2022年5月13日金曜日

固着としての境界表象S(Ⱥ)の両義性


◼️境界表象[Grenzvorstellung]と翻訳の失敗[Versagung der Übersetzung]


初期フロイトはフリース宛書簡でこう書いている。


抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる[Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung ](Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

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翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧 Verdrängung」呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896)


この翻訳の失敗(としての境界表象)は、最晩年には次のように現れる。


抑圧されたものは異者身体として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben] 


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである。[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


抑圧によって、異者身体がエスに置き残されることが、翻訳の失敗[Versagung der Übersetzung]=境界表象 [Grenzvorstellung ]の意味である。




◼️置き残しZurückbleibenリビドー固着の残滓[Reste der  Libidofixierung]


先の文にある "bleibt (als das eigentliche Unbewußte im Es) zurück" という置き残される・居残る[zurück-bleibt」ーー英訳ならstay behindーーは次の形でも現れる。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残し[Zurückbleiben]がある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


置き残し[Zurückbleiben]=リビドー固着の残滓[Reste der  Libidofixierung]である。


◼️ 異者身体[Fremdkörper]とリビドー固着の残滓[Reste der  Libidofixierung]とエスの欲動蠢動[Triebregung des Es]


ここまで見てきたように異者身体[Fremdkörper]とは(エスに置き残された)リビドー固着の残滓[Reste der  Libidofixierung]であり、これがフロイトにとっての原無意識[eigentliche Unbewußte]である。


そして固着とは原抑圧のことである。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


初期フロイトには原抑圧概念がないが、フリース宛書簡で言っている境界表象 [Grenzvorstellung ]とは、原抑圧としての固着のことである。


つまり境界表象 [Grenzvorstellung ]=原抑圧[Urverdrängung]=固着[Fixierung]である。


フロイトは1926年に次のように書いている。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen (Nachverdrängung) sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


すなわち抑圧概念には原抑圧と後期抑圧が含まれる。後期抑圧は言語内の抑圧に関わり言語内部で傍に押しやることである。他方、原抑圧とは言語外に身体的なものを放り投げる(排除する)ことである。先の『症例シュレーバー』における原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]とは、《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』1920年)のことであり、ここに固着が発生する。


したがって『制止、症状、不安』で、抑圧された欲動蠢動[ verdrängende Triebregung]とする時の「抑圧」は「原抑圧」である。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert.] 〔・・・〕

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


この異者身体はトラウマを意味する。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体 [Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


フロイトにとって自我の治外法権にあるエスに置き残された異者身体とはトラウマを意味するのであり、これがリビドー固着の残滓である。


つまりトラウマ[Trauma]は、異者身体[Fremdkörper]=エスの欲動蠢動[Triebregung des Es]=リビドー固着の残滓[Reste der  Libidofixierung]に関わり、これらが境界表象 [Grenzvorstellung ]を意味する。


事実、1915年のフロイトは欲動を境界概念[Grenzbegriff]と定義している。


欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)


ドイツ語の"begriff"は"vorstellung"と同義語として使われる場合が多い。


少なくともここでの文脈におけるフロイトにとっては、境界表象 [Grenzvorstellung ]=境界概念[Grenzbegriff]であるのは間違いない。


ラカンはこの表現を境界構造[une structure de bord]と呼んだ。


享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.  ] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)


ラカンにとって穴とはトラウマのことであり、事実上、欲動の現実界である。


現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。穴は原抑圧と関係がある「il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.…La relation de cet Urverdrängt」(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


欲動の穴は原抑圧=固着に関わるとあるが、セミネール23でも繰り返している、《私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.]》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)。すなわち境界表象としての穴の配置は、「トラウマの配置」「欲動の現実界の配置」である。


そしてこのトラウマとは、リビドー固着の残滓=異者身体である。


◼️異者身体[Fremdkörper]と不気味なもの[Unheimliche]


フロイトはこの異者を「不気味なもの」とも呼んだ。


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)



フロイトは「同一のものの回帰という不気味なもの」としつつ、欲動蠢動としての内的反復強迫が不気味なものだとしている。


同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr ]〔・・・〕

心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫[Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges」の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越[über das Lustprinzip] ほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格[dämonischen Charakter]を与える。〔・・・〕

不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである[daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


この不気味なものの回帰がフロイトにとっての永遠回帰であり、反復強迫である。


同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


そして反復強迫の別名が死の欲動である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



不気味なものの回帰[unheimliche Wiederkehr]=永遠回帰[ewige Wiederkehr]=死の欲動[Todestriebe]である。



◼️超自我[Überich]と固着[Fixierung]と死の欲動[Todestriebe]


ところで最後のフロイトの定義において超自我は固着である。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


欲動の固着(リビドーの固着)に伴って自己破壊欲動が生じる。これが死の欲動である。


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


超自我は自我とエスを分離する機能をもっている。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


高等動物でさえ超自我がありうると想定されているようにこの超自我は乳幼児の最初の世話役である母に関わる。


したがって固着としての超自我、つまり超自我への固着は母への固着である。


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


ーーここでのエロスとはリビドーである、《すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden]》(フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年

