2024年8月26日月曜日

笑いヴァリエーション(未定稿)

 

笑いが人間特有であることは、千数百年前にギリシァの哲学者アリストテレスが指摘していたと思う。以来、笑いは医学よりも哲学、心理学で論じられてきた。


笑いの「原因」あるいは「機構」についてはいろいろな説があるが、唱える人の人生観を反映して笑いの別々の面を強調している感がある。笑いに共通なことは、曲げてあった竹を解放した時のはね返りのような急激な心身緊張の低下である。横紋筋緊張の低下は顕著で自覚されることが多い。極端な場合はナルコレプシーで、笑いとともに一瞬にして姿勢崩壊となる。平滑筋の緊張も低下する。


乳幼児の微笑は、母親のはぐくみ行動を誘発する外的刺激によらない内発微笑であり、母子のほほえみ合いは子どもの成長にも、母となった女性の成熟にも、不可欠な因子である。


優越、勝利の際の高笑いは目的達成による心理的緊張の低下と同時に起こるが、急激な成功による心理的危機を防ぐ精神保護作用の一部かもしれない。実際、成功は失敗にも増して精神健康悪化の契機になる。


絶望の際にも激しい笑いが発生する。やけくそ笑いといわれる。この場合も筋緊張の急激な低下が特徴である(笑いを伴わない筋肉緊張低下もある。ガックリと肩を落とすという事態である)。同じく、不意打ちの事態にも笑いが起こる。これらは限度以上の筋緊張を防ぐ機構かも知れないし、次に起こすであろう反撃に備えていったん筋肉の緊張を下げておいて有効な打撃力を発生させる機構かも知れない。


人の失敗、失策を見る際の笑いは、予想に反する相手の矮小さの認知によって、それまでの緊張した構えが解ける過程の一部であろう。この場合の笑いは、余裕感を伴う。この笑いの味は人間に好まれ、お金を払って落語や漫才を聴くのは、この種の笑いを求めてである。


英国人のいうユーモアは危機に際して自分の矮小さを客観視して笑い、緊張の低下、余裕感の獲得、視点の変換による新たな対処の道を探る方法ということである。


その他、対人関係の道具と化した笑いが数多くある。初対面や久しぶりの面会の際の笑いは、互いに筋緊張などしていなくて攻撃の意思がないこと、「われわれは友人だ」ということを伝達する道具である。政治家が政敵と肩を組み合って笑うのには、さらに余裕の誇示も加わる。


はっきりと攻撃の道具である「あざ笑い」は.「おまえは矮小である」と決めつけることで、反撃を誘発するか、相手が無力を自覚して深く傷つくかである。ジョークをいい合ってよい関係(ジョーキング・パートナー)を制度化しているブッシュマン社会は、一人に「イジメ」が集中する社会より上等である。〔・・・〕


一般に、笑いは一過性の現象である。対人的道具と化した笑いは、絶えず再入力して維持されているのである。したがって、防衛的な笑いを長く続けているとかえってストレスが蓄積される。

(中井久夫「笑いの機構と心身への効果」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)



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たぶん私が一番よく知っている、なぜ人間だけが笑うのかを。人間のみがひどく傷ついているので、笑いを発明しなければならなかったのである[Vielleicht weiß ich am besten, warum der Mensch allein lacht: er allein leidet so tief, daß er das Lachen erfinden mußte.](ニーチェ遺稿ーー『力への意志』Der Wille zur Macht I - Kapitel 10-91)

「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である[»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.](ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)


われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりすることによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない! われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子[die Schelmenkappe]ほど、われわれに役立つものはない。

Wir müssen zeitweilig von uns ausruhen, dadurch, dass wir auf uns hin und hinab sehen und, aus einer künstlerischen Ferne her, über uns lachen oder über uns weinen; wir müssen den Helden und ebenso den Narren entdecken, der in unsrer Leidenschaft der Erkenntniss steckt, wir müssen unsrer Thorheit ab und zu froh werden, um unsrer Weisheit froh bleiben zu können! Und gerade weil wir im letzten Grunde schwere und ernsthafte Menschen und mehr Gewichte als Menschen sind, so thut uns Nichts so gut als die Schelmenkappe:

(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年)



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何にも増して私が遠ざけるべきものは、精神をさしおいて唇が選ぶあの言葉、会話で人がよく口にするようなユーモアたっぷりな言葉、他人との長い会話のあとで、人が自分自身に向かってわざとらしく発しつづける言葉、そしてわれわれの精神をうそで満たすあの言葉の数々である。〔・・・〕一方、真の書物は、白昼と雑談との子ではなくて、晦冥と沈黙との子でなくてはならない。そして、芸術は人生を正確に再構成するものであるから、人が自分自身の内部に到達してとらえた真実のまわりには、つねに、詩の雰囲気が、ひそやかな神秘が、ただようだろう。それこそは、われわれが通ってこなくてはならなかった薄明のなごりにほかならず、深度計ではかったように正確に記録された標示、ある作品の深さの標示にほかならぬであろう。

Plus que tout j'écarterais donc ces paroles que les lèvres plutôt que l'esprit choisissent, ces paroles pleines d'humour, comme on dit dans la conversation, et qu'après une longue conversation avec les autres on continue à s'adresser facticement et qui nous remplissent l'esprit de mensonges, …tandis que les vrais livres doivent être les enfants non du grand jour et de la causerie mais de l'obscurité et du silence. Et comme l'art recompose exactement la vie, autour des vérités qu'on a atteintes en soi-même flottera toujours une atmosphère de poésie, la douceur d'un mystère qui n'est que le vestige de la pénombre que nous avons dû traverser, l'indication, marquée exactement comme par un altimètre, de la profondeur d'une œuvre. 

(プルースト「見いだされた時」井上究一郎訳)


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笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴であると同時に無限な悲惨のであって、人間が頭で知っている〈絶対的存在者〉との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。 滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの自我の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話が別だが。

(「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」阿部良雄訳、「ボードレール全集」)


その語を使わなかったとしても、ここで、ボードレールが敬意をもって、例外として挙げているのは、ヒューモアである。それは、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。ヒューモアを受けとる者は、自分自身において、そのような「力」を見いだす。だが、それは必ずしも万人に可能なことではない。


ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが「審判」を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ」)。 子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。(柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」初出1992年『ヒューモアとしての唯物論』所収)