2022年11月8日火曜日

中井久夫による神谷美恵子(未定稿)

 



美恵子さんはウルフと通じる面があると自ら感じておられたかもしれない。彼女の写真のたいていは微笑しているがそのすべてが自然だとは思わない(『神谷美恵子の世界』、みすず書房、の表紙写真には疲労とやるせなさを感じてしまう)けれども、固いフローズン・ウォッチフルネスはみられない。むしろ、宮沢賢治のような「世界の人が皆幸せにならなければ自分は幸せになってはいけない」という感覚ではないか。この感じ方は外傷過敏性とどこかで結びついているのだろうか。あるいは、生存者罪悪感に通じる何かであろうか。


彼女は最晩年に一人称の病跡学を志す。彼女はウルフの自叙伝を書こうとした。その中には近親姦もきちんと取り上げてあるが、神谷さんの筆にかかると、すべてはどうしようもなく明るくなってしまう。おそらく、実際のウルフよりも、ほんとうはウルフが描きたかった世界に近いのではないだろうか。


この未完成の作品の中には神谷さんのもっとも美しい文章がある。ふくらみのある静かな語りである。ウルフの英文はもっと乾いたものと感じられる。この作品の中で最晩年の美恵子さんは抑制を去って、その言葉の力を自由に流出させているように思われる。未完成であるこの作品には、三人称の病跡学がどうしても漂わせてしまうネクロフィリア(屍体愛好)の臭気が全く感じられない。これだけは神谷さんのために強調しておきたい。彼女が最後に捨て身の技に出た理由の一つには、通常の病跡学のスタイルの持つ臭気にいたたまれなかったことがあると思う。

若き日の彼女は米国にあって後の歴史家モートン・ブラウンとほかならぬわが鶴見俊輔の二人に「聖女」の印象を与えている。二人ともその印象をずっと後に語っているからかりそめならぬ印象だったのだろう。しかし、ハンセン氏病の療養所に赴くには「聖女」だけでは足りない。あるいは聖女々々していては患者が困るかもしれない。あまりに神々しい医師には下世話な相談はできないのである。神秘体験もあった彼女が聖女でないとはいわない。病気に興味を持って医師になる者が多い中で「病人が読んでいる!」と端的な呼び声を聴いた人である。


しかし「きかん気の美恵子さん」も彼女の中には住んでいたように思う。恐ろしいほどの回転の早い頭脳で何事にも対した人であろう。つねに節度と抑制を忘れなかったにしても、多くのことに確固たる自分の意見を持っていた人である。

それだけでなく、気を許した間柄ではけっこうおしゃべりでじゃなかったかとも想像してしまう。ぽかっと抜けたところもあったのではないかと憶測する。多くの写真が伝える童女の如き笑いもみのがせない。(中井久夫「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」2005年『樹をみつめて』所収、2006年)





トラウマ患者に対する治療者には、よい聞き役が必須である。米国では治療者は孤立したら治療を中止せよとさえいわれ、二人一組のbuddy systemが作られる。バディとは何を語っても許される仲である。バディではないが、彼女はつねによい聞き役に恵まれていた。中でも辛口でありながらやさしい西丸四方先生が彼女のコンフィダント(秘密の語り相手)を終生つとめてくれた。トラウマの治療者はしばしばトラウマ体験の持ち主である。秘められたトラウマをさぐるのは「天使も踏むをためらうところ」だと私は思う。

ここでも私は筆を控える。ただ、本巻の「忘れえぬ人」の筆頭に挙げられるX子さんの自死は、それ一つでも精神科医にはきつい外傷体験のはずである。まして美恵子さんの渡米の可能性を聞いて生命を経っているのである。おそらく、このことを書くまでに膨大な時間が流れたであろう。


レナード・ウルフとの対話で患者の自殺に触れている時にも、このことを思い浮かべたであろう。精神科医の心の中にはいくつかの墓がある。彼女はこの体験を秘めて精神科医となっていったはずだ。Wounded surgeon piles the steelー「傷を負った外科医がメスを振るう」(T.S.Eliot、The Four Quartets、注釈によれば外科医とはキリストのことだそうである)。


