2022年5月6日金曜日

言説基礎構造の歴史

 四つの言説[ Quatre Discours]の基盤にある言説構造[Structure des discours]は何よりもまず次のものである。



通常のラカン注釈書にはほとんどこの図式のみが示されている筈である。

ところでラカンは上の構造を1972年2月に次のように示し直した。



さらに1972年11月には次のように示している。



つまりはこうである。




とはいえ、享楽としての大他者[Autre comme Jouissance]と大他者の身体の享楽としての真理[Vérité comme jouissance du corps de l'Autre]における「大他者」とは何か。



もともとのラカンにとって大他者とは言語、父の言語である。


大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


だが、大他者は身体だというようになる。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967)

大他者の享楽ーーこの機会に強調しておけば、ここでの大他者は「大他者の性」であり、さらに注釈するなら、大他者を徴示するのは身体である[la jouissance de l'Autre - avec le grand A que j'ai souligné en cette occasion - c'est proprement celle de « l'Autre sexe »,  et je commentais : « du corps qui le symbolise ». ](ラカン, S20, 19  Décembre 1972)


この身体としての大他者は、原大他者としての母の身体である。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)


コレット・ソレールは、母は身体の大他者だと言っている。


母なる対象はいくつかの顔がある。まずは「要求の大他者」である。だがまた「身体の大他者」、「原享楽の大他者」である[L'objet maternel a plusieurs faces : c'est l'Autre de la demande, mais c'est aussi l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.](Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)


つまり大他者には「父の言語」と「母の身体」の二重の意味がある。


ジャック=アラン・ミレールが享楽には「身体の享楽」と「言語の享楽」の二つがあると言うとき、この含意がある。


享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる[on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98)


いま上に記してきた前提を受け入れて、ここでは先ほどの三番目の図式をミレールの簡潔な表現にて置き直そう。



見せかけ[semblant]は、シニフィアン[signifiant]に置き換えてもよい。


見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)



身体の享楽[jouissance du corps]とは後年のラカンにとっては実は重複語に近い。なぜなら身体自体が享楽となったのだから。


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


そしてこの享楽の身体は穴(トラウマ)である。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](lacan, S21, 19 Février 1974)


現実界の享楽とはフロイトの欲動のことであり、享楽の身体の穴とは欲動の穴である、ーー《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.]》(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


そして剰余享楽は穴埋めである。


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。穴と穴埋めである[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir…le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


これらの用語をもとに、先ほどの図を置き直せば、次のようにもなる。




穴ーー「身体の穴=享楽の穴」ーーとは主体の穴でもある。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet.] (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

主体の穴 [le trou du sujet ](Lacan, S13, 08 Décembre 1965)


穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $

[A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $]](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

私は、斜線を引かれた享楽(享楽の穴)を斜線を引かれた主体と等価とする[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)



したがって例えば次のようにも置きうる。





主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)



上の図で、《シニフィアン私[signifiant « je » ])》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)としたのは、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]のことである。


ラカンは、主体の不在[l'absence du sujet][$]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 [rond brûlé dans la brousse des pulsions]》(E666, 1960)と。欲動の薮、すなわち享楽の藪[la brousse de la jouissance]である。享楽のなかの場は空虚化されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場は、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008, 摘要訳)



…………………


※付記


なお享楽のシニフィアン化は欲望であり、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]とは欲望の主体[le sujet de désir]である。


享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


かつまた主体の穴とは、先ほどの見たように欲動の穴、かつ穴は身体であり、欲動の身体[le corps de la pulsion]である。


エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


そして剰余享楽とは昇華ーー欲動の昇華[Triebsublimierung]ーーである。


間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir ](J.-A. Miller,  L'Autre sans Autre May 2013)



つまり次のようにも置ける。



フロイトは欲動の昇華は困難だと言っている。

抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む[ungebändigt immer vorwärts dringt]」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



フロイトは「欲動の身体」のことを異者身体[Fremdkörper]と呼んだ。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体[Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation … der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004)



晩年のラカンは次のように言ったが、これがフロイトの欲動の身体=異者身体である。

われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)

ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté.]  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


このひとりの女としての異者身体の反復が女性の享楽である。



最後に言語の享楽[ la jouissance du langage]と身体の享楽[la jouissance du corps]の図に戻ろう。言語の享楽はファルス享楽[la jouissance phallique]であり、身体の享楽は女性の享楽[la jouissance féminine]である。したがって次のようにも置ける。





ここで女性の享楽はセミネールⅩⅩ「アンコール」の女性の享楽とは異なり、男女両性にある身体の出来事の享楽であることに注意。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕


ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


フロイトの思考の下では、この身体の出来事[l'événement de corps]ーーフロイトはトラウマ的な自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper]と言ったーー、この出来事により固着が生じ、《異者身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)とした。