2021年4月24日土曜日

人はみなふつうの精神病である

 


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


「人はみな妄想する」とは何よりもまず、人がみなもっている構造的トラウマに対して防衛するということである。


人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)


このトラウマの別名は穴である。


「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はこの意味はすべての人にとって穴があるということである。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010)


ラカンにはtroumatismeという造語がある。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)


この穴=トラウマとはフロイトのトラウマと等価である。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


たとえばフロイトはこう書いている。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)


この不安がトラウマである。


経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (フロイト『制止、症状、不安』第11章B)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


フロイトにとって原不安(原トラウマ)は、出産外傷である。


不安は対象を喪った反応として現れる。最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, [] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


これ以外にも始原に近似する不安として離乳トラウマ等がある。ここではラカンの簡潔な文を引用しておこう。


フロイトの思考における最初期の悲惨な段階[la phase de misère originelle]は、出産外傷[traumatisme de la naissance]から、離乳外傷[traumatisme du sevrage]までである。 (Lacan, Propos sur la causalité psychique , Ecrits 187, 1946、摘要訳)

口唇的離乳と出産の離乳(分離)とのあいだには類似性がある。il у а analogie entre le sevrage oral  et le sevrage de la naissance (Lacan, S10, 15 Mai, 1963)



妄想の始まりとはこういった最初の「トラウマ=寄る辺なさ」からの回復の試みである。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)




一般に「幻想」と言われてきた内容は、ジャック=アラン・ミレール によってーー最晩年のラカンに依拠しつつーー「妄想」と言い換えられている。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire〔・・・〕


ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕あなた方は精神分析家として機能しえない、もしあなた方が知っていること、あなた方自身の世界は妄想だと気づいていなかったら。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。分析家であることは、あなた方の世界、あなた方が納得する仕方は妄想的であることを知ることである。Vous ne pouvez pas fonctionner comme psychanalyste si vous n'êtes pas conscient que ce que vous savez, que votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. Etre analyste, c'est savoir que votre propre fantasme, votre propre manière de faire sens est délirante (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)



「人はみな妄想する」の別の呼び方が、「ふつうの精神病」である。すなわち「人はみなふつうの精神病である」。


我々の臨床は本質的に二項性を持っていた。その結果はこうだ。長い間あなたがたは、臨床家を、分析家を、心理療法士を見た、患者が神経症なのか精神病なのかを問い彷徨う彼らを。あなたがたは見ることができる、あれら分析家は毎年毎年患者xについての話に戻るのだ、「決めたのかい、彼が神経症なのか精神病なのかを?」Avez-vous décidé s'il est névrosé ou psychotique ? そしてこう言う、「いや、まだ決まらない」Non, je n'ai pas décidé pour le moment。これが何年も続くのだ。明らかにこれは物事を考えるのに納得できるやり方ではない。


もしあなたがたが何年もの間、主体の神経症を疑う理由があるなら、あなたがたは賭けることができる、彼はむしろ「ふつうの精神病」un psychotique ordinaireだと。それが神経症であるとき、あなたがたは知らなければならない!それがこの神経症概念への貢献だ。神経症はウォールペーパーではない。神経症は明確な構造があると。


もしあなたが患者に神経症の明確な構造を認知しないなら、あなたは賭けることができる、あるいは賭けを試みなければならない、それは繕い隠された精神病、ヴェールされた精神病だとc'est une psychose dissimulée, une psychose voilée。(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


つまり旧来、神経症と言われてきた症状はヴェールされた精神病にすぎない。これは日本でも中井久夫がはやくから言っている内容である。


現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。


 私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。(中井久夫『治療文化論』1990年)



ここでミレールに戻ってもうひとつ引いておこう。


神経症においては、我々は「父の名」を持っている、正しい場所にだ。父の名は太陽の下にその場をもっている。そして太陽は父の名の表象だ。

我々は精神病において想定する、精神病を見出したとき、そして古典的ラカニアンの方法でそれを構築するとき、父の名の代わりに穴をもつ。これは明瞭な相違だ。


Dans la névrose, le Nom-du-Père est à sa place. Le Nom-du-Père a sa place au soleil et le soleil est une représentation du Nom-du-Père. On suppose que dans la psychose, lorsqu'on le détecte, et qu'on le reconstruit à la manière lacanienne classique, on a un trou à la place. C'est une différence claire.


ふつうの精神病において、あなたがたは父の名をもたない。しかし何かがある。補充の仕掛けだ。Dans la psychose ordinaire, vous n'avez pas de Nom-du-Père, mais quelque chose est là, un appareil supplémentaire.


