中井久夫は権力欲をめぐって繰り返し書いている。
人間には権力欲と知識欲とがある。どちらも飽くことをしらない点では似ている。権力欲はサル、いやそれ以前からであろう。知識欲は人間で発達した。しかし、古いだけに権力欲のほうが強い。権力欲が知識欲を犯し、道具にしているのが社会の現状でもある。そうである限り、大学も知の場ではない。教育だけでなく、研究も、今や外国の評価機関による論文評価をもとにした数字が教授選考の時に真っ先に問題となる。 企業と同じく、外国人に採点していただいているのである。しかし、これは権力の手段としての研究である。 そろいう世界になじまない知的少数者のために私は、あなたがたのほうがまともなのだというメッセージを書きたい。また親にも識者にも考えていただき、せめてそういう子をそっと見守ってほしい。(中井久夫「君たちに伝えたいこと」2000年、朝日新聞) |
うっかりすると知識欲は権力欲の手段になりさがってしまう。権力欲はサルやその他の動物にも立派にある。知識欲は動物にはないとはいわないけれど、人間が人間であるもとはこちらだろう。ただ、新しいだけ知識はひ弱く、権力欲は古いだけしぶとい。基本的な三大欲望という睡眠欲、食欲、性欲だって、権力欲の手段になりさがることが少なくない。 そうなると何がどう変わるか。三大欲望は満たされるとおのずとそれ以上求めなくなり、おだやかな満ち足りた感じに変わる。ところが権力欲だけは満たされれば満たされるほど渇く。そしてその手段になった他の欲望は楽しさ、満足感がみごとに消え失せる。 仙人になれというのではない。けれども、知的好奇心は、勉強や学問が権力欲の手段となると同時に見事に消え失せる。知識をふやそうとしても、楽しさも満足感もないのだから、炎天下のアスファルトの道を歩くように辛いだけになって心身の健康をこわしかねない。知的好奇心だけは「よい学校」に入る手段にしてしまわないことだ。でないと、かりに「よい学校」に入っても面白くもなんともない。教授になっても多分そうだろう。(中井久夫「秘密結社員みたいに、こっそり」『二十一世紀に希望を持つための読書案内』(筑摩書房、2000年12月)への寄稿) |
ひょっとして本来の中井久夫は「途方もない権力欲」の人かもしれない。 |
私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (中井久夫「編集から始めた私」1998年『時のしずく』所収 ) |
ーーこの権力欲を飼い馴らすために多くの苦労をした人かもしれない。 別の言い方をすれば「とてつもない差別主義者」かもしれない。 |
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。〔・・・〕個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。 差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。〔・・・〕 些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」1997年 『アリアドネからの糸』所収 ) |
ーー人がいじめ体験を持っていれば権力欲が生じるのはやむえない。
中井久夫は自らのいじめ体験についてこう書いている。
笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」1984年初出『記憶の肖像』所収) |
そもそもいったい誰が「殺せ、殺せ」という幻の声を内に聞きつつ、なおひとりも殺さずに、むしろ恐縮して生きているというりっぱな生き方ができるであろうか。私だと一人二人は危ういおそれがある。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」1994年『 精神科医がものを書くとき』所収 ) |
あるいはーー、
たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年) |
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収) |
震災トラウマにより《私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた》とはフロイトの記述通りである。
体験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を呼び起こす。 eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (…) ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年) |
トラウマとはフロイトにとって固着を意味する。 |
外傷神経症は、トラウマ的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation](フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年) |
トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen](フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年) |
上にあるように幼児期の出来事もトラウマ的特徴を持っている。これが先の中井久夫が《トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである》と言っていることである。
私が気づいた範囲で、中井久夫が自ら記している幼児期の出来事は、父母あるいは祖父にかかわる出来事である。
「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。〔・・・〕あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(中井久夫『治療文化論』「あとがき」1990年) |
父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 〔・・・〕 私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった。うっかり、四月から出る予定といっただめであろう、その一〇日前、「一〇日後、食べる」と言って、食も水も断った。一〇日目、棺の前に箸一本をさしたご飯が供えられた。私にこれ以上の迷惑をかけたくないという母の意志を秘めた最後のユーモアであった。(中井久夫「私が私になる以前のこと」2000年『時のしずく』所収) |
私が憶測する限りで、中井久夫の「エディプス的超自我」は父ではなく祖父である。だが戦時中その祖父に失望した。 |
最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993年『家族の深淵』所収) |
とすれば、「前エディプス的超自我」しか残っていない。 |
少女のエディプスコンプレクスは、前エディプス的母拘束[präödipale Mutterbindung] の洞察を覆い隠してきた。しかし、この母拘束はこよなく重要であり永続的な固着[Fixierungen]を置き残す。Der Ödipuskomplex des Mädchens hat uns lange den Einblick in dessen präödipale Mutterbindung verhüllt, die doch so wichtig ist und so nachhaltige Fixierungen hinterläßt. (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年) |
ーーここでフロイトは少女の事例を掲げているが、この母拘束、つまり母への固着はもちろん少女に限らない。そして拘束=固着である。《対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ]》(フロイト「欲動とその運命』1915年) 前エディプス的超自我は破壊欲動の固着にかかわる。 |
我々に内在する破壊欲動の一部は、超自我へのエロス的拘束を形成するために使用される [ein Stück des in ihm vorhandenen Triebes zur inneren Destruktion zu einer erotischen Bindung an das Über-Ich verwendet.](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』8章、1930年) |
ーーここでの超自我へのエロス的拘束とは、「拘束=固着」ゆえに母へのエロス的固着と等価である。 |
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
この母なる前エディプス的超自我へのエロス的固着により、人はみな破壊欲動をもつ。これが中井久夫が次のように書いている意味である。 |
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
※附記 エディプス的超自我は前エディプス的超自我を飼い馴らす機能をもっている。先に中井久夫は「前エディプス的超自我」しか残っていないとしたがこれはいくらか言い過ぎであり、実際には人は後年の人生で幼児期のエディプス的超自我の代わりを探し求める。中井久夫ならヴァレリーである。 |
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。 (中井久夫「ヴァレリーと私」2008年『日時計の影』所収) |
だがそのヴァレリーもエディプス的超自我として十分に機能しなかったのは、以下の記述で明らかである。 |
「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。〔・・・〕 |
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。 しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。〔・・・〕 |
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。 二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。 |
しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。 |
他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
……………
ここでは中井久夫には絞って記したが、権力欲あるいは差別欲は基本的には誰にでもある。 |
中井久夫の『いじめの政治学』から繰り返せば、《差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない》である。 |
『ファウスト』には、こうある。 |
グレエトヘン(マルガレエテ) 今までは余所の娘が間違でもすると、 わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。 余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、 わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。 人のした事が黒く見える。その黒さが 足りないので、一層黒く塗ろうとする。 そして自分を祝福して、えらい人のように思う。 ーーゲーテ「ファウスト」森鴎外訳 |
このように自らの権力欲がふとした弾みで表出してしまったとき、内省して意識することが最低限、最も重要であろう。 |