つまり母へのエロス的固着の残滓 [Rest der erotischen Fixierung an die Mutter]とは母へのリビドー固着の残滓[Rest der Libidofixierung an die Mutter]と等価である。


残滓とは先ほど見たように、異者身体がエスに置き残されることである。

とすれば、母は異者身体なのであろうか。



◼️残滓=モノ=母=異者身体=不気味なもの=固着=現実界の享楽=穴(トラウマ)=死の欲動

初期フロイトはモノ概念について次のように言っている。


我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

(自我に)同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


ここでラカンを導入しよう。


セミネールⅦのラカンは、この自我に同化不能の残滓としてのモノを、母なる異者(異者身体)としている。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


この残滓としてのモノは対象aとなる。


セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる[dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a.] ( J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un - 06/04/2011)


ここではセミネールⅩから一連の残滓に関わる発言を引こう。


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )


ーーまずモノとしての残滓(a)が、セミネールⅦと同様に、フロイトの母なる異者身体であることが示されている。


こうもある。


享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


ーーつまり残滓としての母なる異者身体は、享楽であり固着であるということである。


上に後年のセミネールⅩⅩⅡで、《異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich]》 (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)と言っているのを見たが、これ自体、セミネールⅩにある。


不気味な残滓がある[il est resté unheimlich](Lacan, S10, 19  Décembre  1962)


ーーすなわち不気味な異者、不気味な母なる異者である。


そしてこの対象aが穴、「享楽の穴=欲動の穴=現実界のトラウマ」なのである。


対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン, S21, 19 Février 1974)


セミネールⅩⅩⅢからも確認の意味で付け加えよう。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


ーーまずモノという現実界のトラウマである。


そしてこのモノが現実界の享楽であり、死の欲動である。


享楽は現実界にある…現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。

La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel qu'elle ne puisse être pensée. (Lacan, S23, 16 Mars 1976)



以上、ラカンにおいて次の用語群は基本的には同じ内実をもっている。



もっとも全き同一というにはいくらか微妙なところがある。それについては後に示す。

※対象aはこのリアルな残滓以外にも別の種類の対象aがあるので注意[参照]。



◼️S(Ⱥ)というマテーム


ここでS(Ⱥ)というラカンマテームを導入しよう。このマテームは実に意味深いのである。

これは穴Ⱥのシニフィアン、穴の表象と読む。トラウマの表象である。


大他者のなかの穴の表象をS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)


このシニフィアンが冒頭に示した境界表象であり、固着のシニフィアンである。


境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

固着はS(Ⱥ) に関わる [Fixation… concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


さらに超自我、欲動のシンボルである。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

斜線を引かれた大他者のシニフィアンS (Ⱥ)ーー、私は信じている、あなた方に向けてこのシンボルを判読するために、すでに過去に最善を尽くしてきたと。S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーーJe crois avoir déjà fait mon possible jadis pour déchiffrer pour vous ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)


ラカンにとって《すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort]》(Lacan, E848, 1966年)であり、S(Ⱥ)は死の欲動のシンボルということになる。


さらに現実界の症状、つまりトラウマの症状のシニフィアンでもある。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


要するにS(Ⱥ) は先のバーハウが示しているように固着のシニフィアンである、《サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要


さらに母なるモノのシニフィアンでもある。


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


さらには異者、不気味なもののシニフィアンでもある。再掲しよう、

ーー《モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


くどくなるが、S(Ⱥ)は対象aでもあり、「残滓=固着=現実界の享楽」のシニフィアンである。

言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


以上、このS(Ⱥ)は基本的にはここまで記してきた用語群をすべて表す。あくまで「基本的には」である。


例えば次のように並べてみると奇妙なことに気づくはずである。



穴の表象S(Ⱥ)が穴Ⱥと等置されている。あるいはミレールは、《S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ]》(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)と言っているのに、ラカンは超自我は穴Ⱥに関わると言っている。



私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)



だがミレールはこうも言っているのである。


斜線を引かれた大他者 Ⱥ (穴)の価値を、ラカンはS(Ⱥ) というシニフィアンと等価とした[la valeur de poser l'Autre barré[Ⱥ]…que Lacan rend équivalent à un signifiant,  S(Ⱥ)  ]  (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas 18 décembre 1996)



確かにラカンは、ふつうは穴Ⱥとすべき筈のときにS(Ⱥ) と言っているときもある。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)


なぜそうなのか? これは最後に記す。



◼️固着としての境界表象の両義性


ここでは先にフロイトの用語からいくつかを抜き出して自我エス超自我の図を利用して示すことにする(自我とエスの境界には最も代表的な用語「固着(Fixierung)」を置く)。