あなたがたは言いうる。三番目の構造だと。…とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。On peut dire alors, eh bien, c'est une troisième structure. …En réalité, c'est la même structure. Au bout du compte, dans la psychose, si ce n'est pas une catatonie complète, vous avez toujours quelque chose qui rend possible pour le sujet de s'en sortir ou de continuer à survivre.


そしてある意味で、「真の父の名」はこのうまくフィットした「見せかけの父の名」以上のものではない。D'une certaine manière, le vrai Nom-du-Père ne vaut pas mieux que cela, simplement, c'est un make-believe qui convient bien. (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)





要するに神経症の「真の父の名」もふつうの精神病の「見せかけの父の名」も構造的には同じものだと言っている。したがって神経症もふつうの精神病だということになる。


結局、ある時期以降のラカンにとって、父の名とはトラウマの穴埋めに過ぎない。


父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

ラカンがS (Ⱥ)を構築した時、父の名は穴埋め、このȺの穴埋めとして現れる。Au moment où Lacan construit S(Ⱥ), le Nom-du-Père va apparaître comme un bouchon, le bouchon de ce Ⱥ.   (J.- A. Miller, L'AUTRE DANS L'AUTRE, 2017)

ラカンは穴をS(Ⱥ) と書いた。Lacan…trou qu'il a inscrit S de grand A barré. (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001)


ラカンはこう言った。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977)


この大他者は父の名のことであり、つまり父の名は存在しない、父の名は見せかけ(仮象)に過ぎないということである。


…………


なおポール・バーハウ  は「ふつうの精神病」概念を次のように批判していることを付け加えておこう。


◼️Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens.2011

DH)精神分析理論、そして古典的形式におけるラカン理論は、神経症の理論、無意識の理論、去勢の、欲望の理論です。あるポイントでーーこれはラカン読解のある仕方で、ということですが、ときに、セミネール 17、あるいはセミネール 20 に断絶(裂け目)が位置されると読みえますーー、このポイントにて、ラカンは、古典的ラカンの出発点を変えたかもしれない、と。そして、異なった理論の選択のもと、古典的ラカンを捨て去りさえした、と。


私は、ジャック=アラン・ミレールによって広められた用語に思いを馳せています。すなわち、「ふつうの精神病」、psychose ordinaire です。これが指摘しているのは、古典的神経症ーーヒステリーと強迫神経症ーーはまだ出現しはしますが、(あなたがすでに言及したように)以前より減少した、ということです。これは別の問題にかかわるに違いありません。この論拠の流れにしたがえば、精神分析が依拠する基盤、歴史的であると同時に原則的な基盤ーー無意識の理論、欲望の理論--はもはや効力はない。このカテゴリーでは、わずかなことしかなされえない。そう人は考え得ます。というのは、主体性の新しい形式、快楽との関係性を考えるために、もはや適切ではないからです。


PV)私は異なった仕方で定式化します。ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。


実に全く疑いはない。私たちは、もはや単純にフロイト理論や初期のラカン理論を適用しえないことは確かです。それはまさに単純な理由からです。すなわち、神経症は異なったものになった。社会が変わったからです。アイデンティティさえ変貌した。これを私もまた確信しています。…


でもこれは次のように言うことではない。すなわち、私たちは、古典的理論に現れた、数ある決定的語彙を使い続けえない、と言うことではない。不安の理論、快の理論、欲望の理論。それはただ現在異なったふうに転調されているのです。


変わったのは、大他者なのです。私たちは、大他者への数々の変化を感知しています。…結局、フロイト理論は、ヴィクトリア朝社会の解釈です。これは過ぎ去った。私たちは、今、ポストモダン社会、新自由主義社会のなかにいます。そう、私たちの理論はその新しい社会のなかの数多くの構造を認知しています。そして、エロス、タナトス、不安、快楽、ジェンダー、去勢のような数多くの根本問題も、その社会のなかに場所を持っています。だが、もはやヴィクトリア朝にあったものではない。(An Interview With Paul Verhaeghe, 2011)



ポール・バーハウはふつうの精神病概念の代わりにフロイトの現勢神経症概念を提出している。


この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢病理」(フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」)とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病 psychose ordinaire」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis by Jonathan D. Redmond、2013)


フロイトには「現勢神経症/精神神経症」概念があるが、ラカンの「サントーム/症状」にほぼ相当する。