次の二文は同じことを言っている。 | ||
固着概念は、身体的な要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) | ||
まさに享楽がある。一者と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011) | ||
バーハウ曰く、固着=表象的要素+身体的要素 | ||
ミレール曰く、身体の出来事=一者+身体 | ||
そして身体の出来事は、固着だ。 | ||
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) | ||
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する。L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) | ||
「享楽=身体の出来事」が固着であることをもうひとつ確認しておこう。 | ||
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) | ||
さらに「サントーム=享楽自体=身体の出来事=固着」である。 | ||
サントームという享楽自体 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008) | ||
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011) | ||
サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要) | ||
ところでラカンはこう言っている。 | ||
常に一者と他、一者と対象aがある。[il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)](Lacan, S20, 16 Janvier 1973 | ||
あるいは、セミネールⅩⅥには次の図がある。 この図の「一者と対象a」における「一者」は、冒頭に示したように「固着=身体の出来事」(身体の上への刻印)でありながら、その表象的要素の残滓としての身体的要素「a」があるということである。 | ||
この対象aが異者としての身体である。 | ||
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963) | ||
フロイト自身、このように書いている。 | ||
固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要) | ||
暗闇とはエス、異者[fremd]は異物(異者としての身体 Fremdkörper)のことである。 | ||
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
したがって先ほど掲げたセミネールⅩⅥの図は右のように書き直せる。
この対象a=異者としての身体「Fremdkörper」の別名はモノである。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde. …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
つまり「異者としての身体=モノ」は享楽の名である。 |
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004) |
このモノ=異者としての身体が、対象aである。 |
セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる[dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a. ]( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 06/04/2011) |
この対象aの別名は穴=トラウマである。 |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (ラカン、S16, 27 Novembre 1968) |
現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
事実、ラカンの対象a、つまり異者としての身体は、フロイトの定義においてトラウマである。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 [Fremdkörper] )のように作用する。。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, (フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
ここでフロイトのモノの定義をひとつ挙げ、ラカン及びミレールの注釈を掲げる。 | |||
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895) | |||
現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, ](ラカン、S11、12 Février 1964) | |||
フロイトの反復(反復強迫)は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(]J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 ) | |||
この反復強迫の別名が死の欲動である。 | |||
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。 Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) | |||
死の欲動は現実界である。La pulsion de mort c'est le Réel(Lacan, S23, 16 Mars 1976) | |||
死の欲動とは、別の言い方をすれば、何よりもまず固着による「身体的残滓=異者としての身体」を取り戻そうとする生きている存在には不可能な無意識のエスの反復強迫である(究極のモノ=異者としての身体は、出生によって喪われた母の身体である)。 | |||
最後に固着にかかわるフロイト用語とラカン及び現代ラカン派の用語の対照表を掲げておこう。 上段四行はすべて同じ内実をもっており、この「身体の出来事=固着=刻印」により「モノ=異者としての身体=対象a」が発生して、下段の二行、固着点への「反復強迫=永遠回帰」が起こる。これが死の欲動のメカニズムである。 前期フロイトは固着を我々の存在の核と呼んだ。
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