ここで最も重要なのは、固着とは二重の要素を含意していることである。


固着概念は、身体的要素と表象的要素の両方を含んでいる[the concept of "fixation" … it contains both a somatic and a representational element](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


次にミレールが言っているのも上のバーハウが言っているのと同じ意味である。


S(Ⱥ) はシニフィアンプラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006)


穴とあるが身体のことである。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


そしてこの身体がトラウマとしての異者身体[Fremdkörper]である。


われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


つまり固着には表象(シニフィアン)と異者身体の両方を含意している。この身体は固着によってエスに置き残された残滓としての異者身体である。したがって穴の表象S(Ⱥ)は、表象だけを示すのではなく、穴Ⱥをも示すのである。


これが上の図で示したことであり、かつまたフロイトが次の文で言っていることである(あるいは冒頭で示した「翻訳の失敗(Versagung der Übersetzung)」)。


人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年)



以上、固着という「境界表象=トラウマの表象」の両義性について見た。


…………


※付記


例えば、ラカンから引き継いだセミネール最初期(1982年)のミレールはこう言っている。

超自我は斜線を引かれた主体と書きうる [le surmoi peut s'écrire $] (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


そして1989年には次のように言う。


超自我の真の価値は欲動の主体である[la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. ](J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


上に示したように超自我と欲動のシニフィアンはS(Ⱥ)である。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]…ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)


これをそのまま受け入れれば、$≡S(Ⱥ)となる。


ところが2002年には$≡Ⱥと言うようになる。


穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


ラカン自身、《現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet. ]》(Lacan, S13, 15 Décembre 1965)と言っている。


さてどっちが正しいのだろうか?

私は後年の$≡Ⱥが正しいと見做していたが、S(Ⱥ)というシニフィアンの両義性を視野に入れるとどちらも正しいと言いうるかもしれない。


ラカンは穴をS(Ⱥ)と書いた[un trou qu'il a inscrit S de grand A barré].  (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001)

S(Ⱥ) はシニフィアンプラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006)


ジャック=アラン・ミレール自身、長いあいだ頭を悩ませてきたのではないか。ときに私はそう感じることがある。


例えば次の立場を取ればどうか。


ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ](Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


フロイトにとって自我分裂とは現実と欲動の分裂である。


欲動要求と現実[Realität]の抗議のあいだに葛藤(衝突)があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている[Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. ](フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


あるいは自我とエスの分裂である。


自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


上に見たように超自我は自我とエスを分裂させる審級である。


超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。

Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


この立場を取れば、主体$は超自我S(Ⱥ)である。他方、エスに置き残された身体という立場を取れば、主体は異者、つまり主体は穴Ⱥである。



なお1988年のミレールはこう言っている。


われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる[à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial]


母の上の斜線は享楽の徴示的無化作用と同一である[la barre sur M étant homologue à la mortification signifiante de la jouissance]〔・・・〕


われわれは斜線を引かれた享楽と斜線を引かれた主体を同一的な価値として取る[nous avons la valeur que prennent alors homologiquement J barré et S barré](J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988)


つまり斜線を引かれた享楽=斜線を引かれた母=斜線を引かれた主体としている。





これは次のラカンに相当する。


主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。[Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet] (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

モノは母である[das Ding, qui est la mère](Lacan, S7, 16 Décembre 1959)





そして究極の喪われた対象は胎盤だと言っているわけで、この立場を取れば、$はS(Ⱥ)ではなく、Ⱥだろう。


例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)

喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)





なおラカンは異者身体、つまり穴=トラウマ[Ⱥ]について次のように言っている時期もある。


子供はもともと母、母の身体に生きていた[l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère] 。〔・・・〕子供は、母の身体に関して、異者身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である[il est,  par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses   de son chorion dans …l'utérus](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)



他方、晩年にはひとりの女はサントーム=異者としている。


ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté. ] (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


異者は上に見たようにモノ=母であり、サントームはミレール2009の「サントーム=モノの名」を受け入れるなら「母の名」でありS(Ⱥ)。


そしてこの晩年のラカンを次の二文に重ね合わせうるなら、$はS(Ⱥ)となる。


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger] (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。 ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté, (Lacan, S16, 14  Mai  1969)


主体は異者であるにしろ、ときにȺ、ときにS(Ⱥ)であり、ここには厳密さはない。



Aは自我、Ⱥはエス、S(Ⱥ)は超自我あるいは固着である。


フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者Aのあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)



なおジャック=アラン・ミレールは最後のセミネールでS (Ⱥ)は欲動のクッションの綴じ目と言っている。


S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である[S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


これはまさに境界表象のことである。クッションの綴じ目は欲動の穴を穴埋め(防衛)するわけではない。


S(Ⱥ)は穴に敬意を払う。S (Ⱥ)は穴埋めするようにはならない。[« S de A barré » respecte, respecte le A barré. Il ne vient pas le combler]. (J.-A. MILLER, Illuminations profanes - 7/06/2006)