2022年11月7日月曜日

フロイトによるコミュニズム、あるいはマルクス批判(吟味)

 

私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない[Ich habe nichts mit der wirtschaftlichen Kritik des kommunistischen Systems zu tun,]…しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もない錯覚[Illusion]であることを見抜くことはできる。


私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲[Aggressionslust] からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。

攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき[zärtlichen und Liebesbeziehungen] の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。


物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係[sexuellen Beziehungen] の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit] にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 [Ungerechtigkeiten] を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)


社会の中に集合精神[esprit de corps]その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬[ursprünglichen Neid]から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義[Soziale Gerechtigkeit]の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求[Gleichheitsforderung ]こそ社会的良心[sozialen Gewissens]と義務感 [Pflichtgefühls ]の根源である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)



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マルクス主義のすぐれたところは、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、人間の経済的諸関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、切れ味鋭く立証したところにある。これによって、それまではほとんど完璧に見誤られていた一連の因果関係と依存関係が暴き出されることになった。

Die Stärke des Marxismus liegt offenbar nicht in seiner Auffassung der Geschichte und der darauf gegründeten Vorhersage der Zukunft, sondern in dem scharfsinnigen Nachweis des zwingenden Einflusses, den die ökonomischen Verhältnisse der Menschen auf ihre intellektuellen, ethischen und künstlerischen Einstellungen haben. Eine Reihe von Zusammenhängen und Abhängigkeiten wurden damit aufgedeckt, die bis dahin fast völlig verkannt worden waren.

しかしながら、 経済的動機が社会における人間の行動を決定する唯一のものだとまで極論されると、われわれとしては、受け入れることができなくなる。Aber man kann nicht annehmen, daß die ökonomischen Motive die einzigen sind, die das Verhalten der Menschen in der Gesellschaft bestimmen. 〔・・・〕


そもそも理解できないのは、生きて動く人間の反応が問題になる場合に、どうして心理的ファクターを無視してよいわけがあろうかという点である。Man versteht überhaupt nicht, wie man psychologische Faktoren übergehen kann, wo es sich um die Reaktionen lebender Menschenwesen handelt(フロイト「続精神分析入門」第35講、1933年)