2024年2月29日木曜日

自我分裂の主体$

 

ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ](Christian Hoffmann, Pas de clinique sans sujet, 2012)


………………


セミネールⅩⅠのラカンは、2週間の講義を隔ててだが、二つのトーラス円図を示している。




二つの図は基本的に同じ内容である。まず、左図の中心にある非意味について、《フロイトの表現を借りれば、主体の中には非意味の核がある[dans le sujet, un cœur, un Kern, pour s'exprimer comme FREUD, de non-sense]》 (Lacan, S11, 17 Juin  1964)とあるが、これが自我分裂の核にほかならない。


欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen.  (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


フロイトはこの自我分裂を自我分離とも言ったが、これが右図にある不快と快自我の分裂である。

感覚総体からの自我の分離[Loslösung des Ichs ]――すなわち「非自我」Draußen や外界の承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感[Schmerz- und Unlustempfindungen]である。こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我の異者[fremdes]で自我を脅かす非自我と対立する純粋快自我[reines Lust-Ich]を形成しようとする傾向が生まれる。

Einen weiteren Antrieb zur Loslösung des Ichs von der Empfindungsmasse, also zur Anerkennung eines »Draußen«, einer Außenwelt, geben die häufigen, vielfältigen, unvermeidlichen Schmerz- und Unlustempfindungen, die das unumschränkt herrschende Lustprinzip aufheben und vermeiden heißt. Es entsteht die Tendenz, alles, was Quelle solcher Unlust werden kann, vom Ich abzusondern, es nach außen zu werfen, ein reines Lust-Ich zu bilden, dem ein fremdes, drohendes Draußen gegenübersteht.(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)


非自我あるいは異者とあるが、これも右図のラカンの説明に表れている。


不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異者対象として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)



この不快な非自我=異者としての身体[corps étranger]が、ラカンの享楽であり、フロイトのエスの欲動である。


不快は享楽以外の何ものでもない[déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




フロイトはこの異者身体を同化不能[unassimilierte]という表現を使って語ってもいるが、これは初期フロイトのモノの定義でもある。


(自我に)同化不能の異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)

同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


したがってラカンは《モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger]》(Lacan, S7, 09  Décembre  1959)としているが、これがラカンの現実界(現実界の享楽)にほかならない。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)



非意味=非自我=モノ=異者(異者身体)でありーー《われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger]》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)ーー、この非意味は「意味の排除」である。

現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)

意味の排除の不透明な享楽[Jouissance opaque d'exclure le sens ](Lacan,  Joyce le Symptôme, AE 569、1975)


なおラカンの主体$は二段階の分裂があるので注意されたし[参照]。ここで示したのは第一段階目の分裂した主体であり、これが快原理の彼岸にある「欲動の主体(享楽の主体)」である。他方、第二段階目の分裂した主体は快原理内にある「欲望の主体」である。




※附記


なお非自我としての異者なるモノは不気味なものでもある。

不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


フロイトにおいて不気味なものは抑圧された親密なものである(厳密にはこの抑圧は第一次抑圧としての原抑圧=排除)。

不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの』第3章、1919年)


ラカンはこの不気味な異者なるモノを外密 [extimité]ーー外にある親密ーーともした。


親密な外部、モノとしての外密[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose](Lacan, S7, 03 Février 1960)


この親密な外部こそ非自我の定義であり、エスの欲動にほかならない。




疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自我自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, …Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)






2024年2月28日水曜日

意地について(中井久夫)

 

「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2004年『徴候・外傷・記憶』所収)



ひそかに「自分をお人よし」「いざという時にひるんで強く自己主張ができない」「誰それさんに対して勝てないところがある」ということを内々思っている人〔・・・〕。こういう劣等感意識を持っていて、しかも何とか「自分を張りたい」という人が「意地」になりやすい〔・・・〕。


意地には「甘え」の否認を誇示している面がある。下手に忠告や親切を提供されると、「放っておいてくれ」という返事が返ってくるのは、誰しも経験していることである。だから「時」(タイミング)が大切である。


しかし、意地を張っている者は、ただの嫌がらせをしている者ではない。そういう者――たとえば無言電話をかけ続けたり、家の前にゴミを撒いたりする者――までを意地を張っている者の中に入れるのは穏当ではあるまい。こういう強迫的あるいは嗜癖的な嫌がらせは、現在次第に古典的意地の領分を侵して広まりつつあるかに見えるが、これは都市化による無名化現象の一環であろう。


