2025年9月24日水曜日

ラカンの享楽用語群簡潔版

 

質問を貰っているので、ラカンの享楽用語群を可能な限り簡潔にーーわかりやすいようにーー記す。

……………



享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à Bruxelles, Le 26 Février 1977)


もともと享楽は斜線を引かれている。

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


この斜線は喪われた享楽ということで、つまり《享楽の喪失がある[il y a déperdition de jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


したがって、《去勢は享楽の喪失である[ la castration… une perte de jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)だ。


この去勢なる喪失は、母の身体の喪失を意味する。乳児が自己身体と見做していた母の乳房の喪失、究極的には母胎の喪失が去勢である。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいない。〔・・・〕そればかりか、出生行為はそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, …ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


つまり、享楽は去勢だということは、享楽は自体性愛(喪われた自己身体愛)ということだ。

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. …Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. ](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


厳密には享楽=自体性愛的欲動である、《自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich]》(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)




ラカンはセミネールⅩにて、去勢(-φ)を軸に、


自己身体[corps proper]

原ナルシシズム[narcissisme primaire]

自体性愛 [auto-érotisme]

自閉症的享楽[jouissance autiste]


を等置している。





「自閉症的」にだけ「享楽」がついているが、すべてに享楽をつけることができる。


すなわち、

自己身体の享楽[jouissance du corps propre]

=原ナルシシズム的享楽[jouissance narcissique primaire]

=自体性愛的享楽[jouissance  auto-érotique]

=自閉症的享楽[jouissance autiste]


である。


たとえばジャック=アラン・ミレールは次のように表現している。

自閉症的享楽としての自己身体の享楽 [jouissance du corps propre, comme jouissance autiste.] (J.-A. Miller,, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)

享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)




自体性愛が原ナルシシズムと等置されるのは、フロイト由来。


愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は原ナルシズム的である[Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch](フロイト『欲動とその運命』1915年)


そして自体性愛と自閉症が等置されるのは、自閉症概念造語者ブロイラー由来。


自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである[Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911)



ここでもうひとつラカンはセミネールⅩⅢで、マゾヒズムと原ナルシシズムを等置している。



マゾヒズムを唯一明示しうるのは、対象aの機能を持ち出す以外ない。それがまったき本質である。私は信じている、重要なのはかつて原ナルシシズムのため確保されていた場処に見い出さなければならないと。[On ne peut articuler le masochiste qu'à faire entrer…que la fonction de l'objet(a) en particulier y est absolument essentielle. Je crois que l'important  de ce que…peut être repéré à la place anciennement réservée au narcissisme primaire.] (Lacan, S13, 22 juin 1966)


ここで対象aとあるのは、何よりもまず去勢かつ母である。

私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ).] (Lacan, S11, 11 mars 1964)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )


つまり去勢された母(喪われた母)が、マゾヒズム=原ナルシシズムだと言っていることになる。


先ほどの享楽リストにマゾヒズム的享楽[Jouissance masochiste]を付け加えて図示しておこう。




上の表現群がラカンの享楽であり、基本的に等置できる。

確認すれば、自体性愛の対象つまり享楽の対象は喪われた対象(去勢された対象)である。

自体性愛の対象は実際は、…喪われた対象aの形態をとる[autoérotisme … Cet objet qui n'est en fait que …sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a)](Lacan, S11, 13 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


モノとは母、母の身体である、《モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère]》(Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


そして究極の自体性愛つまり享楽の対象は喪われた母胎である。

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


ーーフロイトはこれを《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)とした。


なお晩年のラカンは「現実界の享楽=マゾヒズム=トラウマ=モノ(母なるモノ)」とした。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il (Freud) l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



ラカンはトラウマを穴ともしたが、これは喪失を意味し、冒頭に示したように去勢のことである。

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)


トラウマと喪失の等置はフロイトの次の文にある。

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である。〔・・・〕母を見失なうというトラウマ的状況〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ。

Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. (…) Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter(…) . Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle (フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


不安の別名は不快であり、欲動=享楽である。

不快(不安)[Unlust-(Angst)](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章)

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)



当面以上。





2025年9月23日火曜日

甘えとマゾヒズム

 

土居健郎は「甘え」という語は日本語特有であるが、人間には誰にでもあるとした。


甘えという言葉が日本語に特有なものでありながら、人間一般に共通な心理現象を表しているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近かなものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにでき上がっていることを示している。言い換えれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということができる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971



《日本人の精神構造を理解するための鍵概念》としているが、具体的には次のことである。



発達的に見れば、甘えの心理的原型は母子関係における乳児の心理に存するということはあまりに明かである。〔・・・〕生まれたての乳児については、甘えていると言わないことにまず注意しよう。 大抵は生後一年の後半に、 乳児が漸く物心がつき、母親を求めるようになった時、はじめて「この子は甘えている」というのである。


すなわち甘えとは、乳児の精神がある程度発達して、母親が自分とは別の存在であることを知覚した後に、その母親を求めることを指していう言葉である。 いいえかえれば甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎児の延長で、母子未分化の状態にあると考えなければならない。しかし、精神の発達と共に次第に自分と母親が別々の存在であることを知覚し、しかもその別の存在である母親が自分に欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求めることが甘えであるということができるのである。

〔・・・〕であるとすると、甘えるということは結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるといえないだろうか。母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。しかしそれにも拘らず甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。この意味で甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、 分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。


〔・・・〕むしろ甘えなくしてはそもそも母子関係の成立が不可能であり、母子関係の成立なくしては幼児は成長することもできないであろう。


さらに成人した後も、新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動しているといえる。その意味で甘えは人間の健康な精神生活に欠くべからざる役割を果していることになる。(土居健郎『「甘え」の構造』1971)



