Lacan の教えにおいて欲望という用語が pulsion[本能]という用語より如何に重要視されているかは,Écrits の目次を眺めるだけで見てとれます.目次を眺めるだけでなく,ex-sistence という語を鍵用語として幾つか引用を挙げてみましょう.
「フロィトの Trieb と精神分析家の欲望とについて」のなかにこの命題があります : le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose[欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある].
この la Chose という語を,Lacan は後に l'achose とも表記します : a-chose. そこには,剰余悦 [ le plus-de-jouir ] としての客体 a が読み取れます.すなわち,「悦は物の側にある」は,客体 a における剰余悦のことです.
剰余悦は仮象にすぎません.より本有的なのは,欲望としての他 Ⱥ です.他 Ⱥ の欲望も,究極的には,ex-sistence としての存在欠如へ還元されます.
以下、名高いラカン注釈者二人の見解を並べる。
コレット・ソレールColette Soler)「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求besoinとの 相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場しての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者 として欲望するje désire en tant qu'Autre。というのは、わたしたちは言語に組み入れられているから。そぁそ、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものseule chose qui intéresse le psychanalysteについて話すなら、 「欲望は大他者の欲望ではないle désir n'est pas désir de l'Autre」。
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。
◆ジャック=アラン・ミレール、ラカンのテキストについての注釈1994より(「ミ レールのセミネール」 (Word 56KB))
ーー「フロイトの欲動精神分析家の欲望について」についての読解
このミレールの1994年注釈の基本は、2011年、L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller でもより鮮明な形で強調されている。
《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853)ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――大他者であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネール VII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である《モノ das Ding》を経由して、この論文で取り上げられています。…………
このテクストは「ファルスの意味作用」に逆らっています。なぜなら、「ファルスの意味作用」は欲動と欲望の混同に基づいているからです。ラカンは冒頭から、フロイトの著作では欲動はいかなる種類の性的本能とも区別されると宣言しています《 La libido n’est pas l’instinct sexuel. Sa réduction, à la limite, au désir mâle, indiquée par Freud, suffirait à nous en avertir》( E851)。
欲望は快原理にとらわれたままなのです――これは私が指摘した快楽と享楽の対立にすでに示されています。欲望はとらわれたままであり、その彼岸には享楽の価値 la valeur de la jouissance があります。《欲望の難所は本質的に不可能性である le freudisme coupe un désir dont le principe se trouve essentiellement dans des impossibilités》(E852)とラカンが言うときに強調しているのはこのことです。…………
欲望は法に従属している 《 Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi》(E852)――これはこの短いテクストで公式化される重大な要点です。これが、欲望は大他者からやってくるということの意味です。
しかし、欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。
…………
冒頭に引用した小笠原信也氏のツイートは「存在欠如」を強調している。
剰余悦は仮象にすぎません.より本有的なのは,欲望としての他 Ⱥ です.他 Ⱥ の欲望も,究極的には,ex-sistence としての存在欠如へ還元されます.(小笠原信也)
この「存在欠如」の強調についてもミレール、ソレール二者の見解を付記しておこう。
ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在 être である。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)
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※付記
もうひとつ、《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853)をめぐってミレールの明晰な注釈を掲げておこう。
なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps の表現、変形であり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである--ラカンは、aを、フロイトのもの das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである--、他方、欲望は大他者と関係する le désir est relation à l'Autre。それゆえ、享楽と欲望とのあいだには二律背反 antinomie 、裂目 béance がある。享楽は、簡単に言ってしまえば、場処としてcomme lieu、己れ固有の身体 le corps propreであるが、欲望は大他者との関係を結んでいる。このような腑分けはまた、10年後、セミネール「アンコール」で大きな展開を見ることとなる。
Pourquoi Lacan s'attache-t-il avec cette insistance, dans ce Séminaire, à laisser petit a du côté du sujet, de l'autre côté de l'Autre ? Parce que petit a est en quelque sorte une expression, une transformation de la jouissance du corps propre, de la jouissance dans son statut autistique, fermé – il l'avait rendue d'autant plus fermée en l'appelant du terme freudien de das Ding –, tandis que le désir est relation à l'Autre. Il y a donc une antinomie, une béance entre jouissance et désir. La jouissance, si l'on prend les choses simplement, a comme lieu le corps propre, alors que le désir est relation à l'Autre. C'est encore cette antinomie qui inspirera, dix ans plus tard, l'élaboration de Lacan dans le Séminaire Encore.(Introduction à la lecture du Séminaire L’angoisse de Jacques Lacan, Jacques-Alain Miller、2004)
はっきりいってしまえば、小笠原晋也氏の欲望/享楽の理解(誤読)とは、1975年のロラン・バルトにさえ至っていない。
享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)