意地には、意地の相手方が単に謝罪するだけでは澄まず、「天罰」が下ったと当事者が思うような事態が望ましいという指摘があるが、「天罰」が信じられにくくなった現代においては、無言電話のような、擬似天然現象的な行為に訴えるということが起こるのであろうか。それとも、あれは怨みの現代的表現であろうか。無言電話は決して姿を現さず、存在をそれとなく示すという点で亡霊に似ており、非常に解消困難な事態である。


もっとも、こういうことは、何も日本だけの現象ではなく、有名な十九世紀フランスの神経学者でヒステリーの研究者シャルコーには、「あなたは心臓病で死ぬ、徴候はすでにかくかく」という匿名の手紙が根気よく送り続けられており、実際にシャルコーは旅行中に心臓死を遂げるのであるが、手紙の主は内容から身近な人物であることが推定されるだけで、ついに迷宮入りになったそうである。この例などは社会的地位の高い人物であろう。こういうことは、社会的あるいは知的水準とはあまり関係がないらしい。


意地との共通点は、「あなたに対して意地(あるいは怨み)を持っている人間がいる」ということを知らせ続けるという点にある。この告知がなければ、意地も怨みも「のれんに腕押し」「一人相撲」「片意地」になってしまう。意地の場合は、匿名では意味がない。相手の生活に煩わしさが持ちこまれているだけでは仕方がない。しかし、当人が相手に対してどこか気押されているところがあって、せめて「一分を立てたい」という場合が多いから、意地の告知は、直接の本人に対して会いに行くことはめったになく、せいぜい内容証明郵便を送りつけるくらいであり、第三者を介せざるを得ないことが多い。これは、自分の意地を貫くという意地者にとっては矛盾であるが、相手があっての意地である(「甘え」の病理的表現と見られるのもそのためである)から、この矛盾が、意地の場の解消のとっかかり点となる場合もある。


意地を張られた相手方がとってもよい方法、少なくとも無害なあり方は、相手あるいはその意地に対する一種の尊敬の念であろう。あれだけ意地を張れるのは並々のことではあるまいというような気持ちは自然に態度に表れて、意地を張る者を少なくとも硬化させはしない。逆に、愚かしいと見るならば、それは非常に有害である。「相手の立場に立っての忠告」は相手を見下しての「おためごかし」としか受け取られない。意地者の相手方は、柔らかい態度をとりながら、何かの偶然を待つのが普通よいであろう。偶然を待つとは、何ともたよりない話だと思われるだろうが、合理的対抗策は、その意図性自体がすでに相手の硬化を誘発する因子なのである。そして、偶然は、宇宙線のようにたえず身近に降り注いでいるものである。「時の氏神」が思いがけないところから現れないでもない。〔・・・〕

意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。


一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。


そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。


二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。


いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的にあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。


日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(中井久夫「意地の場について」初出1987年『記憶の肖像』所収)




意地の共通の問題は、視野狭窄である。〔・・・〕

おそらく、意地というものは、元来は窮地を正面突破するための心理的技術だったのであろう。

いばらの多い藪を通り抜けるためには、たえず自分を励まさなくてはならない、そういう自己激励である。そのためには視野狭窄が必要であり、自己中心性もなくてはなるまい。いや、自己中心性は不可欠のものかもしれない。 ひとのためによかれとして意地を張ることもあるだろうか。ひょっとするとあるかもしれないが、張っているうちに次第に自分が意地を貫くことが第一義的なものになりはしまいか。

誰にせよ意地によって窮地を脱した暁には大局的な見方や柔軟な思考、自由な感情を心掛ける必要がある。意地は、人を強くするが、心をやせさせる傾向があるからである。(中井久夫「治療に見る意地」初出1987年『記憶の肖像』所収)





フロイトの愛の定義とラカンの「ナルシシズム・欲望・享楽」

  

フロイトのリビドーはリーベ、つまり愛のことだが、この愛[Liebe]についてもっともまとまって記述されているのは、1921年の『集団心理学の自我の分析』第4章においてである。


リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。

Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann. 


われわれが愛と名づけるものの核心となっているのは、ふつう恋愛とよばれるもの、詩人が歌い上げるもの、つまり性的融合[geschlechtlichen Vereinigung]を目標とする性愛 [Geschlechtsliebe]であることは当然である。しかしわれわれは、ふだん愛の名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛[Selbstliebe]、他方では両親や子供の愛情、友情、普遍的な人類愛[Menschenliebe]を切り捨てはしないし、また具体的な対象や抽象的な理念への献身をも切り離しはしない。

Den Kern des von uns Liebe Geheißenen bildet natürlich, was man gemeinhin Liebe nennt und was die Dichter besingen, die Geschlechtsliebe mit dem Ziel der geschlechtlichen Vereinigung. Aber wir trennen davon nicht ab, was auch sonst an dem Namen Liebe Anteil hat, einerseits die Selbstliebe, anderseits die Eltern- und Kindesliebe, die Freundschaft und die allgemeine Menschenliebe, auch nicht die Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen. 


