2022年11月19日土曜日

モノなる喪われた母[Mère perdue]S(Ⱥ)

 


欲望と享楽(欲動)の相違は、1964年のラカンが「フロイトの欲動について」と題された論考で示した次の文でまずはいい。


欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年)


ここでの大他者は、言語のことである、ーー《大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.]》(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


つまり欲望は言語から来る。そして言語は象徴界である。


他方、享楽はモノの側にあるというときのモノは何か。ここはかなり複雑である。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


母なるモノとあるが、これは単純に母のイメージとして捉えてはならない。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


つまり、快原理の彼岸、象徴界の彼岸にある喪われた母[Mère perdue]、これが母なるモノだ。


ラカンはこのモノを現実界のトラウマとしている。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


トラウマと喪失はフロイトラカンにおいて同じ意味であり、母なるモノはフロイトの次の表現と厳密に等価である。


母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

母の喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ラカンが《モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,]》 (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)と言っているのは、このトラウマ的母の喪失を意味している。つまり母の身体の喪失である。


この文脈のなかで、ーーこれもひどく混乱を招きやすいところだがーーラカンは言語の大他者とは異なる身体の大他者を示している。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](Lacan, S14, 10 Mai 1967 )


この身体の大他者は、原大他者の身体のことだ。

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)


コレット・ソレールが母は身体の大他者、原享楽の大他者と言っているのはこの意味である。


母なる対象はいくつかの顔がある。まずは「要求の大他者」である。だがまた「身体の大他者」、「原享楽の大他者」である[L'objet maternel a plusieurs faces : c'est l'Autre de la demande, mais c'est aussi l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.](Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)


ジャック=アラン・ミレールがラカンの大他者の両義性を語っているのはこの

文脈のなかにある。

我々は信じていた、大他者はパロールの大他者、欲望の大他者だと。だがラカンはこの大他者をお釈迦にした[On a pu croire que l'Autre, c'était l'Autre de la parole, l'Autre du désir et Lacan a construit son grave sur cet Autre]〔・・・〕


はっきりしているのは、我々が「大他者は身体だ」と認めるとき、まったく異なった枠組みで仕事せねばならないことだ。この身体としての大他者は欲望の審級にはない。享楽自体の審級にある[Évidement, on opère dans un tout autre cadre quand on admet que l'Autre, c'est le corps, qui n'est pas ordonné au désir mais qu'il est ordonné à sa propre jouissance. ](J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un - 25/05/2011)


仏ラカン派の二大代表者が2010年代になってようやくこう言っているということは、ラカン派内でもほんのひと握りの者を除いて長いあいだ曖昧なままだったということである。



…………………


ところで、ミレールは異なる時期において次の図を示している。




上部は大他者Aもしくは父P(父の名)であり、先ほど示したように言語である。


底部は、母なるモノ、斜線を引かれた母(母の喪失)、斜線を引かれた享楽(享楽の喪失)であり、この三つは等価である。


これ以外にも次のように言っている。

ラカンがモノとしての享楽において認知した価値は、穴Ⱥと等価である。

Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre. […] La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré[Ⱥ]. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


さらには、母なるモノはリアルな対象aである(剰余享楽の対象aとは異なるので注意)。

セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる[dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a.] ( J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un - 06/04/2011)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )



母なるモノはまだ他にも種々の表現の仕方があるがーー例えば喪失とはトラウマであると同時に去勢である(乳幼児期、自己身体と見なしていた母の身体の喪失)ーー、ここでは上のミレールが示しているマテーム群のみを示せばこうなる。





とはいえ、である。実は厳密にはこのマテームではないのである。


Ⱥ の価値を、ラカンはS(Ⱥ) というシニフィアンと等価とした[la valeur de poser l'Autre barré[Ⱥ]…que Lacan rend équivalent à un signifiant,  S(Ⱥ)  ]  (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas 18 décembre 1996)


なぜ、ȺとS(Ⱥ) は等価なのか。これはフロイトの表象代理(欲動の表象代理 [Vorstellungs-repräsentanz des Triebes])あるいは原抑圧としての固着[Fixerung]概念に関わるのだが[参照]、それについてはここでは割愛し、ラカンからのみ引こう。


シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ? (ラカン、S20, December 19, 1972)


これはS(Ⱥ)は穴Ⱥの原因だということを言っている。《身体は穴[(le) corps…C'est un trou]》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)であり、つまりは喪われた身体である。


そしてS(Ⱥ)は固着を表し、この記号はシニフィアンと穴、つまり身体の両方を表す。


以下の二文は同じ意味である。


S(Ⱥ) はシニフィアンプラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006)

固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)



穴は原抑圧、つまり固着によるトラウマであり、実際はこの固着が享楽なのである。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden  »Verdrängung«. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)



そして固着とは、事実上、母への固着[Fixierung an die Mutter]である[参照]。以上に示してきた内容はかなり難解でこれだけではわかりにくいだろうが、今は先ほど示した図に固着 S(Ⱥ)を付け加えておくのみにする。





これが示しているのは、モノは厳密には穴ȺではなくS(Ⱥ) [Chose ≡ S(Ⱥ)だということである。

そしてこのモノは現実界の症状サントームでもある。



サントームは現実界・無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient ]  (Lacan, S23, 17 Février 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


つまり現実界、あるいは現実界の症状サントームは、モノの名(喪われた母の名)である。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)


そしてS(Ⱥ) =サントーム=固着である。

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要



こうしてChose ≡ S(Ⱥ)であることが当面確認できた筈である。ラカンの発言を追うと、モノはときにȺ、ときにS(Ⱥ)とすることができるが、厳密にはS(Ⱥ)が正しいとするのが、2000年代に入ってからのジャック=アラン・ミレールの捉え方である。