超自我は事実上、原抑圧と等価である。 |
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ジャック=アラン・ミレールはラカンから引き継いだ最初期のセミネールで既にこう断言している。 |
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超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。. Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕 あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982) |
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以下この「断言」を確認しよう。 原抑圧とは何よりもまず固着である。 |
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抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要) |
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「原抑圧された欲動」とあるが、この原抑圧の別名は排除である。 |
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排除された欲動 verworfenen Trieb(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年) |
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ラカンからも排除をめぐる発言をひとつ引いておこう。 |
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私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (Lacan, S16, 14 Mai 1969) |
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ーー《抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation》 (Lacan, S1, 07 Avril 1954) |
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したがって超自我=原抑圧=固着=排除である。これらの用語は、身体的なものの一部が心的なものに翻訳されずエスのなかに居残って反復強迫を引き起こすという含意があり、去勢にかかわる。 |
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原抑圧は常に去勢に関わる。だが抑圧の様式とは別の様式に従った去勢であり、つまり排除である。refoulement originaire[…]ce qui concerne toujours la castration. mais selon un autre mode que celui du refoulement, à savoir la forclusion. (JACQUES-ALAIN MILLER , CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987) |
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去勢にかかわるとは、享楽にかかわるということである。 |
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享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977) |
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たとえばラカンは享楽と超自我と去勢の相関関係を明示している。 |
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超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である,「享楽せよ!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,〔・・・〕「享楽せよ!」と命令する超自我は、去勢と相関関係がある。それは、大他者の享楽、他者の身体の享楽の徴だ。le surmoi, … du « jouis ! », corrélat de la castration qui est le signe …que la jouissance de l'Autre, du corps de l'autre, (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 ) |
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ーー享楽とは何よりもまず去勢された身体を取り戻す運動である(参照)。 フロイトは超自我と固着(原抑圧)の相関関係を明示している。 |
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超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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ここでの自己破壊とは死の欲動である。 |
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我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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去勢された身体を取り戻す欲動は、究極的には母胎を取り戻す「不可能な」運動であり、事実上、母なる大地への帰還であり死に至る。ーー《死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である。La pulsion de mort c'est le Réel […] la mort, dont c'est le fondement de Réel 》(Lacan, S23, 16 Mars 1976) そしてこの死の欲動が享楽の意志である。 |
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享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。 Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989) |
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死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
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固着の話に戻ろう。ラカンは母の乳房への固着を語っている。 |
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母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956) |
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これは、より一般化して言えば、母への固着である。 |
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女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注) |
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
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残滓とは身体的なものがエスに居残るということである。 |
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翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧 」呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896) |
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抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。 Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年) |
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この固着も去勢にかかわる。 |
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
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以上、超自我=原抑圧=固着=排除であり、これらはすべて去勢にかかわることが確認できたはずである。ーー《要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration》 (Lacan, S24, 15 Mars 1977)
原去勢とは上に示したフロイト曰くの出生に伴う去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であり、臨床では扱うのが困難である。
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