我々の根拠は、精神分析の研究が教えてくれた事実にもとづいている。すなわち、これらのすべての努力は、おなじ欲動興奮(欲動蠢動Triebregungen)の表現である。つまり両性を性的融合[geschlechtlichen Vereinigung]へと駆りたてたり、他の場合には、もちろんこの性的目的から外れているか、あるいはこの目的の達成を保留してはいるが、いつでもその本来の本質をたもっていて、おなじものであることを明らかに示している(自己犠牲や接近しようとする努力がそうである)。

Unsere Rechtfertigung liegt darin, daß die psychoanalytische Untersuchung uns gelehrt hat, alle diese Strebungen seien der Ausdruck der nämlichen Triebregungen, die zwischen den Geschlechtern zur geschlechtlichen Vereinigung hindrängen, in anderen Verhältnissen zwar von diesem sexuellen Ziel abgedrängt oder in der Erreichung desselben aufgehalten werden, dabei aber doch immer genug von ihrem ursprünglichen Wesen bewahren, um ihre Identität kenntlich zu erhalten (Selbstaufopferung, Streben nach Annäherung). 


したがって、「愛」»Liebe« という語をさまざまな意味につかう言葉遣いは、まことに適切なまとめかたをしたものと思う。そして、われわれも、おなじことを科学的な説明や叙述の基礎にする以上のことはできないと思う。精神分析は、この決断をしたかどで、あたかも放埒な革新をくわだてた責めを負っているかのように、憤激の旋風をまき起こしたのであった。

Wir meinen also, daß die Sprache mit dem Wort »Liebe« in seinen vielfältigen Anwendungen eine durchaus berechtigte Zusammenfassung geschaffen hat und daß wir nichts Besseres tun können, als dieselbe auch unseren wissenschaftlichen Erörterungen und Darstellungen zugrunde zu legen. Durch diesen Entschluß hat die Psychoanalyse einen Sturm von Entrüstung entfesselt, als ob sie sich einer frevelhaften Neuerung schuldig gemacht hätte. 


けれども精神分析は、このように愛を「拡張して」解釈したからといって、なんら独創的なことをしたわけではない。哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。このことはナッハマンゾーンやプフィスターが、こまかく述べている。また、使徒パウロがコリント人への有名な書簡の中で、愛をなにものよりも高く称讃したとき、たしかに、おなじ「拡張された」意味で愛を考えていたのである。このようにしてわれわれは、世人が偉大な思想家たちに驚嘆するとロではいうものの、かならずしも真面目に受けとってはいないことを知るばかりである。

Und doch hat die Psychoanalyse mit dieser »erweiterten« Auffassung der Liebe nichts Originelles geschaffen. Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse, wie Nachmansohn und Pfister im einzelnen dargelegt haben, und wenn der Apostel Paulus in dem berühmten Brief an die Korinther die Liebe über alles andere preist, hat er sie gewiß im nämlichen »erweiterten« Sinn verstanden,6) woraus nur zu lernen ist, daß die Menschen ihre großen Denker nicht immer ernst nehmen, auch wenn sie sie angeblich sehr bewundern.

さて、この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。大多数の「教養ある人[Gebildeten]」は、この名づけ方を侮辱と感じ、精神分析に「汎性欲説[Pansexualismus])という非難をなげつけて復讐した。

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. Die Mehrzahl der »Gebildeten« hat diese Namengebung als Beleidigung empfunden und sich für sie gerächt, indem sie der Psychoanalyse den Vorwurf des »Pansexualismus« entgegenschleuderte. 


性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、もっと上品なエロス とかエロティック[Eros und Erotik]という言葉をつかっても一向さしつかえない。私も最初からそうすることもできたろうし、それによって多くの反対をまぬかれたことであろう。し、かし私はそうしたくなかった。というのは、私は弱気に堕ちたくなかったからである。そんな尻込みの道をたどっていれば、どこへ行きつくかわかったものではない。最初は言葉で屈服し、次にはだんだん事実でも屈服するのだ。私には性を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語[griechische Wort Eros]は、罵言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の愛[deutschen Wortes Liebe]の翻訳にほかならない。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。

