2025年4月17日木曜日

岩井克人「基軸通貨ドルと国際秩序」


 以下、岩井克人の「基軸通貨ドルと国際秩序」全文。各段落の小題以外の黒字強調は引用者による。さらに「自己循環論法」と「シニョリッジ(シニョレッジ)」にリンクを施したが、リンク先には岩井克人自身の過去の論文での詳述があるので参照されたし。


◼️岩井克人「基軸通貨ドルと国際秩序」2025年3月31日 PDF

今年一月に第二期政権を発足させたトランプ大統領は、バイデン前政権を全否定するかのように、矢継ぎ早に独自の政策を繰り出している。 ウクライナでの停戦を急ぎ、国際保健機関(WHO) から離脱するなど国際協力に背を向け、国際開発庁(USAID)の解体に見られるように、既存の権力機構の解体を図っている。同盟国・競争国の区別なく追加関税を賦課する政策は、対象国のみならず世界の経済秩序にも深刻な影響を与えることになるだろう。


いったいアメリカは、どこに向かおうとしているのか。歴史的な文脈を踏まえ、私なりの見方を示したい。

基軸国家と覇権国家


トランプ大統領の型破りな言動を見ていると、彼自身に体系的な政策があるのか、権力欲や名誉欲に動かされて行動しているのか、わからなくなる (おそらく後者だろう)。しかしトランプ氏の周辺には、トランプ政権を通じて大きな変革を起こしたいと考える人たちがいることは間違いない。例えば、二〇二四年の大統領選に向けて保守系のヘリテージ財団が主導した「プロジェクト2025」の政策文書を読むと、そこには「内なる敵」の打倒を意図した、抜本的な政府再編への野望が見て取れる。


国際関係においても、アメリカ第一主義的な思考が見て取れる。それは端的に言えば、第二次大戦中から始まった国際金融システム(ブレトンウッズ体制)や戦後の自由貿易体制(GATT/WTO)、さらには北大西洋条約機構(NATO)などの多国間安全保障体制、国連や国際機関などの「清算」であり、自国中心の「重商主義」的政策への転換といえよう。その根底には、第二次大戦後、これらのシステムを維持するために、アメリカは「覇権国」として多くの国際公共財を提供してきたが、それはアメリカの国力を消耗させてきた、だからわれわれは「覇権国」たる立場を放棄し、自国の利益を追求する、といった認識がある。


だが、私はこの認識は誤謬だと考えている。 第二次大戦後から現在に至るまでのアメリカの優位性を、私は「覇権国」ではなく「基軸国」という言葉で位置付けたい。 基軸国とは、ハブ・アンド・スポークスの「ハブ」の役割を果たす国ーーネットワークの中心に位置し、多国間の関係をすべて自分を「媒介」として間接的に結び合わせていく存在である。この構造は貿易や金融、同盟・安全保障だけでなく、文化や言語にも広がっている。ドルは基軸通貨であり、米軍は基軸軍であり、英語は基軸言語である。


例えば、ドルは基軸通貨だが、それは世界中の国々がアメリカと取引するためにドルを大量に保有するという意味ではない。それは日本と韓国との貿易、ドイツとチリの貸借がドルで決済される、つまりアメリカの通貨ドルが、 アメリカ以外の国同士の取引に通貨として用いられるということである。英語も同様であり、日本人と韓国人、ドイツ人とチリ人が英語で対話をする。 アメリカが基軸国とは、アメリカが不在でも、アメリカの通貨や言語、軍事力、外交力、文化力が世界中で使われることなのである。 それはアメリカが直接的に他国を支配する「覇権」構造とは異なる。


もちろんアメリカが基軸国となったのは、第二次大戦直後に圧倒的な国力を持っていたからである。当時のアメリカの国内総生産(GDP)は世界の五割、輸出額は三割を超えており、ドルは世界中に流通していった。しかしその割合はいまや、GDPで二割、輸出は一割にまで低下している。それでもドルは唯一の基軸通貨である。


では、なぜ世界中の人々がドルを使うのか。それは世界中の人がドルを使うからである。ドルが基軸通貨なのは、ドルが基軸通貨だから――すなわち、基軸通貨はこのような「自己循環論法」に支えられているのである。


「基軸」を見誤ったニクソン・ショック


自国通貨と基軸通貨というドルの二重性は、アメリカに相反する政策を求めることになる。言うまでもなく各国の中央銀行は、自国の景気に応じて通貨の発行量を増減させる。しかしアメリカの連邦準備制度理事会(FRB)は、国内だけでなく世界の経済情勢を踏まえて判断する必要がある点で、他国とは事情が異なる。 アメリカ国内の景気は過熱気味だが、世界的には不況が続いている状況を想定しよう。国内をみれば抑制的な通貨供給が求められるが、世界の景気のためには拡張的な通貨供給が要請され、そのバランスをとる必要がある。 基軸通貨の供給者であるFRBは、国内の中央銀行であると同時に、世界の中央銀行としての役割を果たす義務も負うのである。


