2021年3月28日日曜日

去勢と「超自我=原抑圧=固着=排除」


超自我は事実上、原抑圧と等価である。

ジャック=アラン・ミレールはラカンから引き継いだ最初期のセミネールで既にこう断言している。


超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。. Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕


あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.    . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


以下この「断言」を確認しよう。


原抑圧とは何よりもまず固着である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


「原抑圧された欲動」とあるが、この原抑圧の別名は排除である。


排除された欲動 verworfenen Trieb(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)


ラカンからも排除をめぐる発言をひとつ引いておこう。


私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (Lacan, S16, 14 Mai 1969)


ーー《抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation》 (Lacan, S1, 07 Avril 1954)


したがって超自我=原抑圧=固着=排除である。これらの用語は、身体的なものの一部が心的なものに翻訳されずエスのなかに居残って反復強迫を引き起こすという含意があり、去勢にかかわる。


原抑圧は常に去勢に関わる。だが抑圧の様式とは別の様式に従った去勢であり、つまり排除である。refoulement originaire[…]ce qui concerne toujours la castration. mais selon un autre mode que celui du refoulement, à savoir la forclusion. (JACQUES-ALAIN MILLER , CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)


去勢にかかわるとは、享楽にかかわるということである。


享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


たとえばラカンは享楽と超自我と去勢の相関関係を明示している。


超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である,「享楽せよ!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,〔・・・〕「享楽せよ!」と命令する超自我は、去勢と相関関係がある。それは、大他者の享楽、他者の身体の享楽の徴だ。le surmoi, … du « jouis ! »,  corrélat de la castration qui est le signe …que la jouissance de l'Autre, du corps de l'autre,   (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 )


ーー享楽とは何よりもまず去勢された身体を取り戻す運動である(参照)。


フロイトは超自我と固着(原抑圧)の相関関係を明示している。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


ここでの自己破壊とは死の欲動である。


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


去勢された身体を取り戻す欲動は、究極的には母胎を取り戻す「不可能な」運動であり、事実上、母なる大地への帰還であり死に至る。ーー《死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である。La pulsion de mort c'est le Réel […] la mort, dont c'est  le fondement de Réel 》(Lacan, S23, 16 Mars 1976)


そしてこの死の欲動が享楽の意志である。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。


Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)


固着の話に戻ろう。ラカンは母の乳房への固着を語っている。


母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)



これは、より一般化して言えば、母への固着である。


女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


残滓とは身体的なものがエスに居残るということである。


翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧 」呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896)

抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。


Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


この固着も去勢にかかわる。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)



去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽の控除 (- J) を表すフロイト用語である。le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J) (J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)



以上、超自我=原抑圧=固着=排除であり、これらはすべて去勢にかかわることが確認できたはずである。ーー《要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration》  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)


たとえばジャック=アラン・ミレールが分析経験の基盤は固着だというとき、この固着は去勢である。


私は、分析経験の基盤はフロイトが固着と呼んだものだと考えている。je le suppose, …est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ただし去勢には種々ある。固着というときの去勢は基本的に現実界的去勢である。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire] (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)



原去勢とは上に示したフロイト曰くの出生に伴う去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であり、臨床では扱うのが困難である。



オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。


後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。〔・・・〕


だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)






2021年3月24日水曜日

自ら享楽する身体=自体性愛的身体=性関係はない


◼️自ら享楽する身体=自体性愛的身体=性関係はない

身体の実体は、《自ら享楽する身体》として定義される。Substance du corps, …qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ».  (Lacan, S20, 19 Décembre 1972)


「自ら享楽する身体」とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011)

ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。

le corps que Lacan introduit est[…] un corps qui se jouit, c'est-à-dire un corps auto-érotique, un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, pas plus qu'on n'a chance de faire exister le rapport sexuel. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)





◼️フロイトにおける自体性愛

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人物に向けられたものではなく、自己身体から満足を得ることである。それは自体性愛的である。Autoerotismus. …als den auffälligsten Charakter dieser Sexualbetätigung hervor, daß der Trieb nicht auf andere Personen gerichtet ist; er befriedigt sich am eigenen Körper, er ist autoerotisch(フロイト『性理論三篇』第2篇、1905年)


自体性愛的欲動は原初的である。Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的である。Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch(フロイト『欲動とその運命』1915年)


◼️自己身体の究極の意味=去勢された母の身体

疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)





◼️享楽=去勢

享楽は去勢である la jouissance est la castration(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance  (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)


享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. (J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、(本来の)享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。


Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

※より詳しくは「去勢された自己身体ーー自体性愛文献」を参照



◼️フロイトにおける欲動の主要な定義

欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である。der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

エスの要求に引き起こされた緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)





フロイトラカン用語の基本版

 フロイトとラカンの最も基本的な部分の用語的関係は、ジャック=アラン・ミレールの次の二文でまずはいい。



斜線を引かれた享楽の上の大他者[grand A sur grand J barré. ]。


これが父の名の効果である。父の名の真の本質は言語である。すなわち言語の構造自体が享楽を投げ捨てる効果をもつ。[c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père, que la vraie identité du Nom-du-père, c'est le langage, que la structure de langage elle-même a un effet anéantissant sur la jouissance. ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme,    14/1/98)





フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄(取り消し)である。


Chez Freud, et c'est ce que j'avais traduit, en son temps, par le mathème suivant : grand A refoulant, annulant la jouissance. 


フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである。


Ce schéma, en termes freudiens, grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a, 〔・・・〕


フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する。

ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime : 


すなわち、症状は自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である。

le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle. 〔・・・〕


これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと相同的である。そして症状の形態における「享楽の回帰」と相同的である。そしてこの固執する残滓が、ラカンの対象aである。

C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. Et c'est ce reste persistant à quoi Lacan a donné la lettre petit a. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)




要するにこうだ。




ここでの享楽は穴もしくは去勢と示される「斜線を引かれた享楽」。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽の控除 (- J) を表すフロイト用語である。le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J) (J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)




ミレール1997は《残滓がラカンの対象a》と言っているが、この対象aの別名は、異者(異者としての身体[Fremdkörper])。


享楽は、残滓 (а)  による。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)



核心はフロイトの次の文。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



というわけで次の結論になる。


現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



もう少し補足すれば、ミレール曰くの「欲動の抑圧=享楽の抑圧」における抑圧とは原抑圧=固着のこと。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


そしてこの異者が、リビドー固着の残滓のこと。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)



というわけで、固着が核心。


私は、分析経験の基盤はフロイトが固着と呼んだものだと考えている。je le suppose, …est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)




2021年3月22日月曜日

穴の享楽[la jouissance du trou]=モノの享楽[ la jouissance de la Chose]



 

ラカンはこのボロメオの環の [JΦ] と [JA] についてこう言っている。


ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [JΦ] est hors corps,  la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique,  (ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974)


ここでの大他者は身体のことである。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967)

大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)


つまりは大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]= 身体の享楽[la jouissance du corps]である。これがリアルな享楽だ。


ところでラカンはこうも言っている。


身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


とすれば、身体の享楽[la jouissance du corps]=穴の享楽[la jouissance du trou]となる。


実際、サントームのセミネールで、ラカンは[JA]を[JȺ]と書き換えている。





斜線を引かれた大他者とは、もちろん穴のことだ。


穴の最も深淵な価値は、斜線を引かれた大他者である。le trou,[…] c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. (J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


以上、リアルな享楽とは、穴の享楽[la jouissance du trou]である。


ところで穴とは具体的には何であろうか。ーートラウマである。


現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

享楽自体、穴をを為すものものである [la jouissance même qui fait trou](J.-A. Miller, Religion, Psychoanalysis, 2003)


要するに穴の享楽とはトラウマの享楽である。


さらに確認しておこう。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている Nous avons affaire à une jouissance traumatisée(J.~A. Miller, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)


リアルな享楽とはもちろんフロイトの欲動のことである。


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


この欲動が穴に関係するのである。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


原抑圧による穴である。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


原抑圧とは事実上、固着のことである。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年)

原抑圧と同時に固着が行われる。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben;(フロイト『抑圧』1915年)


この固着が身体に穴を掘る。


ラカンが導入した身体は、フロイトが固着と呼んだものによって徴付けられた身体である。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。le corps que Lacan introduit est[…] un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds.(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


というわけでこういう話になる。


私は、分析経験の基盤はフロイトが固着と呼んだものだと考えている。je le suppose, …est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



ところでフロイトにとって究極の固着は何か?


出産外傷 Das Trauma der Geburt、つまり出生という行為は、一般に「母への原固着」[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなう。これが「原トラウマ Urtrauma」である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)


したがって究極の穴の享楽とは、母胎を取り戻そうとする欲動である。



以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



要するに大他者の享楽=身体の享楽の「身体」とは、究極的には出生とともに喪われた「母の身体」である。



それは、たとえばラカンが次の二文で言っていることである。


反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD].   〔・・・〕


フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD.


享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]


(享楽の対象としての)モノ はモノは漠然としたものではない。それは、快原理の彼岸の水準にあり、…喪われた対象[objet perdu ]である。


La chose n'est pas ambiguë, c'est au niveau de  l'Au-delà du principe du plaisir… cet objet perdu  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)



モノとあった、ーー《フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel 》(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


モノは母である。das Ding, qui est la mère (Lacan,  S7 16 Décembre 1959)

「母はモノである」とは、母はモノのトポロジー的場に来るということである。これは、最終的にメラニー・クラインが、神秘的な母の身体[le corps mythique de la mère]をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme  - 28/1/98)


モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。〔・・・〕ラカンがモノとしての享楽において認知した価値は、斜線を引かれた大他者(穴)と等価である。


Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre. […] La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


したがって穴の享楽とはモノの享楽[ la jouissance de la Chose]とも言い換えうる。


……………


より一般的に「穴の享楽=トラウマの享楽」のトラウマとは、身体の出来事である。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。ラカンはこの身体の出来事を女性の享楽と同一のものとした。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation. […] Lacan… a pu dégager comme telle la jouissance féminine, (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


したがって究極の穴の享楽が母胎回帰であるとしても、それ以外に別の身体の出来事はあり、別の回帰現象がある。


病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕このトラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷(ナルシシズム的屈辱)である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs (narzißtische Kränkungen)]〔・・・〕


この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)