2020年11月4日水曜日

フロイトの愛の定義

  いままで断片的には何度も引用してきたが、フロイトの「リビドー=愛の定義」がもっともわかりやすく書かれている箇所をここでは通して引用しておこう。


リビドー[Libido]は情動理論 [Affektivitätslehre]から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。


Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann. 


われわれが愛と名づけるものの核心となっているのは、ふつう恋愛とよばれるもの、詩人が歌い上げるもの、つまり性的融合[geschlechtlichen Vereinigung]目標とする性愛であることは当然である。しかしわれわれは、ふだん愛の名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛[Selbstliebe]、他方では両親や子供の愛情、友情、普遍的な人類愛[Menschenliebe]を切り捨てはしないし、また具体的な対象や抽象的な理念への献身をも切り離しはしない。


Den Kern des von uns Liebe Geheißenen bildet natürlich, was man gemeinhin Liebe nennt und was die Dichter besingen, die Geschlechtsliebe mit dem Ziel der geschlechtlichen Vereinigung. Aber wir trennen davon nicht ab, was auch sonst an dem Namen Liebe Anteil hat, einerseits die Selbstliebe, anderseits die Eltern- und Kindesliebe, die Freundschaft und die allgemeine Menschenliebe, auch nicht die Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen. 


我々の根拠は、精神分析の研究が教えてくれた事実にもとづいている。すなわち、これらのすべての努力は、おなじ欲動興奮(欲動蠢動Triebregungen)の表現である。つまり両性を性的融合[geschlechtlichen Vereinigung]へと駆りたてたり、他の場合には、もちろんこの性的目的から外れているか、あるいはこの目的の達成を保留してはいるが、いつでもその本来の本質をたもっていて、おなじものであることを明らかに示している(自己犠牲や接近しようとする努力がそうである)。

Unsere Rechtfertigung liegt darin, daß die psychoanalytische Untersuchung uns gelehrt hat, alle diese Strebungen seien der Ausdruck der nämlichen Triebregungen, die zwischen den Geschlechtern zur geschlechtlichen Vereinigung hindrängen, in anderen Verhältnissen zwar von diesem sexuellen Ziel abgedrängt oder in der Erreichung desselben aufgehalten werden, dabei aber doch immer genug von ihrem ursprünglichen Wesen bewahren, um ihre Identität kenntlich zu erhalten (Selbstaufopferung, Streben nach Annäherung). 

したがって、「愛」という語をさまざまな意味につかう言葉遣いは、まことに適切なまとめかたをしたものと思う。そして、われわれも、おなじことを科学的な説明や叙述の基礎にする以上のことはできないと思う。精神分析は、この決断をしたかどで、あたかも放埒な革新をくわだてた責めを負っているかのように、憤激の旋風をまき起こしたのであった。

Wir meinen also, daß die Sprache mit dem Wort »Liebe« in seinen vielfältigen Anwendungen eine durchaus berechtigte Zusammenfassung geschaffen hat und daß wir nichts Besseres tun können, als dieselbe auch unseren wissenschaftlichen Erörterungen und Darstellungen zugrunde zu legen. Durch diesen Entschluß hat die Psychoanalyse einen Sturm von Entrüstung entfesselt, als ob sie sich einer frevelhaften Neuerung schuldig gemacht hätte. 

けれども精神分析は、このように愛を「拡張して」解釈したからといって、なんら独創的なことをしたわけではない。哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。このことはナッハマンゾーンやプフィスターが、こまかく述べている。また、使徒パウロがコリント人への有名な書簡の中で、愛をなにものよりも高く称讃したとき、たしかに、おなじ「拡張された」意味で愛を考えていたのである。このようにしてわれわれは、世人が偉大な思想家たちに驚嘆するとロではいうものの、かならずしも真面目に受けとってはいないことを知るばかりである。

Und doch hat die Psychoanalyse mit dieser »erweiterten« Auffassung der Liebe nichts Originelles geschaffen. Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse, wie Nachmansohn und Pfister im einzelnen dargelegt haben, und wenn der Apostel Paulus in dem berühmten Brief an die Korinther die Liebe über alles andere preist, hat er sie gewiß im nämlichen »erweiterten« Sinn verstanden,6) woraus nur zu lernen ist, daß die Menschen ihre großen Denker nicht immer ernst nehmen, auch wenn sie sie angeblich sehr bewundern. 

さて、この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性的欲動[Sexualtriebe]と名づける。大多数の「教養ある人[Gebildeten]」は、この名づけ方を侮辱と感じ、精神分析に「汎性欲説[Pansexualismus])という非難をなげつけて復讐した。

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. Die Mehrzahl der »Gebildeten« hat diese Namengebung als Beleidigung empfunden und sich für sie gerächt, indem sie der Psychoanalyse den Vorwurf des »Pansexualismus« entgegenschleuderte. 