さらに後年次のようにも言っている。



フロイドの理論と私の理論との間にずれがあるのは、何をもって解釈のための主要な概念としたかという点で彼我の間に相違が存したからであるということができる。すなわちフロイドは彼特有の本能概念(Trieb)を、私は「甘え」を鍵概念としている点が明らかに異なっているのである。(土居健郎「精神医学と言語」1981)


ここで土居健郎はフロイトの本能(Trieb)ーー当時は「本能」と訳されたが「欲動」であるーーではなく「甘え」を鍵概念に移行させた、と言っているが、『「甘え」の構造』は英訳では「The Anatomy of Dependence」(1973)である。土居自身、1987年に「依存的な関係」という表現を使って「甘え」を説明している。


次に「甘え」の心理をどう考えるかという点について少し話をしてみたいと思います。これは日本人にとっては普通の言葉ですからすぐわかるけれども、先ほど申したように違う文化から見るとそれがいかにわかりにくいものかということがわかってくる。一口に「甘え」という状態はどういう場合に起きるかというと、これは人間関係の中で起きる。しかし人間関係がなくて「甘え」が起きるという場合もある。そういう場合は説明がちょっと難しくなります。

 

一番簡単な場合は子供が親に甘えている場合でしょう。これは相手と特別な関係にあって、相手によって愛されているというか、自分が相手に受け入れられているという感じがあって、ある種の一体感が経験されている場合です。これは満足している甘えですね。満足している場合は相手がこちらを受け入れている、それは相互的といいますか、こちらの要求を相手はわかっていて、わかってくれているということがこちらにもわかっている。そこで一体的な感情が起きていることになるのです。

ところでこの状態をもう少し違う点から見てみますと、ふつう相互的といいますと、双方の立場がイコールなわけですね。相互依存というのがそれです。これに反して甘える関係というのは甘えを許容する相手、つまり甘えられる相手がいて、甘える人がいる、そういう一方的なベクトルが付されている関係であるということが言えます。したがって、そういう関係が成立するためにはこちらの気持ちを受け入れてくれる相手がいなくてはいけないし、この関係は非常に相手に寄りかかっているところがあるわけです。一体感と言いましたけれども、たとえば男と女が互いに愛し合って一体感を体験するのとはちょっと違って、この場合は双方の間にあるステータスの違いがある。これは英語で言いますとディペンダンスの関係、すなわち依存的な関係ということができます。要するに甘えは相手次第というところがあります。こちらは甘えたい、しかし向こうが甘えさせてくれればいいけれども、甘えさせてくれなければフラストレーションが起きる。ですから甘えという感情は、それが満足しているときは大変気持ちがいいけれども、同時に傷つきやすい状態です。もし満足が得られなかったら、すねたりひがんだり、ひねくれたり恨んだりします。このように甘えと関係していろんな語彙がもともと日本語に多いのには甘えの不安定性のためかもしれません。

(土居健郎「甘えの心性と近代化」昭和62年10月



ところで依存という語に焦点を当てるなら、フロイトのマゾヒズムは「依存」に関わる。

マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供として取り扱われることを欲している[der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will.](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)




この依存という語を使ってフロイトは次のように記している。

寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)


《愛の喪失に対する不安》とあるが、この不安はリビドー、つまり欲動に関わる。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


そしてフロイトのリアルな欲動はマゾヒズム的なのである。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、マゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



土居にとって「甘え=依存」、フロイトにとって「依存=マゾヒズム=欲動」である。とすれば、甘えはマゾヒズムではないか、という問いが生まれる。もしそうなら、これは何も《日本人の精神構造を理解するための鍵概念》ではなく、フロイト観点からは、人間の原初の姿である。


そしてラカンの享楽とはもちろんフロイトの欲動であり、マゾヒズムである。



享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il (Freud) l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976)


ーー《ラカンの観点では、マゾヒズムは人に広く行き渡っている[dans la perspective de Lacan, il y a une prévalence du masochisme]》(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 3 MAI 1989)


ラカンはマゾヒズムにおいて、達成された愛の関係を享受する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある[Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre.]  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)



ここでもう一度フロイトに戻ろう。


フロイトにとって母へのリビドー固着はマゾヒズムである。

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇, 1905年)

最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ](フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)


そしてマゾヒズムは受動性に関わる。

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


女性的とあるが、これは冗語法である。

男性的と女性的とは、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。これら三つのつの意味のうち最初の意味が、本質的なものであり、精神分析において最も有用なものである。Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne. Die erste dieser drei Bedeutungen ist die wesentliche und die in der Psychoanalyse zumeist verwertbare. (フロイト『性理論三篇』第三篇、1905年、1915年註)


そして母との出来事は受動性つまりマゾヒズム性である。

母のもとにいる幼児の最初の出来事は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動性である[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)


これらは、先に掲げた土居健郎の定義する「甘えの心理的原型」の内実と酷似しているように見える。


なお「⽇本の精神分析における「⽢え」理論の展開と臨床実践」(境明穂、PDF)によれば、土居は「甘え」は乳幼児が母親から受身的に愛されることを願う受身的対象愛(バリント,1952)と重なり合う概念で、「愛する」というより「愛されたい欲求」であり、「対象を求める」ことではなく「対象に求める」ことともしているようだ(『精神療法とは精神分析』1961)。「受身的対象愛=受動的対象愛=マゾヒズム的対象愛」としうるのではないか。(なおフロイトの「愛されたい要求」参照)