X子さんには彼女に大切なことを教えた人にちがいない。大切なことを精神科医に与えすぎた患者はふしぎに自らの命を絶つ。欧米の著名な精神医学者にも、わが国でも、その例は多い。粛然とする事実である。


神谷さんが体験から何を教わったにせよ、それは形なきものであろう。神谷さんがまずX子さんのコンパニオン(広義の家庭教師+同伴者)を経て精神科医になったのは、初めから「せんせい」として登場するよりもずっとよい出発であった。この、白衣に護られていない対等の関係は、まず自らの精神科医適性を知り、精神科医としての節度と限界をわきまえさせてくれる。その他、得ることの多い、欠かせない体験でさえあると私は思う。


彼女がウィリアム・ジェームズ(一八四二-一九一〇)から入ったことも好ましい。彼女の精神医学の特徴の一つである。ジェームズの心理学は自己の体験から出発している。精神的危機をも経験し、神秘体験もあったジェームズの精神医学は「私はこういう連中とは違うぞ」という精神医学でなく「ひょっとしたら私もなったかもしれない」という精神医学である。そこから「私の代わりになって下さったのかもしれない」まではほんの一歩である。


ジェームズの異常心理学には、精神病理学書にしばしば漂う屍体愛的(ネクロフィリア)な臭いがない。神谷さんも当時の精神病理学の古典に読みふけっているにもかかわらず、この臭気に全くといってよいほど無縁である。


『生きがいについて』は彼女の自叙伝かもしれないとは、私の内心の囁きである。「生きがい」とは運命へのある態度だからである。それは、運命を否認するのではなく、運命とむやみに闘うのでもなく、それから逃走するのでもなく、自暴自棄と破滅を求めるのでもない。たしかに彼女はそうであった。(中井久夫「神谷美恵子さんの人と読書を巡って」『樹をみつめて』所収2006年)




「生きがいのある人は生きがいなどということについては考えない。何らかの”生きがい喪失”にある人こそ、生きがいについて考えるものらしい」と彼女はいう。

『生きがいについて』はハンセン氏病患者の”生きがい喪失”と七、八年直面した結果であることをぜひ理解してもらいたいと彼女は願う。しかし、その根源を探ると、その前の結核療養体験があって、その時のマルクス・アウレリウス体験がある。そのことを改めて語るのがこの小品(「生きがいの基礎」神谷美恵子)の核心である。


「君に残された時は短い。山奥にいるように生きよ。至るところで宇宙都市の一員のごとく生きるならば、ここにいようとかしこにいようと何のちがいもないのだ」(マルクス・アウレリウス)。


二十一歳から二十三歳の「花の年齢」を彼女は独り軽井沢の山小屋で夏も冬も日課を守り、読書をして過ごす。当時の結核は死病であり、差別される病であった。それはすでに親しい人を奪っていた。


当時の結核療法はただ三つ、「大気、安静、栄養」であった。何の薬もなかった。彼女は修道院生活に近いものを自らに課する。それを支えたのは読書であり、なかんずく聖書とともにマルクス・アウレリウスの『自省録』であった。彼女がこれをギリシャ語で読むのも自己規律の一部であったろう。ストイシズムはこの時代の結核療法の現実に向かいあった方法であったが、彼女にとってそれ以上のものであった。


ストイシズムを敢えて要約すれば、世界の基本的条件を与えられたものとして受けとり、しかし遁世するのではなく、理性による自己規律にもとづく人間としての義務を果たすことによって、逆説的に世界を支配することができるということであろうか。これは何よりもまず実践倫理である。ストイシズムが奴隷エピクテトスと皇帝マルクス・アウレリウスという両極端によって代表されるのも偶然ではなかろう。奴隷も皇帝も本人の意思を超えた運命である。

T・S・エリオットがセネカについて論じた一文において、ストイシズムは、ローマ帝国時代のようにそれを動かすことが不可能である場合の哲学であるといっている(「セネカーエリザベス朝時代の翻訳による」)。動かしがたい基本的条件は結核だけではなかったであろう。療養期間の一九三五年から三七年は、満州事変の後を受けて二・二六事件、上海事変を挟んで中国との本格的な戦争が始まった時期である。「大廈の倒れんとする時一木の支えんとすることあたわず」の思いが心ある人にはあった時期である。

