リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。
……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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リビドーの三相 Troi avatars de la libido
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想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー。libido dans lê resistre de l'imaginaire. […] la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet.
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象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー。libido en fonction du registe du symbolique. […] à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique
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現実界の審級の享楽としてのリビドー。la libido en tant que jouissance oui est du reeiste du réel (Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995)
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Narcissisme
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Jouissance du moi imaginaire
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想像的自我の享楽
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Désir
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Jouissance phallique
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ファルス享楽
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Jouissance propre
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Jouissance du corps propre
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自己身体の享楽
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Jouissance féminine
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女性の享楽
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Autoerotismus
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自体性愛
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Jouissance propre
+père-version
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Jouissance du sinthome
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サントームの享楽
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愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
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愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
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自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)
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ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。大他者の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
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大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
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大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
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サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
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最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (J.-A. Miller, L'Autre sans Autre, 2013)
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自体性愛autoérotismeの対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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◼️サントームとは享楽自体(自己身体の享楽・女性の享楽・自閉症的享楽・自体性愛等)の意味があると同時に、上に示したように、そこから距離を置く倒錯的享楽(父の版の享楽)という意味があるので注意。 |
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
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純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
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自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
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確かにラカンは第一期に「女性の享楽jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
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自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
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愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は原ナルシズム的である。Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch
(フロイト『欲動とその運命』1915年)
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ーーここでの《原ナルシシズム的ursprünglich narzißtisch》は、ラカン派のいうイマジネールなナルシシズムではなく、リアルな享楽自体の審級にあるので注意。イマジネールなナルシシズムはフロイトの厳密な用語では二次ナルシシズムである、ーー《自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer(二次ナルシシズムsekundärer Narzißmus )である。》(フロイト『自我とエス』第4章、1923年) |
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
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自ら享楽する身体[corps en tant qu'il se jouit]とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。[le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. ](J.-A. MILLER, -L'être et l'un, 30/03/2011 )
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