社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
この考え方のラカン派的変奏は次の通り。
ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを享楽している人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に享楽している人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006年)
一言でいえば、平等としての正義は「他者の享楽への嫉妬」の基盤をもっている(参照)。
ジャン=ピエール・デュピュイは『聖なるものの刻印 La marque du sacré、2008)にてヒエラルキーを四つに分けている (四つの「象徴的制度 symbolic dispositifs」)。その分析において「身分社会」では、下位者が上位者に怨恨を抱くのは稀である、としているが、これは歴史的・文化的にみて誰もが頷く指摘だろう。
そしてデュピュイは「平等社会」でこそ、怨恨が渦巻くと主張している(このあり方のフロイト・ラカン派的分析は「二者関係先進国日本」を参照のこと)。
日本において、「他者の享楽への嫉妬」の典型的発露である政治家の不倫報道がひどく活発なのは、「同質化社会」であるからである。「身分社会」ではそんなことは起こらない。
これは柄谷行人が1980年代にすでに指摘している。
柄谷行人) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。
文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)
政治家がことさら「いじめ」の餌食になるのは、彼らが「建て前」をいう職業であり、彼等の「本音」が露顕したときそのコントラストが際立つからだろう。
もっとも、そんなコントラストはないはずの「芸能人」にたいする「いじめ」、あるいは「他者の享楽への嫉妬」もいままで繰り返し起こって来た。
ここでは北野武と伊丹十三の事例を掲げる。
注目されたわたしが落ちていく姿、それを誰もが見たいんだから……。自分は事故のとき痛切に感じたですね……。マスコミから一般の人たちの憶測に秘められた嬉しさ……、ちょっとゾッとしますね……(北野武)
◆北野武 with 蓮見重彦(TAKESHI KITANO WITH SHIGEHIKO HASUMI)
以下、大江の小説からだが、吾良のモデルは伊丹十三である。
吾良の死以後の短い間に古義人がテレヴィ局や新聞社、また週刊誌の人間から受けとった印象は特殊なものだった。それは、かれらに自殺者への侮蔑の感情が共有されている、ということだ。
侮蔑の感情は、マスコミの世界で王のひとりに祭り上げられていた吾良が引っくり返り、もう金輪際、王に戻って反撃することはないという、かれらの確信から来ていた。
吾良の死体に向けて集中した侮蔑はあまりに大量だったので、ついにはみ出すようにして、マスコミのいう吾良の関係者にも及んだ。書評委員会の集まりなどでは親身にあつかってくれた女性記者から、取材申し込みが留守番電話に入っていたが、そこに浮びあがるのは、やはり権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑だった。(大江健三郎『取り替え子』)