永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する。…
永遠回帰 L'éternel retour には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。
…永遠回帰はまさに、起源的・純粋な・総合的・即自的差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが「力への意志」と呼んでいたものである)。差異が即自(それ自身における差異 l'en-soi )であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自(それ自身に向かう差異 le pour-soi)である。Si la différence est l'en-soi, la répétition dans l'éternel retour est le pour-soi de la différence.(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
《差異が即自(それ自身における差異 l'en-soi )であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自(それ自身に向かう差異 le pour-soi)である》とは、ジャック=アラン・ミレール によるサントームの定義の精緻化である。
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
ドゥルーズ は『差異と反復』で、《永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する》と記しているのを上に見たが、ラカンは純粋差異についてこう語っている。
この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S9, 06 Décembre 1961)
純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19, 17 Mai 1972)
ここでラカンが「一」と呼ぶものは、《一のようなものがある Y a de l’Un》であり、サントームである。
サントームsinthome……それは《一のようなものがある Y a de l’Un》と同一である。(jacques-alain miller、L'être et l'un、2011)
ラカンがサントーム sinthome を「一のようなものがある Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーー シニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返し réel essentiel l'itération」を放つ。
ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération において、自ら反復するse répèteのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。 「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。
これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの大他者とは、身体である。すなわちシニフィアンの彼岸には、身体とその享楽がある il y a le corps et sa jouissance。 (Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse, 2013 )
ドゥルーズ は純粋差異に相当するものを、プルースト論で「内在化された差異 différence intériorisée」、「内的差異 différence interne」とも呼んでいる。
究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)
無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions 。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)
この「内在化された差異」あるいは「内的差異」の、ラカンによる最も簡潔な図式化は次のものである。
左は空集合∅、右は対象aが記されている。
ここでは空集合についての注釈は記述が長くなるので、次の二文のみを引用しておくだけにする。
女 La femme とは…空集合un ensemble vide のことである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975)
フレーゲの思考においては、「一」という概念は、ゼロ対象と数字の「一」を包含している。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege), 2014,)
核心は「a」である。
常に「一」と「他」、「一」と「対象a(喪われた対象)」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、2013)
要するに、「一」というシニフィアンには常に喪われたものがある。常にシニフィアンと身体がある。
上にsinthome=Y'a d'l'Un」の注釈において示したHélène Bonnaudは、《シニフィアンの彼岸には、身体とその享楽がある》としていたが、 これは簡潔に言えば、シニフィアンの彼岸には、身体があるでよい。
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
これは、事物表象(イメージ)であれ語表象(言語)であれ、どんなシニフィアンにも常に身体的残滓がある、ということである。
フロイトの「事物表象 Sachvorstellung」と「語表象 Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)
この文脈におけるラカンの対象a(喪われた対象)の定義を二つ掲げておこう。
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
骨象aとは、穴としての骨象(トラウマとしての対象)である。そして「文字」とは次の意味である。
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。
・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
ようするに「骨象」とは、身体に突き刺さった骨、身体の上への刻印、フロイトのリビドー固着 Libidofixierungenであり、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=フロイトの異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)のことである。
この骨のせいで身体には常に穴があいている。
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
そして「身体の穴」における穴とは別名、去勢と呼ばれる。
対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方 façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢マテーム]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
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ここまでの記述に従って、永遠回帰も無意識的記憶の回帰も、身体の穴のせいである。この穴のせいで、人は強制された運動、もしくは「強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)」としての反復強迫がある。
もちろんトラウマ的出来事は、身体の興奮度の多寡による反復強迫を促す多寡はある。初期フロイトはこれをQ要因(quantitativen Faktor)と呼んだ。だが構造的にはすべてのシニフィアンは反復強迫を促すという考え方をラカンはもった。《シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance》 S20, 1972)
以下、ニーチェ、ラカン、フロイトのここでの文脈におけるエキス文を並べておこう。
享楽(悦楽 Lust)が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
…すべての享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」1885年)
ラカンにとって永遠回帰とは享楽回帰である。
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトにとって永遠回帰は、反復強迫(死の欲動)である。
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)