2017年5月20日土曜日

丸山圭三郎の記憶に

丸山圭三郎派の幼稚なカオス概念……つまり言語的に分節化されない一様な混沌がカオスだと言うなら、もちろんそのようなカオスはドゥルーズにはない。むしろ、カオス―――少なくとも内在平面においてとられられたカオスは、それ自体、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいている。そのようなものをカオスと呼ぶなら、それは潜在的多様体として存在する。 (浅田彰発言『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」)
たとえば「シニフィアンとシニフィエの絆は、ひとが混沌たる塊に働きかけて切り取ることの出来るかくかくの聴覚映像とかくかくの観念の切片の結合から生じた特定の価値のおかげで、結ばれる」とソシュールが書くとき、その「混沌たる塊」こそ、現前化しつつある差異の立ち騒ぐ領域なのである。ソシュール自身のよってときにカオスとも呼ばれ、丸山圭三郎がイェルムスレウの術語の英語訳としてのパポートを採用しているものにも相当するこの「混沌たる塊」は、しかし、『ソシュールの思想』の著者が考えているように、分節しがたいものの不定形なマグマ状の連続体といったものではない。たしかにソシュール自身もそうした誤解を招きかねない「星雲」といった比喩を使ってはいるが、あらゆるものがもつれあっているが故にそれがカオスと呼ばれるのではなく、そこにあるすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあっているが故にカオスなのである。

なるほど、一見したところそこには秩序はないが、しかし、秩序はそこからしか生じえないはずのものであり、これを「コスモス=分節化されたもの」と「カオス=分節化以前のもの」の対立としてとらえるかぎり、作家としてのソシュールが視界に浮上する瞬間は訪れないだろう。「作家」とは、みずからを差異として組織することで「作品」という差異を生産するものだからである。もちろんこの差異はコスモスには属していない。(蓮實重彦『「魂」の唯物論的擁護にむけて――ソシュールの記号概念をめぐって  丸山圭三郎の記憶に』1993年)
マルクスがいう「社会的関係の隠蔽」は、一般に、物象化として、すなわち本来関係的なものが実体化されることとして理解されている。そんなことなら、マルクスでなくても他の人でもいえるだろう。さらに、たとえば、言語にかんして、それが、本来差異的な関係体系(分節化)なのに、物象化されて、世界が“実体的に”そうであるかのようにいられるというたぐいの批判も、それと同じことである(丸山圭三郎)。

ここから一つの“根源的な”批判と治療法が提起されてしまう。だが、それらの理論こそ“社会性”の隠蔽である。われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年)



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