言うまでもなく、 アメリカは基軸通貨のドルを持つことで多大な恩恵を受けている。FRBが発行するドルの七割近くは海外で流通するので、その額だけ外国製品を無料で輸入できることになる。 これが基軸通貨発行者のシニョリッジ(通貨発行益) である。 また、金融取引を為替リスクのないドル建てで行えるメリットは大きく、それゆえアメリカは国際金融の中心として多大な利益を得ている。


一方で、国際経済の安定のために自国の経済政策に一定の枠をはめねばならない状況は、そこだけを切り取れば、「世界のためにアメリカが犠牲になっている」というナラティブを生みやすい。例えば、基軸通貨であるドル需要の増加に応じてその供給量を増やせば、国際収支は必然的に赤字化する。しかし国内ではそれを過剰なドル高と捉え、国内産業の空洞化を起こしているとの短絡的な思考を生みやすい。事実、トランプ政権の掲げるアメリカ第一主義は、まさにそう思考している。だがそれは誤謬である。


もっとも、基軸通貨という仕組みを理解せずに、自国通貨としてドルを位置付け直そうとする試みは、トランプ政権が初めてではない。むしろアメリカ経済の相対的な地盤沈下とともに、そのような思考は底流としてあり続けている。その最初の表出が一九七一年のニクソン・ショックである。これはドルを基軸通貨から離脱させようとした最初の試みといってよい。


ニクソン大統領のブレーン(経済顧問)としてこの政策を主導したのは、自由放任主義経済学の泰斗ミルトン・フリードマンであった。彼は、ドルが基軸通貨であるのは金(きん)と連結しているからであり、ドルを金から切り離し、為替レートを外国為替市場に委ねれば、ドルは各国との国際収支を均衡するように調整され、ドル高の常態化を回避できると考えた。それによって、ベトナム戦争で病弊したアメリカ経済を立て直そうとしたのである。


しかし金・ドルの兌換を停止し、変動相場制に移行しても、フリードマンの期待に反して、ドルは貿易や外貨準備に使われ続け、基軸通貨としての地位に変化はなかった。国際収支の赤字傾向も続いた。ただし、結果的にはアメリカの国益には幸いであった。 自己循環論法の産物である基軸通貨の強靭性といえよう。


トランプ政権は、 ニクソン政権の失敗をより大規模な形で繰り返そうとしている。 フリードマンは自由主義経済の信奉者であり、市場に任せる政策提言を行ったが、トランプ政権は、関税の一方的な引き上げや海外からの投資規制など介入主義的な手段を厭わないので、ドルの基軸通貨からの離脱が成功する可能性ははるかに高い。仮にそうなれば、アメリカは基軸通貨国であることの巨大な恩恵を失い、本当の衰退が始まるだろう不幸にも世界経済は大恐慌に陥るだろう。事実、一九三〇年代の世界大恐慌は、基軸通貨がポンドからドルに移る空白期に起きたのである。


人民元は基軸通貨になれるか


二〇〇八年のリーマン・ショックを機に、世界経済における中国の存在感は大いに高まった。 それに伴い、将来は人民元が基軸通貨の地位に就くのか、という質問をよく受ける。私の答えは完全に否定的である。


第一に、そのような質問をする人は、基軸通貨と「強い通貨」とを混同している。 人民元は、円やユーロと同様、経済力を反映して、その国との貿易や資本取引に用いられる強い通貨であるが、基軸通貨ではない。また、基軸通貨は「みんなが使うから、みんなも使う」という自己循環論法的な存在であるゆえに、いったん基軸通貨になると、実体経済の強さとは独立して流通し続ける傾向をもつ。 イギリスの国力は一九世紀後半にはアメリカに逆転されていたのに、ポンドは第一次大戦まで基軸通貨であり続けた。


第二に、基軸通貨であるためには、自由な金融市場を持つ必要がある。いつでも資金を出し入れできるから、外国にいてもその国の通貨を安心して使える。だが中国の金融市場は規制だらけで、中国人民銀行の背後には共産党が存在する。その意向ひとつで政策や規制が大きく変わるような通貨を、中国以外の国との取引で使いたいだろうか。


「取引」外交の危険性


これまで基軸通貨を軸に、アメリカが世界経済に占める地位を論じてきた。ドルを中心とした自由な貿易金融体制、それを包含するリベラルな国際秩序は、アメリカという基軸国の存在なしには成立しえないシステムであった。 一九世紀におけるイギリスも同様の役割を担っていた。だが、トランプ政権は基軸国の地位を降りようとしている。


