我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嫌悪をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、2016,12)
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人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
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《Twitter Japan本社前(東京都中央区)で9月8日、同社がTwitter上に投稿された「ヘイトスピーチ」を削除せずに放置していると訴える市民たちが、抗議活動をした。》(2017/09/9、伊吹早織 BuzzFeed News Reporter, Japan)
以下、伊吹早織さんの記事より、画像を抽出。
【ネトウヨ生産装置としての左派やリベラル言説】
多くの人はあのような新しい拷問形態を見て見ぬふりをしているのだろう。
それにひどく苛立っているのが、たとえば野間易通である。
最近では次のようなツイートがある。
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【正義という名の集団神経症の諫め】
他方次のような立場がある。ここではたまたまよくまとまった佐々木俊尚氏のツイートを掲げるが、もちろん彼だけではない。ほどよく聡明な心優しきインテリはおおむねこの立場をとっている筈である。
この考え方を言い換えれば、その核心は、《自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる》ときの危険性を説いているとしてよいだろう。
ジャズ界の大御所の最近の振舞い(醜態)でさえ、この文脈で捉えうるかもしれない。
そしてにこの態度が集団神経症的に現われるとき最も危ない。
社会運動・政治運動とはこの集団神経症的症状をまぬがれがたい、ということは言える。
以下、伊吹早織さんの記事より、画像を抽出。
おそらく次のような態度がーーすくなくとも当面はーー「まっとう」なのではないか(両ツイートとも、2017.9.13)
シュナムル@chounamoul
「ヘイト行為は禁止。見つけた方はご報告ください対処します」と言ってるツイッター社に「こんなに放置されてるから対処しろ」と抗議する当然の流れの横で、「嫌なら見るな」だの「紙を踏むなんて」だの「人には差別する自由が」だの言ってる人たち、控えめに言ってもズレ過ぎでしょ。
不良モダンガール@badmoderngirl
そもそもヘイトに行儀悪く抗議することが何故「憎悪の連鎖」になるの?そこが本当に分からない。「憎悪の連鎖」って学術的な言葉?論理的にどういう事なの?例えばテロに対して武力で報復する。その仕返しにまたテロが起きるってのなら分かるよ。でもヘイトに対して「止めろ」って抗議してるだけじゃん
【ネトウヨ生産装置としての左派やリベラル言説】
多くの人はあのような新しい拷問形態を見て見ぬふりをしているのだろう。
それにひどく苛立っているのが、たとえば野間易通である。
以下、2014年時点での、とても印象的だった、野間あるいはそれにかかわるツイートを二つだけ掲げる。
野間易通@kdxn: ネット上の左派やリベラルが、消化不良のポストモダンで相対主義の泥沼にはまりこみ、「おまえも本当は差別者だ」とお互いを指差し糾弾しあっている間に、難しいこと考えなくていいネトウヨが大増殖、現在に至る。これがこの15年に起きた出来事である。
Ikuo Gonoï @gonoi: あれら先生方の言動で不思議なのは、カウンターの一挙手一投足にはダメ出しをしてくるのに、なぜかレイシストには直接対決しにいかないところ。あれでは避けているという印象を与えるし、何よりも説得力がない。RT @cracjpn なめてかかってんだろうね。学会ごと派手に批判してあげます。
最近では次のようなツイートがある。
野間易通@kdxn表現の自由を重視するリベラルが結果的にヘイト被害を軽視してしまうようなことが、リベラル・フェミニストの間にも起こってるんじゃないかなと、この間の論争を見ていて思います。(2017年01月19日)
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【正義という名の集団神経症の諫め】
他方次のような立場がある。ここではたまたまよくまとまった佐々木俊尚氏のツイートを掲げるが、もちろん彼だけではない。ほどよく聡明な心優しきインテリはおおむねこの立場をとっている筈である。
この考え方を言い換えれば、その核心は、《自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる》ときの危険性を説いているとしてよいだろう。
誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」)
ジャズ界の大御所の最近の振舞い(醜態)でさえ、この文脈で捉えうるかもしれない。
あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)
例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)
そしてにこの態度が集団神経症的に現われるとき最も危ない。
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)
社会運動・政治運動とはこの集団神経症的症状をまぬがれがたい、ということは言える。
「感情転移関係」とは、一種の偶像崇拝である。フロイトにとって、治療とは、それを人工的に再現することによってそこからひとを解放させることである。つまり感情転移関係を解消するために、別の種類の感情転移関係が必要なのだ。これは、ある意味で、モーゼにおいて、宗教(神経症)を解消するために、もう一つの宗教(一神教)が不可欠だったのと似ている。実際、世界宗教は「宗教批判」なのだが、それ自体やはり宗教なのだ。
一般に、世界宗教は、偉大な宗教的人格によって開示されたものだといわれている。しかし、そのような人格と弟子たちとの関係は、けっしてフロイトのいう「感情転移関係」をまぬかれるものではない。つまり、世界宗教も集団神経症によってのみ可能なのだ。だからまた、それが始祖の死後に、その死自体を儀礼的に意味づける共同体の宗教を作り出すことも避けられない。さもなければ、どんな偉大な人格も、世界宗教の始祖となりえなかっただろう。
フロイトの運動体においても、同じことが生じている。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは、彼の描くモーゼに似ている。偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通り“宗教”となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的な核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されることは眼にみえているからである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
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ではどうすべきなのか。正義という名の神経症を怖れていてはなにもできなくなってしまうことはないか?
すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(浅田彰シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000年)
《政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく》という態度をとって、たとえばネトウヨと呼ばれる「拷問者」への対抗運動をしたとしよう。そのとき最低限必要なのは、おそらく「ユーモア精神」である。
そして《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)
ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)
フロイトのいうようにこのユーモア精神とは容易に獲得できるものではない。
……日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。(……)
こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。
戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。
もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年初出『記憶の肖像』所収)
…………
※付記
あまりにも的確に、現代日本における在特会やネトウヨ言説の核心的あり方をついているように、わたくしは思う。
例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。
レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。
このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、ミゾジニーやホモフォビアに、同じように見出すのは難しくない。
この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。
他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。
結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。