性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、もっと上品なエロス とかエロティックという言葉をつかっても一向さしつかえない。私も最初からそうすることもできたろうし、それによって多くの反対をまぬかれたことであろう。し、かし私はそうしたくなかった。というのは、私は弱気に堕ちたくなかったからである。そんな尻込みの道をたどっていれば、どこへ行きつくかわかったものではない。最初は言葉で屈服し、次にはだんだん事実でも屈服するのだ。私には性を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語[griechische Wort Eros]は、罵言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の愛[deutschen Wortes Liebe]の翻訳にほかならない。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。

Wer die Sexualität für etwas die menschliche Natur Beschämendes und Erniedrigendes hält, dem steht es ja frei, sich der vornehmeren Ausdrücke Eros und Erotik zu bedienen. Ich hätte es auch selbst von Anfang an so tun können und hätte mir dadurch viel Widerspruch erspart. Aber ich mochte es nicht, denn ich vermeide gern Konzessionen an die Schwachmütigkeit. Man kann nicht wissen, wohin man auf diesem Wege gerät; man gibt zuerst in Worten nach und dann allmählich auch in der Sache. Ich kann nicht finden, daß irgendein Verdienst daran ist, sich der Sexualität zu schämen; das griechische Wort Eros, das den Schimpf lindern soll, ist doch schließlich nichts anderes als die Übersetzung unseres deutschen Wortes Liebe, und endlich, wer warten kann, braucht keine Konzessionen zu machen.

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)



※なお先の1921年の段階では、フロイトはエス概念がないが、エス概念を初めて提出した論で「エスのリビドー」という表現を使っている、《エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert (フロイト『自我とエス』4章、1923年)


さて以上を読めば、フロイトは次の表現群を基本的に同一のものとしていることがわかるだろう。






そしてラカンは次のように言った。


すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

(表面に現れているものではなく)別の言説が光を照射する。すなわちフロイトの言説において、死は愛である 。Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

究極的には死とリビドーは繋がっている。これがラカンのラメラ神話の真の意味である。すなわち、リビドーは死を引き起こす存在である。 finalement la mort et la libido ont partie liée. C'est le vrai sens de son mythe de la lamelle, c'est dire la libido est un être mortifère. (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)



なぜすべての欲動が死の欲動であるのかは、「悦への意志 Wille zur Lust と死への意志 Wille zur Tode」にて、ニーチェの考え方も含めて示した。


以上より、最も簡潔に言えば、愛の欲動 Liebestriebe は死の欲動 Todestriebe である。





この認識はーーニーチェの言葉を借りれば「教養俗物 Bildungsphilister」以外はーー、コモンセンスにすべきではなかろうか?




この表に「力への意志」も付け加えようかとの誘惑に駆られたが、私の影が「やめとけ!」と命令するので、何とか押しとどめた。ーー《おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来らざるをえない者の影として歩まねばならぬ。Oh Zarathustra, du sollst gehen als ein Schatten dessen, was kommen muss: so wirst du befehlen und befehlend vorangehen.` -  》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)



すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)




………


なおフロイトのリビドーは、厳密には次の3区分があり、ラカン表現では下段のようになることを示しておこう。



ーーもちろん究極の底部には《死の彼岸にある永遠の悦 ewige Lust über Tod》がある・・・などとはけっして言ってはならぬと私の影は言う。ーー《わたしは一つの影の訪れをうけた。ーーあらゆるもののなかで最も静かな、最も軽やかなものが、かってわたしを訪れたのだ。超人の美しさが、影としてわたしを訪れたのだ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「至福の島々で Auf den glückseligen Inseln 」1884年)



話を戻せば、上の区分の内実は、1914年のナルシシズム論に既に現れている。



※参照:「原ナルシシズムの原像


最晩年のラカンの表現なら、上部二つが「愛の妄想」であり、底部が先ほど示した「愛の欲動=死の欲動」である。




フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)



もっとも、「妄想」という語を悪い意味に捉えるのではなく、リアルな身体の審級にあるトラウマ的な「死の欲動」に対する防衛、つまり死に駆り立てられる衝迫からの回復の試みとするのが妥当な観点だろう。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)



これなら「教養のある」みなさんにも多少は受け入れやすい見解ではなかろうか。とはいえ教養俗物や教養人とは賎民のことではなかろうかーー《生は悦の泉である。が、どんな泉も、賎民が来て口をつけると、毒にけがされてしまう。Das Leben ist ein Born der Lust; aber wo das Gesindel mit trinkt, da sind alle Brunnen vergiftet. 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「賎民 Vom Gesindel」1884 年)。



我々の言説はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel である。(J.A. Miller,  Clinique ironique, 1993)

明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)



なお上のミレール文に現れるラカンの「言説 discours」とは、冒頭に引用したフロイト文の直後に出現する「愛の結びつき Liebesbeziehungen」のことである。


われわれは愛の結びつき Liebesbeziehungen(あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき)が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。Wir werden es also mit der Voraussetzung versuchen, daß Liebesbeziehungen (indifferent ausgedrückt: Gefühlsbindungen) auch das Wesen der Massenseele ausmachen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) 

ラカン以後、われわれが「言説=社会的結びつき lien social」と呼ぶものは、フロイトが『集団心理学と自我の分析』にて教示した「愛の結びつき Liebesbeziehungen」のことである。(Jacques-Alain Miller , A New Kind of Love)


ーー集団とは、多人数だけではなく、カップル自体、集団の始まりである。



以下、確認の意味で、「穴=トラウマ=死の欲動」であることを示しておく。ーー《リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, […] ne peut être que participant du trou.》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。〔・・・〕この意味はすべての人にとって穴があるということである。Tout le monde est fou […]au-delà de la clinique, ça dit que tout le monde est traumatisé […] Et ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. (J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )

ラカンの現実界は常にトラウマ的である。現実界は穴である。Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)