ラカンはすでに前年のセミネールⅩにて、自体性愛と去勢を結びつけている。
去勢(-φ)を軸に、
自己身体[corps proper] 原ナルシシズム[narcissisme primaire] 自体性愛 [auto-érotisme] 自閉症的享楽[jouissance autiste]
とあるが、これは「自己身体=原ナルシシズム=自体性愛=自閉症」は、去勢されているという意味である。
自閉症的だけ「享楽」がついているが、他の語彙にももちろん享楽を付記しうる。
自己身体の享楽[jouissance du corps propre] =原ナルシシズム的享楽[jouissance narcissique primaire] =自体性愛的享楽[jouissance auto-érotique] =自閉症的享楽[jouissance autiste]
つまりそれぞれは、去勢された対象の周りの循環運動(反復的享楽)ということになる。
これが、ジャック=アラン・ミレールが「自体性愛的享楽=自己身体の享楽」の徴は去勢だと言っている意味である。
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享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。この去勢された享楽の対象は、外密のポジションにある。すなわち内的かつ手に入らないものである。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. Cet objet de la jouissance … comme occupant une position extime, c'est-à-dire à la fois interne et inaccessible, c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)
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ここで上のミレールの文に出現する語彙を確認しておこう。
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私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 [extériorité intime, cette extimité qui est la Chose](ラカン、S7、03 Février 1960)
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外密とはラカンがフロイトの不気味なものを翻訳した語である、ーー《外密 Extimitéは、異者としての身体のモデル[modèle corps étranger]であり、フロイトの 「不気味なもの」l'Unheimlichである》(J.-A. Miller, Extimité, 13 novembre 1985、摘要)
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上にあるように外密=モノの別名は、異者(異者としての身体)である。
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このモノは分離されており、異者の特性がある[ce Ding …isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde. …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, ](Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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そしてこの享楽の対象としての「外密=モノ=異者」が、喪われた対象(去勢された対象)としての対象aであるーー《セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる[dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a. ]》( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 06/04/2011)
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対象a は外密である[l'objet(a) est extime](ラカン, S16, 26 Mars 1969)
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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享楽の対象としてのモノは喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)
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ラカンは母はモノであり、対象aとも言っている。
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モノは母である[das Ding, qui est la mère] (Lacan, S7 16 Décembre 1959)
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母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а). ](Lacan, S10, 15 Mai 1963)
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これは「喪われた=去勢された」母の身体という風にとらえうる。
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私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ). ](ラカン、S11, 11 mars 1964)
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例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](ラカン、S11、20 Mai 1964)
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フロイトの定義において、去勢とは自己身体の一部が喪われることである。
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去勢は、全身体から一部分の分離である[Kastration …um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt](フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
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たとえば乳児は、《疑いもなく最初は、自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]》(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)。
この乳幼児が「自己身体」と見なしていた「母の身体」が分離されることをフロイトは去勢と呼んでいる。
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
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「去勢の原像」とあるが、「母の乳房の去勢」以前に、「母胎の去勢」があると言っているのである。
フロイトの自体性愛=原ナルシシズムの原像は、この母胎である。
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後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。原ナルシシズムは、自我の形成以前の発達段階の状態を示し、母胎内生活という原像、子宮のなかで全的保護の状態を示す。Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. Mit »primärem Narzissmus« wird nun ein vor der Bildung des Ichs gelegener Zustand sder Entwicklung bezeichnet, dessen Urbild das intrauterine Leben, die totale Geborgenheit im Mutterleib, ist. (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)
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この「喪われた=去勢された」母胎を取り戻そうとする「生きている存在には」不可能な反復強迫運動こそ究極的な意味での欲動(死の欲動)である。
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)
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われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)
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すべての欲動は実質的に、死の欲動である[ toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)
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死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)
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欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance].(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)
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………………
最後にここまで記してきたことの確認の意味で、ラカンの簡潔な三文とジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げる。
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)
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享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977)
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去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
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モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
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要するにモノは去勢の名である。さらに厳密に言えば、モノは「去勢された自己身体の名=母なる身体の名」である。
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「母はモノである」とは、母はモノのトポロジー的場に来るということである。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的な身体[le corps mythique de la mère]をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme - 28/1/98)
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そして異者(異者としての身体)も同じく、「去勢された自己身体の名」ということになる。
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われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](ラカン、S23、11 Mai 1976)
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モノをフロイトは異者とも呼んだ[das Ding… ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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以上、享楽の対象としての「モノ=異者としての身体」は、去勢された自己身体であり、これが、究極的には母なる身体=母胎であることが確認できた筈である。
享楽が去勢であり、かつまた享楽自体が「自体性愛的享楽=自己身体の享楽」であることの究極的な内実はここにある。
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自体性愛的欲動は原初的である[Die autoerotischen Triebe sind … uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)
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※付記
モノ[das Ding]=異者としての身体[Fremdkörper]であることを念頭において次の引用群を読まれたし。
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フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる。…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es est actuellement tout à fait oubliée. …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. (ラカン, S7, 03 Février 1960)
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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抑圧されたものは異物として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper ]。〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben,]。〔・・・〕
自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)
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自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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上でフロイトが「異者としての身体」を抑圧されたものと言っているのは、原抑圧のことである。
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われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)
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そしてこの原抑圧の別名は、去勢=排除である。
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原抑圧は常に去勢に関わる。だが抑圧の様式とは別の様式に従った去勢であり、つまり排除である[refoulement originaire…ce qui concerne toujours la castration. mais selon un autre mode que celui du refoulement, à savoir la forclusion. ](JACQUES-ALAIN MILLER , CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)
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さらに究極の排除とは、性的再生産(出産外傷の近似物)に伴うリビドーの控除としての「ラメラ神話」にかかわる、ーー《リビドーはラメラであるLa libido est cette lamelle》( Lacan, E 848, 1964)
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享楽の排除の穴=トラウマ、…それは皮肉にも、ラメラ神話、つまり高等動物の性的再生産によって現実的に喪われた生の部分の神話を生み出した。…つまりリアルな穴の神話である。Le troumatisme de la forclusion de la jouissance [...] En produisant ironiquement le mythe de la lamelle [...] mythe d'une part de vie perdue réellement du fait de la reproduction sexuée des espèces supérieures [...] Un mythe du trou réel (Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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リビドーは、人が性的再生産の循環に従うことにより、生きる存在から控除される。La libido, …de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée.〔Lacan, S11, 20 Mai 1964)
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リビドー=享楽であり、リビドーの控除は、享楽の控除=去勢である。
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(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽の控除 (- J) を表すフロイト用語である[le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J)] (J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10 Janvier 1968)
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以上、ここでも「モノ=異者としての身体」が、去勢された自己身体にかかわることが確認できた筈である。
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