2019年4月12日金曜日

原抑圧と去勢

ラカンは『テレビジョン』(1973年 )で、原抑圧と去勢という語をほとんど同じものとして扱っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression : que (pour faire image), la castration, ce soit dû à ce que Papa, à son moutard qui se tripote la quéquette, brandisse : « On te la coupera, sûr, si tu remets ça. »

…結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていった。総体的に言うと、これや第二の局所論の大きな変化である。(ラカン、テレビジョン、1973年)

フロイトは分析治療対象としては否定的な文脈でだが、出産外傷を原抑圧という語をほぼ等置しながら語っている。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)

出産外傷は、去勢の原像、母の去勢、母からの分離としても語られている。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

これらから、原抑圧とは去勢の意味をもつと考えてよい。

事実、後の発達段階(成人言語の世界への入場)で起こる現象は「象徴的去勢」と呼ばれ、これが機能しない精神病者を「父の名の排除」としての原抑圧がなされていると前期ラカンはしたのだから。

もっともこの「父の名の排除」は現在、ジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレールによって問い直しがなされている。

精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)
わたしたちは見ることができます。他の分析家たちは、欲望を生み出すために、去勢不安にかかわる父が必要不可欠だという前提から始めて、精神病は欲望を締め出す la psychose excluait le désir、不安さえvoire l'angoisse 締め出すと結論しているのを。

しかし精神病の最も典型的人物像を観察したら、彼らが欲望を欠如させているなどという結論をどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ欲望概念の見直しが必要なのです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », 25/10/2013)


父の名の排除とは、実際はS2の排除である。

神経症においては、S1 はS1-S2のペアによる無意識にて秩序づけられている。ジャック=アラン・ミレール は強調している。(精神病における)父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Pèreは、このS2の排除 la forclusion de ce S2 と翻訳されうる、と。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne Paloma Blanco Díaz ,2018)
「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」を「S2の排除 la forclusion du Nom-du-Père」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…
Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)

したがってミレールは原症状(サントーム)をS2なきS1というのである。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Jacques-Alain Miller,  L'être et l'un、 2011)