2021年4月2日金曜日

社会悪ーーインテリ業界の「犯罪者たち」

 

ごく最近まで知らなかったのだが、池内恵が2015年、内田樹編の『日本の反知性主義』を強い調子でーー「社会悪」という表現まで使ってーー批判している(そこにリンクされている山形浩生の批評とともに読むことをおすすめする)。


ここではまず池内恵の文を引用する。


予想通りひどい本だった。山形さんがしばし待たせてから、懇切に書いてくれていた。


編者の議論がとにかく変。支離滅裂に「誤読」して俺様が~と吠える人こそが、人文社会学の存在意義を疑わしめる原因となっている。社会悪なので、きちんと指摘しないといけない。


念のため付け加えておけば、内田樹が「フランス思想家」だと思っているまともなフランス思想研究者はいない。出版業者が商売で煽っているのを横目に見ながら、奥ゆかしいから黙っているだけ。そもそも「フランス思想家」って何だ。


なんでまともに議論もできない「大学教授」が量産されたかというと、旧制高校の語学教育を大衆化・薄めて全国の新制大学に適用したので教養課程で仏・独語を教える教員が大量に必要とされた。人口が増え進学率が上がり、次から次へと大学ができた時期があった。女子は女子大や教員養成系の大学・学部に行って文学を専攻することが(花嫁修業の都合や、男女雇用機会均等法以前に女子に可能だった数少ない職業選択という意味で)望ましい、と社会的に要請されたこともあった。それらの学部は仏・独語の先生をかき集めないと認可されない。そのため、文学部を出れば、意味不明の論文を1本書いたか書かないかで、大学講師そして自動昇進で教授になれた。早ければ25歳ぐらいで教養課程や女子大の助教授になって、その後は終身雇用・年功玉突き昇進だったので、それ以上勉強せず、新聞・雑誌などに「大学教授」の肩書で見当違いな説教を書き散らしているというスタイルの生き方が可能だった。それは確かに暇でした。「大学教授は暇だ、俺も出世が頭打ちになったら女子大の先生にでもなって暮らしたいよ」と年配の新聞記者とか外交官とかがよくもらしたものですが、それは一昔前のこのような制度が生み出したもので、まったく間違いということでもなかった。ただしこれは昔のことであり、そろそろ定年でいなくなる旧世代にのみ適用されたものです。雇用機会均等法や教養部解体や少子化によって、その時代は、終わったのです。


日本の出版産業は、こういった文学系教師に国や私大が終身雇用権と給料という補助金を出すことで支えられていた面がある。原稿料だけで生きていけるほど支払わなくていいから、専業作家以外にこういった埋め草原稿を書いてくれる文学系業者を一定数確保しておけば、安く雑誌の紙面を埋め、本を出すことができた。


近年のタクシー運転手が、年金をもらっていて、孫にお土産を買ってあげる程度追加で稼ぎたいお年寄りばかりになるのと同じです。若い人が一本でやろうとするとかなり無理をしなければならないような低賃金になる。


ただし、こういった日本の出版業界の仕組みは、単に安く文学系大学教師をこき使うというだけではなかった。例えば、昔は翻訳の世界文学全集などは売れましたから、外国文学者というのは運が良ければ結構羽振りがよかったんです。はい、私のお小遣いはそこから出ていました。


多くの人が建売住宅を買って本棚に文学全集や百科事典を置きたかったんです。ピアノとかと同じです。しかしある時期から、日本のピアノが下取りに出されてアジアに売りに出されるようになりましたね。なんであの「ピアノ売ってちょうだい~」というコマーシャルがむやみに流れる時期があったのか。そこには構造的な変化、世代的変化があります。なんでまともに議論できない大学教授がいるんだ?という疑問にも、「あいつがバカだからだ」といった答えを出すのではなく、構造的・歴史的な要因を考えてみましょう。それは人文社会系の学問が教えてくれます。学問を教えてくれない先生は捨てましょう。


商業媒体が、教養主義的な一般読者に本を届ける役割を担ってくれることで、研究者側には、研究の成果を世に出す回路が増えるという意味でメリットがあった。

しかし一部のこういう文筆業者が内容面でまでダンピングし、それを各出版社が商売のために盛大に使い、貴重な書店の本棚を占拠するのであれば、もう黙ってはいられない。


今の学問はそんなに甘くありませんので、まともに議論ができず、仮定も推論の方法も分かっていないような人は、人文社会系の学問の世界にはほとんどいません。要するに、素人のツイッター有名人に過ぎないのです。(池内恵、Facebook,

2015 年10月25日



内田樹に対してはこういった批判がかねてからあり、たとえば蓮實重彦が『随想』(2010)のなかで完全に嘲弄している箇所があるが、私が特に印象的だったのは。2013年の「藤田博史による内田樹批判」だ。たとえばこんな風に書かれている。



内田樹が誰かを批判する場合、その手口は一定のパターンがある。それはこんな風だ。原理主義的仮想敵の捏造→原理主義に対する批判→自分は極端に走らないバランスの取れた人間だという自己宣伝、で結ぶ。あらかじめ読者を味方につけるために、意図的に相手の主張を都合よく捏造する。ここに見られるのは「自作自演」という常習的に嘘をつくという病的な傾向をもった人たちがよく使う手法とまったく同じである。(藤田博史、2013年)



この批判とほとんど同じことを山形浩生が「犯罪的」という形容詞を使ってより具体的に書いている。


…「反知性主義者の肖像」へと進むと、冒頭からホフスタッターが引用され、その主張に対する大賛成が表明されている。ふーん。ホフスタッターなんか絶対読んでないだろうと思ったら、ちゃんと読んでいるのか。すると、反知性主義の意味や、それをめぐるホフスタッターのアンビバレントな立場、そして現代における知識人の役割に関する悩みも、基本的には理解されているのかな?


