2024年8月11日日曜日

拘束と固着[Bindung und Fixierung]


ドイツ語の"bindung"は、結びつき、拘束、束縛等と訳される語である。手元のフロイト旧邦訳では文脈によって「結びつき」と訳されたり「拘束」と訳されたり、「愛着」とさえ訳されている場合もある。ここでは統一して「拘束」と訳すことにする。


対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ](フロイト「欲動とその運命』1915年)


すなわち、拘束は固着である。それは次の文にも現れる。

少女のエディプスコンプレクスは、前エディプス的母拘束[präödipale Mutterbindung] の洞察を覆い隠してきた。しかし、この母拘束はこよなく重要であり永続的な固着[Fixierungen]を置き残す。Der Ödipuskomplex des Mädchens hat uns lange den Einblick in dessen präödipale Mutterbindung verhüllt, die doch so wichtig ist und so nachhaltige Fixierungen hinterläßt. (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


したがって次の二文は事実上、同じことを言っている。

我々に内在する破壊欲動の一部は、超自我へのエロス的拘束を形成するために使用される

[ein Stück des in ihm vorhandenen Triebes zur inneren Destruktion zu einer erotischen Bindung an das Über-Ich verwendet.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


まず最初の文の、超自我へのエロス的拘束[erotischen Bindung an das Über-Ich]は「超自我へのエロス的固着」 erotischen Fixierung an das Über-Ichである。フロイトにおいて母が原超自我であり、したがって次の「母へのエロス的固着」 erotischen Fixierung an die Mutterと等価である。


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)




ところで2番目の文は超自我の設置に伴う攻撃欲動[Aggressionstriebes]の固着となっている。攻撃欲動とエロスを等置するのは一般には奇妙かもしれない。


だがフロイトにおいてエロス=リビドー=欲動である。

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


さらにリアルな欲動は「自己破壊欲動=マゾヒズム的欲動」である。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


つまり母へのエロス的固着[erotischen Fixierung an die Mutter] =超自我へのエロス的固着[erotischen Fixierung an das Über-Ich]とは事実上、母なる超自我へのマゾヒズム的固着[masochistische Fixierung an das Über-Ich der Mutter]を意味するのである。


この自己破壊欲動としてのマゾヒズムがフロイトの死の欲動の意味である。

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



…………………


ラカンは次のように言っている。

超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme](Lacan, S10, l6  janvier  1963)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である。La pulsion de mort c'est le Réel […] la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


ーーこの三文から、超自我は死の欲動の原因[le surmoi est la cause de la pulsion de mort]となる。


さらに現実界は母なるモノである。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


したがって母なる超自我は死の欲動の原因[le surmoi maternel est la cause de la pulsion de mort]となる。

母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)


この母が享楽つまりマゾヒズムを幼児に与えるのである。

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (Lacan, S17, 11 Février 1970)


確認しておけば、フロイトにおいても母は原超自我である。

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。


フロイト・ラカンにおいてエディプス的超自我は父なる超自我だが、それ以前に前エディプス的超自我があり、これが母なる超自我である➡︎「エディプス的超自我[Ödipales Über-Ich]と前エディプス的超自我[Präödipales Über-Ich]」


…………


※附記


結局、超自我は拘束(結びつき)つまり固着に関わる。

強い父拘束[starker Vaterbindung」をいだいている女性は周知のように非常に多い。彼女たちはだからといって神経症的であるとはかぎらない。私はここに報告するような女性についていくつかの観察をしたことがあるが、彼女たちは私が女性の性愛についていくらかでも理解をもつようにしてくれたのである。二つの事実がとくにそこでは私の目についた。第一は、強い父拘束[intensive Vaterbindung] が存在する場合には、精神分析学の証明するところでは、それ以前に、もっぱら母拘束[Mutterbindung]がこれと同じ強さ、同じ情熱性をともなって存在していた時期があった、という事実である。


Frauen mit starker Vaterbindung sind bekanntlich sehr häufig; sie brauchen auch keineswegs neurotisch zu sein. An solchen Frauen habe ich die Beobachtungen gemacht, über die ich hier berichte und die mich zu einer gewissen Auffassung der weiblichen Sexualität veranlaßt haben. Zwei Tatsachen sind mir da vor allem aufgefallen. Die erste war: wo eine besonders intensive Vaterbindung bestand, da hatte es nach dem Zeugnis der Analyse vorher eine Phase von ausschließlicher Mutterbindung gegeben von gleicher Intensität und Leidenschaftlichkeit. フロイト『女性の性愛』第1章、1931年)


父拘束[Vaterbindung]が父への固着、母拘束[Mutterbindung]が母への固着である。

強い父への固着をもった少女の夢[Traum eines Mädchens mit starker Vaterfixierung](フロイト『夢解釈の理論と実践についての見解』1923年)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)



そしてフロイトにおいて固着はマゾヒズムに関わる。

幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)

幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)

初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen].(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)


先に示したように「リビドー=エロス(愛)=欲動」であり、愛の固着がマゾヒズム的固着つまり死の欲動に関わるのは、一見奇妙かもしれないが、フロイトの記述を拾っていくとそうならざるを得ないのである。➡︎「愛の欲動は死の欲動[Liebestriebe ist Todestriebe]」