敗戦後まもない途方もない窮乏の中で家庭を持った彼女は寸暇を割いて『自省録』の翻訳に挑む。これを「恩がえし」と彼女はいうが、アウレリウスを再び身近なものに感じさせる基本的条件があった。この訳文には彼女のいくつかの翻訳の中でも特別な何かがある。意外なほど原文に忠実でありながら、風が呼吸しつつ野原の草をわけてわたってゆく柔らかさである。この優しさは、結婚から育児の時期の心境を映してのことでもあるだろう。ギリシャ語である原文が自家薬篭中のものとなって久しく、ほとんど自ずと訳文が湧いていったかもしれない。


『自省録』は彼女の生涯の通底低音となったにちがいない。晩年の「「存在」の重み」においても、自分にとって精神医学は何であったかの述懐があるなか、特に「人間をその内側から理解すること・・・」以下に私は『自省録』の余韻を感じてしまう。

この小品が一九七九年の春に書かれてその年の秋に彼女は逝く。その予感のように、「生きがいの基礎」はアウレリウスの「まもなく君は眼を閉じるだろう。そして君を墓へ運んだ者のために、やがて他の者が挽歌を歌うことであろう」で終わる。(「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」『樹をみつめて』所収2006年)




アイデンティティの追求は、より高次元である生き甲斐追求に向かう。そうであるならば「生き甲斐」とはこの追求過程の導きの糸である。「生き甲斐」の言葉は故・神谷美恵子さんの著作と固く結びついているが、彼女は帰国子女の先駆者である。その生き甲斐論はアイデンティティ模索の果てに生まれたのかもしれない。もっとも、「生き甲斐」は「甘え」と同じく日本生まれの概念である。そのような概念の常として「脳よりも心に訴える」情緒に濡れており、通俗となり浅薄となる弱みがある。「生き甲斐」には「よい子」「優等生」という感触がつきまとう。


会社員の就職試験の場でも上司と酒場で飲むときにも「アイデンティティ」の出番はないが「生き甲斐」は大いに語られるだろう。しかし今、市場原理主義がむいだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。八〇年代から弱々しい「自分さがし」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追及の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。


先の見えない移行期に私たちはいる。セーフティーネットのない殺風景な世界が実現すれば、「生き甲斐」はもちろん「アイデンティティ」の追及も一種の贅沢になるだろう。冒頭に述べたように現にそういう社会はある。その行き着く果ては「人間であること」が贅沢とされる世界である。「アイデンティティ」や「生き甲斐」はもう古いなどと軽々しくいうべきでないと私は思う。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2006年)




精神医学界の習慣からすれば「神谷美恵子先生」と書くべきである。しかし違和感がそれを妨げる。おそらくその感覚の強さの分だけこの方はふつうの精神科医ではないのだろう。さりとて「小林秀雄」「加藤周一」というようにはーーこれは「呼び捨て」ではなく「言い切り」という形の敬称であるがーー「神谷美恵子」でもない。私の中では「神谷(美恵子)さん」がもっともおさまりがよい。


ついに未見の方であり、数えてみれば二十年近い先輩である方をこう呼ぶのははなはだ礼を失しているだろう。


しかし、言い切りにできないのは、未見の方でありながら、どこかに近しさの感覚を起させるものがあるからだと思う。「先生」という言い方をわざとらしくよそよそしく思わせるのも、このぬくもりのようなもののためだろう。そして、精神医学界の先輩という目でみられないのも、結局、その教養と見識によって広い意味での同時代人と感じさせるものがあるからだろう。それらはふつうの精神科医のものではない。


神谷さんを一般の精神科医と区別するものは単にものものしさがないとか教養と見識の卓越とかだけではない。二十五歳の日に「病人が呼んでいる!」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている。このただごとでない召命感というべきものをバネとして医者になった人は、他にいるとしても例外中の例外である。