ところが……読み進むとまったくそんな様子はない。反知性主義者とは、とにかく知性をひたすら否定する連中、というきわめて単細胞な理解に基づく文が展開される。そして挙げ句の果てに、こんなくだりに出くわす。


《他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。》(p.20)


あの~~。

それってまさに、ホフスタッターの指摘する反知性主義の立場ですから!〔・・・〕


反知性主義に関する基本的な文献を読んでいながら、そこに書かれていることがまったく理解できていない。あるいは理解できているのに、それを正反対に歪曲して平気。どうよ、これって? ぼくはこの段階で、この文にまったく誠意を認められない。この文の後のほうでは、自分が学生に対して参考文献をきちんとあげろ、それをしないのは犯罪的とすら言える、という指導を実にしっかり行っているのだ、という記述が(あまり脈絡ないと思うんだけど)延々と出てくる。でも、こうした歪曲は、それ以上に犯罪的なものだとぼくは思う。


ちなみに「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる」(強調引用者)と書いているのであって、最終的にそれだけで判断すると言っているんじゃないぞ、だからこれは内田の文の意図を歪曲しているんだ、という主張はできるかもしれない。でも、その後の文章を読んでも、この「さしあたり」の身体反応がいつの時点でどうやって本当の理非の判断に置き換わるのかについての説明は一切ない。続く記述を見ても、この肉体感覚やプリミティブな感情が最優先のままだ。こんな具合。


《反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。(中略)彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。(中略)「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。》(p.21)


さて……通常の知性的なやりとりというのは、それぞれがデータやエビデンスや統計数値を出して自分の主張の裏付けを行い、その主張の正しさを相互に確認し合うことだ、とぼくは思っている。データの見方や解釈はいろいろある。その分析の限界もある。それを踏まえることで、何が妥当と言えるのかを考えるのが知性の働きだとぼくは思う。


だが、内田のこの文は、自分はデータやエビデンスでは納得しない、と明確に述べている。何やら自分たち(知性の側に立つ人々)の気持ちが晴れないとか、解放感を覚えることがない、というのがその根拠だ。ところがこれはむしろ、ホフスタッターが述べた反知性主義者の基本的なスタンスだ。むずかしいことを言われてもよくわからん、煙に巻かれたような気がする、いや自分がバカにされたような気がする、よってオレは納得せん、というわけ。


そしてそのデータやエビデンスに納得できないのであれば、それを持ち帰って検討する、ということもできる。そこで何が言われているのかを勉強することもできるはずだ。ぼくはそれが知性的な態度だと思う。ところが内田のこの文は、とんでもないことを言っている。聞き手がそうしたデータやエビデンスを見ない、理解しないというのは、聞き手の問題でもある。少なくとも、対等に知的な議論をするのであれば。ところが内田のこの文では、聞き手は一切何の努力もしない。オレが納得しなければ、なんとデータやエビデンスを挙げたほうが「もう一度勉強して出直してきます」と努力を強要される……ぼくは、そうやって一方的にふんぞりかえって相手にあれこれ要求するだけの態度を知性的とは思わない。(山形浩生「反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。」2015年)



とはいえこういった批判をしても、「或るポジション」さえ獲得してしまえば、生き残ってしまうというのが、途轍もなく大衆化された現在の日本言論界という場なのであろう。



内田樹@levinassien 2019年9月26日


消費税上げたら消費行動が抑制されて、店が潰れたり廃業したりして、雇用が失われ、貧困者が増えて、さらに消費行動が抑制されて、税収が減少する・・・という予測は誰でもできると思うんだけれど、それができない人たちが財務省で政策起案しているわけですよね。財務官僚って、ものすごく頭が悪いの?  

内田樹@levinassien 2019年9月12日


昨日の『赤旗』のインタビューの最後に「共産党に望むことは?」と訊かれたので「山本太郎を真ん中にして、左右にウィングを拡げて挙国一致で救国戦線を結成してください」とお願いしました。よい流れだと思います。


内田の「愉快な仲間たち」のひとりの発言も掲げておこう。


想田和弘@KazuhiroSoda 2019年09月15日


言いたいのは、僕が山本太郎さんを応援しているのは、彼が政治家として素晴らしいビジョンを示していて、しかもその道筋を提案されているからです。人並外れた努力もされています。リーダーシップもあります。単に「いい人」だから応援しているのではありません


ーーちなみにアタシのタロウちゃん評価は➡︎「タロウちゃんの「充実」」にある。かつての応援団のひとたちも最近はすこしはわかってきたでしょ?


要するにこういった発言を「反知性的に=身体的に」、かつまたもっともらしい言葉で言い放ち、大量のRTやファボ獲得しうるのが、ツイッター社交界の「芸人」ーー中野重治曰くの「芸能人」ーーというものなのだ。


人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)


なお最後に、現在の私は、池内恵も山形浩生も藤田博史もそれに蓮實重彦に対しても常にいくらの疑念を抱き続けている者であることを断っておこう、とくに彼らは「真の経済」にあまりにも弱い(参照)。とはいえ文化と政治の領野ではすぐれた専門性をもっている「知識人」であるだろう。とくに中東分析において池内恵は現代日本において欠かせない存在であるのは間違いない。