■四種類の欲望
①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。
②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。
③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
①②③は、いままでラカン派文脈、あるいは標準的な共同体心理学レベルでも、さんざん語られてきた「欲望」である。
①は、他人が欲しがっている或いは他人が所有しているから、私も欲しくなる。「隣の芝は青い」、「一盗二婢三妾四妓五妻」⋯⋯。
(ある種の男にとっては)誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
②は、典型的にはヘーゲル的承認欲望のこと。《承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir》(ラカン、E151)。
柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。
文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)
③は、欲望は言語作用の効果だということ。その意味で①②は、③に包含される。
欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)
ーーラカンは《欲望は法に従属している》としているが、厳密に言えば、「欲望は言語の法に従属している」である(参照)。
だが④の《私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている》とは何だろうか?
前期ラカンはこう言っている。
他のモノはフロイトのモノ das Ding である das Dingautre chose est das Ding, (ラカン、S7、16 Décembre 1959)
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
そしてこのモノ=母は、喪われた対象だと、1970年には言うことになる。
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
ーーより詳しくは「モノと対象a」にてラカン発言を中心にした資料がある。
現在の臨床ラカン派においては、この④の欲望が核心である。
ーー女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールがこのインタビューで語っている《le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.》の前半を、いままで「欲望は剰余享楽の換喩」と訳してきたが、実際は、《享楽喪失の換喩[métonymie du plus-de-jouir]》という意味もある。
したがって次のようにも訳せる。
・「欲望は大他者の欲望」は、欲求 besoin との相違において、欲望 désir は、言語作用の効果だということを示す。…この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件である。…しかし、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら 「欲望は大他者の欲望ではない le désir n'est pas désir de l'Autre」。
・欲望の原因は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)
ーー女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールがこのインタビューで語っている《le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.》の前半を、いままで「欲望は剰余享楽の換喩」と訳してきたが、実際は、《享楽喪失の換喩[métonymie du plus-de-jouir]》という意味もある。
したがって次のようにも訳せる。
欲望は、欠如の換喩[métonymie du manque]と同じ程度に、享楽喪失の換喩[métonymie du plus-de-jouir]である(=「原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」の換喩である)。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »、2013)
なぜならコレット・ソレールは別の場で次のように 言っているから。
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」については、くれぐれも注意しなければならない。
仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)
この両義性については、多くのラカン注釈者は取り逃している。わたくしの気づいた範囲でも、斎藤環、佐々木中は、完全な誤解釈をしている。
例えばーーすでに10年以上前のことゆえやむえないとはいえーー、斎藤環はこう言っている。
ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。(斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年)
しかし現在のわたくしの捉える範囲では、ラカンによる代表的な三つの享楽は、すべて剰余享楽である。
Le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性 |
松本卓也も「享楽の社会論書評」やネット上にある序文を読む限りだが、ひどく曖昧なままのようにみえる。何も不可能な享楽から剰余享楽への移行が晩年のラカンにあったわけではない。もともと生きている主体には、享楽は常に既に斜線を引かれている。剰余享楽しかない。これはラカンの理論展開において1960年前後からそうである。1959年4月8日、セミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言ったときからそうである。その後、セミネール7などでいくらかの彷徨いはあったといえ、あれは過渡期の現象である。
次の晩年の宣言は、1959年に遡って読むことができる。
JȺ⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
さて話を戻せば、なにはともあれ、《欲望は換喩によって定義される Le désir est défini par la métonymie, 》(ミレール 、L'Autre sans Autre、2013)ことは間違いない。
以下、もういくらかの定義文を列挙しておこう。
■欲望は防衛
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
簡潔に言い直せばこうである。
欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
■欲望のデフレ
ラカンにおいては「欲望のデフレune déflation du désir」がある…
承認reconnaissanceから原因causeへと移行したとき、ラカンはまた精神分析の適用の要点を、欲望から享楽へと移行した。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )
ーーここでの《享楽とは、より厳密に言えば、剰余享楽である。》(ミレール Jacques-Alain Miller, A New Kind of Love、2011)
