本源的に抑圧されている「女性的なもの das Weibliche」
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ヒステリーは、原初の不快の経験を必ず前提とする。この不快の経験は受動性である。女性における自然な性的受動性は、ヒステリーに導かれる傾向を説明する。私が男にヒステリー を見出だすとき、そこにありあまるほどの性的受動性を立証しうる。[Die Hysterie setzt notwendigerweise ein primäres Unlusterlebnis also passiver Natur voraus. Die natürliche sexuelle Passivität des Weibes erklärt die Bevorzugung desselben für die Hysterie. Wo ich Hysterie bei Männern fand, konnte ich ausgiebige sexuelle Passivität. ](フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)
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本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (⋯⋯)(例えば)男たちが本源的に抑圧しているのは、女性的要素であるWas die Männer eigentlich verdrängen, ist das päderastische Element(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
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原抑圧:女というものを現実界に置き残すこと
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どの神経症も受動的なトラウマ的光景として出発している。それは不快なものとして経験される。受動性は女性性を意味する[passivity means femininity]。抑圧されたものの核は女性性である[the core of the repressed is femininity]。心的経済において女というものも場処はないように見える。…
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ラカンの現実界は、表象の彼岸に位置する。フロイトはこの表象の彼岸の何ものかを見出したのである。それは常に受動的・不快な・トラウマ的性質をもっている。受動性ゆえに女性性である。より厳密には、受動性は女性性の代替シニフィアンとなる。というのはフロイトでさえ女性性の代わりとなる正しい言葉を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界にとってのシニフィアンは象徴界にない。このトラウマ的現実界が女性性である。フロイトは見出だしたのである、女というものにとってのシニフィアンはない、と。半世紀後、ラカン はこれをȺ[穴]と書き記した。…
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フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
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リビドー固着の置き残し
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分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 [rein zufällige Erlebnisse ]が、リビドーの固着を置き残す [Fixierungen der Libido zu hinterlassen]傾向があるということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
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フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
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女性性は存在しない Es gibt kein weiblich
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男性性は存在するが、女性性は存在しない [gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich]。…両性にとって、(徴としての)ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
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女というものは存在しない La femme n'existe pas
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女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。[il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”]
この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。[Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus.] (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)
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原抑圧の名としての「女というものの排除 la forclusion de la femme」
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「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(J.-A. MILLER, - Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)
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ーー《排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel》 (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne, 3 JUIN 1987)
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女というものの原抑圧
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女というものは、その本質において、女にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように。[La Femme dans son essence, …elle est tout aussi refoulée pour la femme que pour l'homme]
なによりもまず、女の表象代理は喪われている。人はそれが何かわからない。それが「女というものである。[- d'abord en ceci que le représentant de sa représentation est perdu, on ne sait pas ce que c'est que La Femme](ラカン, S16, 12 Mars 1969)
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表象代理は二項シニフィアンである。この表象代理は、原抑圧の中核を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能となる引力の核とした。
Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. […] il à constituer le point central de l'Urverdrängung,… comme FREUD l'indique dans sa théorie …le point d'Anziehung, le point d'attrait, par où seront possibles tous les autres refoulements (ラカン、S11、03 Juin 1964)
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女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit
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(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場[ passive oder feminine Einstellung]をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否」は人間の心的生の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。[ich meine, »Ablehnung der Weiblichkeit«wäre vom Anfang an die richtige Beschreibung dieses so merkwürdigen Stückes des menschlichen Seelenlebens gewesen. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)
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(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
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翻訳の失敗、これが臨床的に「(原)抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ 6,12, 1896)
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自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識としてエスのなかに居残ったままである [bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück]。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
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原抑圧=固着=S(Ⱥ)
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フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。…原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
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S(Ⱥ) =Σ = Fixierung
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シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
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疑いもなく、(現実界の)症状=サントームは享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
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サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=固着Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
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サントームは母の名である
Le sinthome est le nom de la mère
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ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
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◼️補足
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)
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女というものは空集合である[La femme c'est un ensemble vide ](ラカン, S22, 21 Janvier 1975)
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「女というものは存在しない」は、女というものの場処が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のままだということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会うことを妨げはしない。[La femme n’existe pas ne signifie pas que le lieu de la femme n’existe pas mais que ce lieu demeure essentiellement vide. Que ce lieu reste vide n’empêche pas que l’on puisse y rencontrer quelque chose](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)
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女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)
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実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは喪われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」というとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう...(ジャック=アラン・ミレール 「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」, 1980)
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