2022年2月13日日曜日

享楽は「愛の喪失のトラウマ」である

 

ラカンはセミネールⅩⅦの冒頭近くで、フロイトの『快原理の彼岸』を振り返って次のように言っている。


反復が享楽の回帰に基づいているなら、そして間違いなくこの観点において、フロイト自身によって明示されたものは、このまさに反復において、何ものかかが生み出される。それは傷、失敗である。si la répétition est fondée sur un retour de la jouissance, et que ce qui proprement à ce propos est - dans FREUD, et par FREUD lui-même – articulé, c'est à savoir que dans cette répétition même, c'est là, c'est là que se produit ce quelque chose qui est défaut, échec. 〔・・・〕


喪失と呼ばれる何ものかがあるのである。そしてこの喪失において、起源からの喪失において、私はここで要約するなら、フロイトは断言している。このまさに反復において、享楽の喪失があると。Il y a quelque chose qui est perte, et que sur cette perte, dès l'origine, dès l'articulation de ce  que ici je résume, FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance.  


ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能の起源がある。これがフロイトである。C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD.   (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


ここで、反復と傷、失敗、そして享楽の喪失が語られるいるが、これは純粋にフロイトの反復強迫と愛の喪失をめぐる次の文の解説である。


反復強迫はなんらかの快の見込みのない過去の出来事、すなわち、その当時にも満足ではありえなかったし、ひきつづき抑圧された欲動蠢動でさえありえなかった過去の出来事を再現する。daß der Wiederholungszwang auch solche Erlebnisse der Vergangenheit wiederbringt, die keine Lustmöglichkeit enthalten, die auch damals nicht Befriedigungen, selbst nicht von seither verdrängten Triebregungen, gewesen sein können. 


幼時の性生活の早期開花は、その願望が現実と調和しないことと、子供の発達段階に適合しないことのために、失敗するように運命づけられている。それは深い痛みの感覚をもって、最も厄介な条件の下で消滅したのである。この愛の喪失と失敗とは、ナルシシズム的傷痕として、自我感情の永続的な傷害を残す。Die Frühblüte des infantilen Sexuallebens war infolge der Unverträglichkeit ihrer Wünsche mit der Realität und der Unzulänglichkeit der kindlichen Entwicklungsstufe zum Untergang bestimmt. Sie ging bei den peinlichsten Anlässen unter tief schmerzlichen Empfindungen zugrunde. Der Liebesverlust und das Mißlingen hinterließen eine dauernde Beeinträchtigung des Selbstgefühls als narzißtische Narbe,(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


ラカンの享楽の喪失[ déperdition de jouissance]とは、このフロイト文における愛の喪失[Liebesverlust]のことなのである。


冒頭のラカンには「喪われた対象の機能」ともあったが、この喪われた対象とは母である。

(初期幼児期における)母の喪失(母を見失う)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


フロイトは別に愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]とも言っている。


寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失の不安と名づけるのが最も相応しい。Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden. (フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)


フロイトにおける不安とはトラウマと結びついている。


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


したがって愛の喪失の不安とは事実上、「愛の喪失のトラウマ」Trauma vor dem Liebesverlust である。


ラカンの享楽の穴とはこの意味である。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


享楽の穴は享楽のトラウマ、欲動のトラウマである。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


穴とはラカンの言葉遊びなのである。


ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び。トラウマの穴はそこにある。そしてこの穴の唯一の定義は、主体をその場に置くことである。le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme. Le trou du traumatisme est là, et ce trou est la seule définition qu'on puisse donner du sujet à cette place,  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)

人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )



そしてラカンの現実界の享楽のトラウマとは、フロイトの愛の喪失のトラウマのことである。


享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ]。現実界の享楽[Jouissance du réel]である。(Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)



この現実界のトラウマが母に関わるのも純粋にフロイトに準拠している。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


ラカンは享楽の対象としてのモノは、喪われた対象と言ったが、要するに喪われた母、究極的には喪われた母の身体が享楽の対象である。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond](ラカン、S11、20 Mai 1964)


このラカンの一連の発言自体、フロイトの次の文章の言い換えである。


愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアルなものかを。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児のおそらく最も欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。次の考えを拒絶してはならない。つまり不安の決定因はその底に出生時の原不安の状況[die Situation der ursprünglichen Geburtsangst] を反復していることを。それは確かに母からの分離[Trennung von der Mutter]を示している。


die Angst vor dem Liebesverlust, ersichtlich eine Fortbildung der Angst des Säuglings, wenn er die Mutter vermißt.   Sie verstehen, welche reale Gefahrsituation durch diese Angst angezeigt wird. Wenn die Mutter abwesend ist oder dem Kind ihre Liebe entzogen hat, ist es ja der Befriedigung seiner Bedürfnisse nicht mehr sicher, möglicherweise den peinlichsten Spannungsgefühlen ausgesetzt. Weisen Sie die Idee nicht ab, daß diese Angstbedingungen im Grunde die Situation der ursprünglichen Geburtsangst wiederholen, die ja auch eine Trennung von der Mutter bedeutete. (フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


出生時の原不安の状況[die Situation der ursprünglichen Geburtsangst] とあるが、すなわち出産トラウマである。


不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

オットー・ランクは『出産外傷[Das Trauma der Geburt]』にて、出生という行為は、一般に、母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなうと仮定した。これが原トラウマ[Urtrauma]である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



ーーフロイトはここで原固着と原トラウマを等置している。トラウマは固着なのである。


フロイトにおけるトラウマの定義はまず自己身体の出来事だが、この身体の出来事は固着するゆえ反復強迫する。そもそも反復強迫がなければトラウマとは言わない。その意味でのトラウマ=固着である。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

このトラウマの作用は、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約される。この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


ラカンの享楽とはこの身体の出来事である。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme…elle est l'objet d'une fixation.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する。L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021


すなわち享楽は事実上、トラウマへの欲動の固着と等価なのである。


享楽が固着であり、トラウマであることは、ジャック=アラン・ミレールの次の文に現されている。


分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕

分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE2011)




なお、最晩年のラカンは享楽は去勢であり、この去勢が唯一の真理だと言った。


享楽は去勢である[la jouissance est la castration.] (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration]  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)


もっともフロイトラカンの思考において去勢は何種類もある。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire] (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)


ここでジャック=アラン・ミレールが原去勢と言っている去勢が、生物学的な母からの分離である。


発達段階の流れに置いて、あらゆる危険状況と不安条件は後のすべてと結びついており共通点をもっている。wir haben vorhin die Entwicklungslinie verfolgt, welche diese erste Gefahrsituation und Angstbedingung mit allen späteren verbindet, 〔・・・〕


すなわち母からの分離である。最初は生物学的な母からの分離、次に直接的な対象喪失、後には間接的な形での分離である。eine Trennung von der Mutter bedeuten, zuerst nur in biologischer Hinsicht, dann im Sinn eines direkten Objektverlustes und später eines durch indirekte Wege vermittelten. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


この生物学的な母からの分離が、子宮の喪失である。


(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性[Hilflosigkeit und Abhängigkeit]である。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben] をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


フロイトラカンにおいて「喪失トラウマ去勢」とは等置しうる概念なのである。ラカンはこれを斜線を引かれて享楽として示した。


われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


斜線を引かれた享楽とは斜線を引かれた愛(エロス)のことに他ならない。去勢という愛の喪失のトラウマである。