※享楽については、「享楽と剰余享楽の定義文(エキス)」を見よ。
■欲望の主体=幻想の主体
最晩年のラカンが「人はみな妄想する」といったことに依拠すれば、欲望の主体は「妄想の主体」である。
もっとも妄想という用語には注意しなければならない。
究極的には妄想とは、人がみな原初にもつ「構造的トラウマ」に対する防衛である。
したがって人間は一般化妄想の主体と、現在ラカン派では呼ばれる。この「一般化妄想l délire généralisé 」を「一般化倒錯 perversion généralisée」と名付ける流派もある(参照)。
この観点を額面通りとれば、妄想も倒錯も何も悪いことではない。
■欲望の主体=幻想の主体
欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)
最晩年のラカンが「人はみな妄想する」といったことに依拠すれば、欲望の主体は「妄想の主体」である。
私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)
もっとも妄想という用語には注意しなければならない。
病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)
究極的には妄想とは、人がみな原初にもつ「構造的トラウマ」に対する防衛である。
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)
したがって人間は一般化妄想の主体と、現在ラカン派では呼ばれる。この「一般化妄想l délire généralisé 」を「一般化倒錯 perversion généralisée」と名付ける流派もある(参照)。
この観点を額面通りとれば、妄想も倒錯も何も悪いことではない。
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的であるtoute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
■欲望=倒錯
去勢 castration が意味するのは、欲望の法la Loi du désir の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない la jouissance soit refusée ということである。(ラカン、E827、1960年)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。
そしてこの理由で、後期ラカンは「父の隠喩 la métaphore paternelle」について皮肉を言い得た。彼は父の隠喩もまた「一つの倒錯 une perversion」だと言った。彼はそれを 《父のヴァージョン père-version》と書いた。père-version とは、《父に向かう動きmouvement vers le père》の版という意味である。(JACQUES-ALAIN MILLER L'Autre sans Autre 、2013)
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
⋯⋯⋯⋯
■欲望機械という倒錯
ドゥルーズ&ガタリに「欲望機械」概念があるが、ラカン派にとって自由な流体としての「欲望する機械」とは、《厳密にフェティシスト的錯誤 strictly fetishistic illusion》(参照)である。
ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体の上を滑走しているun pur fluide à l'état libre et sans coupure, en train de glisser sur un corps plein. 。この欲望機械は、私たちに有機体を与える。Les machines désirantes nous font un organisme(『アンチ・オイディプス』1972年)
フロイト・ラカン語彙では基本的に、欲望は言語内のもの、欲動は身体的なものである。
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)
もしドゥルーズ&ガタリの欲望機械を「欲動機械」と言い換えても自由な流体など決してない。
なぜなら人は最低限、出産外傷による原去勢と、言語による去勢(象徴的去勢)の二つの去勢あるから。この去勢に強制されての「欲動の換喩としての欲望」があり、去勢に強制されるのは欲動自体も同様(参照)。
もっともドゥルーズ&ガタリは、欲望機械という新しい倒錯概念を発明したのだ、と肯定的に捉えることもできるかもしれない。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
言わねばならない。その問題の人物…私が言祝いだあの人物は、臨床家ではなかった。ただ彼はシンプルにサドとマゾッホ SACHER-MASOCHを読んだのである。(……)
要するに、マゾヒズム masochisme は発明されたのだ。それは皆が到達できることではない。それは享楽と死とのあいだの entre la jouissance et la mort…関係性を確立するやり方である。(……)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を穴埋する combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
そもそも厳密にいえば言語活動自体、倒錯である。
言語活動の不幸(言語の不幸 malheur du langage)は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語の逸楽 volupté でもあるのだ)。言語のノエマはおそらく、その不能性impuissanceにある。あるいはさらに積極的に言えば、言語とは本来的に虚構fictionnelである、ということなのである。言語を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)
しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980年)
■象徴的去勢
上の図に示した二種類の去勢についてここでは、出産外傷という原去勢は割愛し、言語による去勢をめぐるラカン文とその注釈のみを掲げる(原去勢については「人はみな享楽喪失の主体である」を参照)。
なによりも先ず、シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
フロイト的経験の光の下では、人間は言語によって囚われ拷問をこうむる主体である。à la lumière de l'expérience freudienne l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage (ラカン、S3、16 mai 1956)
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique
・去勢はシニフィアンの効果によって導入されたリアルな作用である la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (ラカン, S17、1969)
すべての話す存在の根源的去勢は、対象aによって-φ[去勢]と徴づけられる。castration fondamentale de tout être parlant, marqué moins phi -φ par un petit a (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)