わが国だけではない。ジーゲリストの『大医伝』をみても、クルト・コレの『大神経医伝』三巻をみても、そこに出てくる多数の医師たちにこのような召命感はない。


いかに献身的な医師も、どこかに「いつわりのへりくだり」がある。ある高みから患者のところまでおりて行ってやっているという感覚である。シュヴァイツァーさえもおそらくそれをまぬかれていない。むしろ、神谷さんに近いのはらい者をみとろうとした人々、すなわち西欧の中世において看護というものを創始した女性たちである。その中には端的に「病人が呼んでいる」声を聞いた人がいるかも知れない。神谷さんもハンセン氏病を選んだ。神谷さんの医師になる動機はむしろ看護に近いと思う。この方の存在が広く人の心を打つ鍵の一つはそこにある。医学は特殊技能であるが、看護、看病、「みとり」は人間の普遍的体験に属する。一般に弱い者、悩める者を介護し相談し支持する体験は人間の非常に深いところに根ざしている。誤って井戸に落ちる小児をみればわれわれの心の中に咄嗟に動くものがある。孟子はこれを惻隠の情と呼んで非常に根源的なものとしているが、「病者の呼び声」とは、おそらくこれにつながるものだ。しかし多くの者にあっては、この咄嗟に動くものは、一瞬のひるみの下に萎える。明確に持続的にこれを聞くものは例外者である。医師がそおうであっていけない理由はないが、しかし多くの医師はそうではない。〔・・・〕


ある精神科医は彼女をまばゆい人であるという。彼女の品性と才能をみればたしかにそうであろう。別の精神科医によればたまらなくさびしそうに見えた人だとういうが、これもほんとうであろう。精神医学者、精神科医の中では心ゆくまで話せる友が果してあっただろうか(彼女にもっとも近い精神科医は誰だろうと考えてみると、アメリカのクララ・トムソン女史が私の年頭に浮ぶけれども、彼女にはハリー・スタック・サリヴァンをはじめ、少人数ながら強固な精神科医の友人グループがあった。彼らもおそらく病気に呼ばれてでなく病人に呼ばれて精神科医となった人たちであった)。


それは精神医学界の指導者たちが彼女の才能を愛でたのとは別の話である。あえていうなら彼女には精神医学の世界に関する限り、出会ってよいものに出会っていないという意味で不遇の影がないでもないと私は感じる。生ま身の交際でなくともである。たとえば、刊行されている翻訳はいずれも彼女が著者にかなりのめり込んでいて、決して才能まかせのものではないと私は思うけれども、最後まで彼女が失望しなかった対象はマルクス・アウレリウスとジルボーグでなかったかと憶測する。フーコーあるいは構造主義への傾斜は私から見れば自己否定の方向のものであって、しかもフーコーは、神谷さんがあれだけ真剣にとりくむほどの相手でなかったように思えて惜しい。フーコーが神谷さんの訳された著作についての彼女の問いに「若気のいたり」と軽く受け流したことは、いつも真剣で全力投球をする彼女にとっては意外中の意外だったのではあるまいか。


ウルフについても私には神谷さんに近い人のように実は思えない。軽々には言えないけれども、かなり強く、そう感じる。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについてー「病人の呼び声」から「一人称の病跡学」まで」1983年『記憶の肖像』所収)


頼まれれば人に尽くさずにおれない人であったと聞く。そのような献身がなければ彼女の著作集は数倍になったであろうが、彼女はそうすることを選ばなかった。Sacrificium intellectusー知性を犠牲として神にささげることーは神のもっとも嘉したまうところと聞いたことがある。彼女がそれを神にささげたか否かは別として、なされたものはまじり気のないSacrificium intellectusに近いと私は思う。そして、二十歳あまりの少女がマルクス・アウレリウスに出あうのはまことに稀有なことであって彼女の中には早くからストア的な諦念があったと思う。神谷さんの訃を知って私には二つの感情が起こった。一つは「時間よ、止まれ。お前は美しい」と言いうる生涯だったということであるが、もう一つは、ふつうの意味では決してそう言える年齢ではないのに「夭折した人を惜しむ気持」にきわめて近いものであった。この矛盾した感情は、神谷さんを知る人にはあるいは理解していただけるのではあるまいか。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについてー「病人の呼び声」から「一人称の病跡学」まで」1983年『記憶の肖像』所収)




