. 


セミネールにおいて、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にてである。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない。無意識としての欲望にはどんな成熟もないである。


Eh bien, dans le Séminaire VI, Lacan prend sur ce point une orientation qui sera décisive pour la suite de son enseignement. Cette orientation,  je l'énoncerai sous une forme négative : il n'y pas de maturation, ni de maturité du désir comme inconscient  – c'est un énoncé qui est vraiment basique pour la pratique psychanalytique d'orientation lacanienne. J.−A. Miller「大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 2013


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste(Lacan, S10, 23 Janvier 1963

異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,… le (a) dont il s'agit,…absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004


不気味な残滓がある[il est resté unheimlich (Lacan, S10, 19  Décembre  1962)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。


Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist  […]Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[…] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの』1919年)