このことは、トランプ大統領が外交や同盟関係や経済交渉を「取引」と捉えていることとも結び付く。 トランプ大統領は「トランザクショナルだ」と評されるが、その根底には、アメリカが基軸国の地位から降りれば、他国と二国間交渉を自由に行うことができる。 二国間交渉ではアメリカは極めて強い存在であり、相手国にさまざまな圧力をかけて有利に交渉を進められる。 基軸国として世界全体のための国際公共財を供給する役割を放棄し、その多大なリソースを自国に傾注すれば、アメリカは復活するーーそういった発想がある。 しかし、繰り返し述べてきたように、そこには誤りがある。自国のみならず世界全体の利益を考慮するという「犠牲」を伴ったとしても、 これまでのアメリカの繁栄は基軸国家としての地位に支えられてきた。 かつて超大国だったから基軸国になったのは確かだが、現在では基軸国であることによって超大国としての地位を維持している側面がはるかに大きい。重商主義的政策への移行は、その恩恵を捨て去ることを意味する。しかも各国との一対一の交渉は、関税戦争や核拡散などを引き起こすリスクをはらみ、トランプ氏の好きな「ウィン・ウィン」ではなく、双方が損をする (Lose-Lose) 関係に終わる可能性が高いのである。


経済における圧力外交の矛先は、まずはカナダやメキシコに向かったが、今後対象は拡大されるだろう。また、ゼレンスキー大統領との会談で示されたように、 ウクライナに対して軍事支援の停止をちらつかせて停戦を強要し、鉱物利権も獲得するという姿勢は、同盟国・友好国に衝撃を与えた。アメリカのロシアへの接近は、中口関係にくさびを打つ意図があるとの見方はあるが、少なくとも台湾にとっては、トランプは中国との取引が有利ならば、台湾を見捨てる可能性があると見えたはずだ。 実際、会談の直後、台湾積体電路製造 (TSMC)がアリゾナ州に一〇〇〇億ドルの追加投資を行うと発表したが、それはトランプが台湾を見捨てることがないようヘッジしたものだ。


このようなトランプ大統領のスタイルは、国際秩序の問題としても深刻も影響が出よう。 これまで自由貿易・国際金融体制のなかで積み重ねられてきたルールや規範を無視し、国力の差をテコに圧力をかけて相手に譲歩を迫る外交姿勢は、中国のそれと何ら変わらない。日本を含む多くのミドルパワー、新興国、途上国にとって、ルール不在で経済的威圧が横行する経済環境が発展の妨げになることは言うまでもない。またグローバル・サウスに対しては、自由民主主義よりも強権主義的な政治体制の魅力を広めてしまうことにもなるだろう。


そのような潮流を押し戻すために、日本は最大限の努力をすべきである。


戦後の日本の発展が、 議会政治、法の支配、表現の自由などを基盤とした 「近代的な自由民主主義」の原理によって支えられてきたことは言うまでもない。 そして、 まさに世界の「極東」に位置する日本が、これらの価値を維持し続けることは、近代原理が「西洋」に依拠した価値ではなく、「非西洋」でも通用する普遍性を持つことを意味している。第二次大戦という挫折の経験を含め、さまざまな工夫を重ねながら普遍的価値を定着させてきた日本の歩みは、グローバル・サウスの時代と言われる今こそ、 また、アメリカやヨーロッパが分断に苦しむ今こそ、重要な意味を持つだろう。


不透明な時代における価値の再生


トランプ政権発足当初、 ウォール街では株価上昇への期待が大いに高まったが、その陶酔感はすでに消えてしまった。関税はインフレを高進させるとともに国内に不況をもたらすことになる。 朝令暮改的な政策は、リスクを嫌う企業の設備投資への意欲を妨げる。このままでは、中部や南部の白人労働者という、トランプの「岩盤支持層」が最も割を食うような事態になりかねない。トランプ周辺は「短期的には厳しい面もあると」と予防線を張るが、いつまで支持者の信頼を維持できるか、不透明である。


日本にとっては試練の時代である。いずれ日本にもさまざまな圧力がかかるだろう。 安全保障という「人質」を取られている日本にとって、トランプ政権から要求に対し、カナダのように拒絶することは難しい。だが「トランプ後」も見据えつつ、長期的戦略を考えておくべきだろう。そのためには、これまで自明とされた「自由な民主主義」という近代社会の基本原理を基礎とし、それらがもたらす機能不全に目を向けながら、 その再生と定着に向けて努力を重ねていくしかない。