Wer die Sexualität für etwas die menschliche Natur Beschämendes und Erniedrigendes hält, dem steht es ja frei, sich der vornehmeren Ausdrücke Eros und Erotik zu bedienen. Ich hätte es auch selbst von Anfang an so tun können und hätte mir dadurch viel Widerspruch erspart. Aber ich mochte es nicht, denn ich vermeide gern Konzessionen an die Schwachmütigkeit. Man kann nicht wissen, wohin man auf diesem Wege gerät; man gibt zuerst in Worten nach und dann allmählich auch in der Sache. Ich kann nicht finden, daß irgendein Verdienst daran ist, sich der Sexualität zu schämen; das griechische Wort Eros, das den Schimpf lindern soll, ist doch schließlich nichts anderes als die Übersetzung unseres deutschen Wortes Liebe, und endlich, wer warten kann, braucht keine Konzessionen zu machen.

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)




見ての通り、フロイトにおいて愛の原点にあるのは、プラトンのエロスであり、これを愛の欲動[Liebestriebe]、あるいは性欲動[Sexualtriebe]と言い換えている。それ以外に《一方では自己愛[Selbstliebe]、他方では両親や子供の愛情、友情、普遍的な人類愛[Menschenliebe]を切り捨てはしないし、また具体的な対象や抽象的な理念への献身をも切り離しはしない》とあるように、自己愛[Selbstliebe]と、他方では云々・・・とあるが、これは『ナルシシズム入門』(1914年)などにおいて対象愛[Objektliebe]と表現されている。つまりフロイトの愛は大きくいって、愛の欲動(性欲動)、自己愛、対象愛がある。



ところでラカンにおいてはどうか。

フロイトのリーベは、愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない[il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. ](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


ここでジャック=アラン・ミレールはフロイトの愛を、ラカンの愛・欲望・享楽としているが、ラカンの愛はナルシシズムである。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme  ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


したがって、フロイトの「自己愛・対象愛・愛の欲動」は、ラカンの「ナルシシズム・欲望・享楽」となる。

ミレールは前二者を自己への愛、大他者への愛ともしている。


愛と欲望…これはナルシシズム的愛とアタッチメント的愛のあいだのフロイトの区別である[l'amour et le désir …la distinction freudienne entre l'amour narcissique et l'amour anaclitique]〔・・・〕

ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、アタッチメント的愛は象徴界の軸にある[l'amour narcissique concerne l'amour du même, tandis que l'amour anaclitique concerne l'amour de l'Autre. Si l'amour narcissique se place sur l'axe imaginaire, l'amour anaclitique se place sur l'axe symbolique ](J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)


享楽自体、愛という用語を使って言えば、《愛の享楽[jouissance de l'amour]》(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme   18/3/98)であり、これがフロイトの愛の欲動にほかならない。

したがって最も簡潔に図示すれば、次のようになる。





ラカンにおいて享楽=欲動=穴である。

享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


穴とはトラウマあるいは喪失を意味する。

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)


そしてこの喪失の穴は原抑圧の穴である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


フロイトにおいて原抑圧は欲動の固着を指している。

抑圧の第一段階は、あらゆる抑圧の先駆けでありその条件をなしている固着である[das »Verdrängung«…Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕

この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)

われわれには原抑圧[Urverdrängung]、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある[Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung](フロイト『抑圧』1915年)


この固着は幼児期に起こる。

幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)

幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)

初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen].(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)


つまり「欲動の固着=リビドーの固着=愛の固着」であり、この固着が(愛の)欲動の対象である。

欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。

Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. (…)  Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト『欲動とその運命』1915年)


さらにこの固着は常に《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)である。


この固着がラカンの現実界の定義の原点にあるものである。

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)


※より詳しくは、▶︎「同化不能の残滓[unassimilierbaren Reste]=エスの欲動=現実界の享楽」を参照


つまりは先ほどの「愛の欲動=愛の享楽」は、「愛の固着=享楽の固着」に置き直してもよい。


現在の主流ラカン派(フロイト大義派)で何よりも核心となっているのはこの固着である。


フロイトは幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



あるいはーー、


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)


サントームは身体の出来事として定義される[ Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)

サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


身体の出来事とはフロイトのトラウマの定義であり、固着の反復強迫をもたらす。



われわれの研究が示すのは、神経症の現象 (症状)は、或る出来事と印象(刻印)の結果だという事である。したがってそれを病因的トラウマと見なす。Es hat sich für unsere Forschung herausgestellt, daß das, was wir die Phänomene (Symptome) einer Neurose heißen, die Folgen von gewissen Erlebnissen und Eindrücken sind, die wir eben darum als ätiologische Traumen anerkennen.〔・・・〕

この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる。

ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an〔・・・〕


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。

これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)