「病人によばれて医師となったひと」「ハンセン氏病療養所で働いた精神科医」「生きがいを敢えて説いたひと」「戦時中の東大精神科をたった三人で守ったひと(他の二人は内村祐之、林宗義)」「戦後の文部科学省と米国占領当局との交渉を通訳として一身に担ったひと」「マルクス・アウレリウスをギリシャ語から訳したひと」「ふだんフランス語で考えていたひと」「日記作家として貴重だ」ー、精神科の業界でささやかれる断片的な貼り紙を拾ってみればこういうところであろう。


また、かつては「初等教育から外国で受けた才女」であったのが今は「帰国子女の先駆」とされる神谷美恵子評の変化は世界と日本の変化ゆえである。戦前は生涯に一度外国の土を踏むことが非常な特権であった。まして教育などはである。


しかし、私の頭の中の「神谷美恵子」はこういう属性すべてを脱ぎ捨て払いのけてすくっと立つ存在である。それどころか、フレンド協会の瞑想所でいっしょであり、後に歴史の教授となったアメリカ人モートン・ブラウンは「美恵子さんは行為そのものであった」とほとんど聖女をまのあたりにするような追想をものしている。人格による感銘を米国人に与えた戦前の日本人はわずかに細菌学者、歴史学者それぞれ一人、聖者という印象を与えた人は他にその例を知らない。


こういう印象は、神谷美恵子の際立った「一回性」から来ると私は思う。なるほど、どの生涯も哲学的には一回的であろうけれども、圧倒的大多数は自らの一回性を解消するために多大の努力を払い、ほどほどに成功した場合に「社会性を獲得した」とされる。神谷美恵子はその努力を強いられないほど稀有な才能と地位に恵まれ、同時に社会加入の努力が不可能な刻印を人生の出発点において与えられたひとである。彼女はめざとい子として家族の中で安全感を持てなかったということがこれに加わるだろう。


彼女の一回性は歴史的一回性でもある。実際、彼女の希有性には、もし10年早く生まれても10年後でも彼女は彼女ではありえなかったということがあろう。彼女は戦前日本の歴史と階級の中で、薄皮一枚のような境界に生まれたひとである(さらに、戦後が訪れなければ彼女の運命はすっかり違っていただろう)。彼女の境界性は多重の上にも多重である。


神谷美恵子が精神病の恐怖を秘めていたとしても当然であり、実際、多くの精神病患者が挫折したところで辛くも成功したということさえできる。それは両側が断崖である痩せ尾根を走りとおすことである。神谷美恵子が生前すでに「何ともかがやかしかった」とも「とてもさびしく見えた」とも評され、本書の読後にも「不幸な人ではなかったか」という感想を聞いたのはこのきわどさゆえであろう。

ポーはその不幸な障害のどん底から「この世で到達可能な幸福」の四条件として「困難であるが不可能ではない努力目標」「野心の徹底的軽蔑」「愛するに足る人の愛」「野外での自由な身体運動」の四つを挙げている。彼女をこれらの点についてみるならばポーよりもはるかに幸福であろう。第一についてはいうまでもなかろう。第二に、もし世俗的権力欲にいささかでも誘われたならばすべては空しかったであろう。彼女が進んで辺縁に身を置き、もっとも疎外された人々とともにあろうとし、もっとも些細な仕事をも喜んで引き受けたのは図らずも自身の精神健康への大きな貢献であった。第三に「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことである」と御子息の独りが口走ったように、彼女の家族であることも希有な難行である。彼女を聖女から分かつものは結婚し出産してなお彼女でありつづけたことである。彼女の夫君であることに成功しつつ、自身すぐれた生物学者である夫君の存在も「才能は単独ではありえない」とする定理の例証であろう。親友に恵まれ、西丸四方氏のような辛口の精神科医を「コンフィダント」(打ち明け話の相手)としえたことも、幸福と両立しがたい人生経路において不幸とはいえない生涯に貢献しているだろう。われわれは、この伝記から、さらに神谷美恵子の著作から精神健康について多くの教訓を得ることができる(中井久夫「書評『神谷美恵子』江尻美穂子」1996年『時のしずく』所収)