2017年8月3日木曜日

「知の権力者」の測り知れない「知」

スピノザやドゥルーズ、ニーチェやらの哲学愛好家らしいお方が《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》と囀っている。




このお方は自称「知の権力者」である。




《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》とおっしゃっているのは何かトクベツに深い意味があるに相違ない。きっと私には測り知れない深い知からの断言であるだろう・・・

なぜならスピノザは《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》と言っているが、私にはこの衝動は情動と近似した意味に読める。すなわちほぼ「情動とは人間の本質」とスピノザは言っているように読める。だが「知の権力者」からみれば、これは甚だしい誤読なのであろう・・・

以下、スピノザのエチカ第三部「情動論」からいくらか抜き出そう。


【欲動と情動】
情動 affectusとは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変様 affectiones、また同時にそうした変様観念affectionum ideasであると解する。(スピノザ、エチカ第三部、定義3)

Per affectus intelligo corporis affectiones, quibus ipsius corporis agendi potentia augetur vel minuitur, iuvatur vel coercetur, et simul harum affectionum ideas.(E T H I C E S

情動 affectusと変様 affectiones についてドゥルーズは、次のように注釈している。

これまで、変様、変様状態(アフェクチオ[affectio])は概して直接、身体や物体について言われるが、情動(アフェクトゥス[affectus])は精神に関係しているといった指摘がなされてきた。しかしこの両者の真の相違はそこにあるのではない。真の相違は、身体の変様やその観念がそれを触発した外部の体の本性を含むのにたいして、情動の方は、その身体や精神のもつ活動力能の増大または減少を含んでいるところにある。アフェクチオは触発された身体の状態を示し、したがってそれを触発した体の現前を必然的にともなうのに対して、アフェクトゥスは、ひとつの状態から他への移行を示し、この場合には相手の触発する体の側の相関的変移が考慮に入れられている。感情という情動が特殊なタイプの観念や変様として提示されることはありうるにしても、変様(像または観念)と情動(感情)とは本性を異にするのである。(ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』)


ニーチェは「権力への意志」=「情動」としている。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

クロソウスキーは、情動は欲動と相同的だとしている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーの『悪の循環』の前年に上梓されたドゥルーズからも抜き出そう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

…………

次は「衝動」である。以下畠中訳

【衝動 appetitusと欲動 trieb】
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, v o l u n t a s appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur a p p e t i t u s , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,

現在、「衝動 appetitus」と triebと訳されることが多い。すなわち「欲動」である。

たとえば注釈者たちによって次のように記述される

・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb

よって《……精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる》と記すことができる。

この文をフロイトの欲動の定義とともに読んでみよう。

「欲動 Trieb」は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

…………

こうして私のこのうえなく雑な頭では、情動≒衝動≒欲動となる。

ニーチェは「権力への意志」を「欲動の飼い馴らされていない暴力」としている。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

「飼い馴らされていない」という語をフロイトは次のように使っている。


自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない欲動の蠢きungebändigten Triebregung を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

あるいは《リビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

おそらく知の権力者は《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》と宣言することで「家畜化のすすめ」をしているのではなかろうか。実にこのうえなく深い知である・・・

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※付記

ここでの話題から外れるが、『ニーチェと悪の循環』の英訳者 Daniel W. Smith による序文には、ニーチェの用語の使い方をクロソウスキーはどう捉えているかについてのを簡明な記述があり、それを付記しておく。

Impulsion(衝動) は、仏語の pulsion(欲動) に関係している。pulsion はフロイト用語の Triebeを翻訳したものである。だがクロソフスキーは、滅多にこの pulsion を使用しない。ニーチェ自身は、クロソフスキーが衝動という語で要約するものについて多様な語彙を使用しているーー、Triebe 欲動、Begierden 欲望、Instinke 本能、Machte 力・力能・権力、Krafte 勢力、Reixe, Impulse 衝迫・衝動、Leidenschaften 情熱、Gefiilen 感情、Afekte 情動、Pathos パトス等々。クロソフスキーにとって本質的な点は、これらの用語は、絶え間ない波動としての、魂の強度intensité 的状態を示していることである。(PIERRE KLOSSOWSKI,Nietzsche and the Vicious Circle Translated by Daniel W. Smith)