男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)
こう引用すれば、おそらくニーチェの考え方はもはや古いという人が多いだろう。
たとえば21世紀に入って次のようなことが言われている。
女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? ")
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、2012より孫引き、PDF)
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists,2001)
ジャック=アラン・ミレールの文に《男性への推進力 pousse-à-l'homme》という表現があったが、これはラカンがファルス秩序(神経症的な秩序)に囚われない精神病的存在(倒錯的存在も含めてよいだろう)をめぐって語る発言のなかで、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(エトゥルディ、1972)と言っていることにかかわる。父の名(自我理想)の斜陽の時代には、男たちは女性化するのであり、他方、ミレールの考え方では(そして現実にも)、現在の女たちにおける《男性への推進力 pousse-à-l'homme》は明らかだろう。
とすればニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である》とはまったく古くなってしまったのだろうか。いや必ずしもそうではない。
たとえば日本において、一時期巷間で流通してい名言「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」を裏付けるものとして捉えられるフロイト・ラカン派の注釈がある。
なぜこういったことが起こるのかといえば、フロイト・ラカン派では次のように言われることが多い。
①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。
②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。
③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。
つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。
こういった発達段階的な基盤にある男女の相違とは、いくら男たちにおける「女性への推進力」、女たちにおける「男性への推進力」があってもなかなか変化はしがたい、と私は思う。
男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)
……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(……)
真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。
しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
なぜこういったことが起こるのかといえば、フロイト・ラカン派では次のように言われることが多い。
①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。
②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。
③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。
つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。
こういった発達段階的な基盤にある男女の相違とは、いくら男たちにおける「女性への推進力」、女たちにおける「男性への推進力」があってもなかなか変化はしがたい、と私は思う。
…………
※追記
次の発言は、上に記した文脈のなかで(も)読む必要がある。
ラカンによる異性(hétéro)の定義とは?
ここでのヘテロ hétéro とは、「奇妙な、異物の、異者の、エイリアンの」という意味。
→《われわれにとって異者の身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)
※追記
次の発言は、上に記した文脈のなかで(も)読む必要がある。
定義上異性愛者とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である(ミレール、The Axiom of the Fantasm)
ラカンによる異性(hétéro)の定義とは?
幼児性愛は自体愛的 autoérotique ではなく、ヘテロ的 hétéro である(ラカン、1975、ジュネーヴ)
ここでのヘテロ hétéro とは、「奇妙な、異物の、異者の、エイリアンの」という意味。
→《われわれにとって異者の身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)